『夜桜の下で』
小田舵木
『夜桜の下で』
濁り暗くなった紺が染め上げる夜空。
そこに
春は過ぎ去ろうとしている。
俺はそれを公園のベンチでぼんやりと眺めて、ビールを傾けていた。
時間ってヤツは無情だ。
桜の花びらが如く、ハラハラと舞い落ち。過ぎ去っていく。
俺はもう若くはない。
たった30だが。もう青年期は過ぎ去ろうとしている。
もうすぐ中年と呼ばれる年齢で。
これまでに何を成して、何を成し得なかったのだろうとか考えてしまう。
男性の平均寿命は81歳だという。
後、50年、半世紀は時間が残っているらしいが、たった半世紀とも言える。
俺は。この先の人生に何を求めているんだろう?
煙草に火を着け考える。
子ども?結婚なんて考えてない、配偶者を得るなんて遠い話のように思える。
仕事?俺は日々のルーチンをこなし、日銭を稼ぐ以上の事は志向してない。
カネ?あれば困らないが、無いのなら無いなりに生活はできてしまう。
ある作家は言う。『人生とは失うプロセスである』と。
人生を30年生きてきて。俺はそれをひしひしと感じている。
俺の人生にもそこそこのドラマはあり、そこそこのモノを失った。
失ったモノに
煙草を足元に落として踏んづけて。携帯灰皿に仕舞って。
俺は再び桜の木に、桜の花に目をやって。
その儚さを思う。
一瞬の開花。一年に一度の大イベントに向けて生きる桜の木。
人生もそういうモノじゃないか?とふと考える。
夜桜。
俺は桜の花びらに吸い寄せられて、この公園に来た訳だが。
何か、何かを忘れているような気がした。
今は4月の上旬…昔、何かがあったはずなのだ。
確か―昔もこうやって、夜の桜の木を。なんとなく眺めていたような気がするのだが…
俺は記憶の中に潜り込んで。
よくよく考えてみる。
どうして、今、このシチェーションにデジャ・ビュを感じているのか?
引っかかる何か。
俺の頭の奥底に仕舞われた記憶。
確か、あん時も夜桜の下、酒をかっ喰らっていたんだ。
酒をかっ喰らっていたんだから、成人してからの記憶。
この10年の間に何があったっけ?
ただ、ひたすら働いていたように思うのだが…
ああ。思い出した。
10年前のあの夜桜。
その日、俺の知り合いが亡くなったのだ。
昔、俺は引きこもり専門団体の寮に居て。
その時の先輩が寮を卒業して、一人暮らしを始めた矢先に自殺したのだ。
首吊り自殺。自室での事だったらしい。
俺と寮の連中は。夜桜の下で酒盛りをしていた時にその知らせを聞いて。
すっかり酔が覚めちまったのだった…
人の死を忘れていた事にショックを受ける。
人の死の本質は忘却にある―とはよく言う事だが…まさか自分がその当事者になろうとは。
桜。
そこに死の記憶が結び付く。
俺は散りゆく桜の中に先輩の面影を探してみる。
だが…先輩の顔をよく思い出せない。
もう、10年も前の事で。その上、俺はその先輩と仲が悪かった。
そう。俺と亡くなった先輩は犬猿の仲だった。
俺の何かが気に食わなかったらしく。俺と彼は寮での生活中はお互いに口も効かない、顔を合わせない間柄だった。
だが。あの夜桜の下の酒盛りの前。
何かの会合で彼と和解したんだっけな。
俺と先輩の共通の友人が間に入って、和解したのだ。
その2週間後。先輩は自ら死を選んだ。
先輩の死から。
10年が経とうとしているのだ。
俺は驚く。あの葬式に立ち会ったのが昨日のように思い出せるからだ。
家族だけの密葬。そこに俺は立ち会った。
棺に収められた先輩の首には。ロープの締め跡がハッキリ残っていた。
俺達は微妙な顔で葬式に臨み。微妙な顔で帰った事をよく覚えている。
先輩は30でこの世を去った。俺も今年30である。
年上に思えた先輩と同い年になって。
昔は先輩の事を30の癖にガキっぽい、とか思っていたのだが…まあ、30なんてまだまだガキであるとも言える。
俺は桜を見やる。
桜の花はひらひらと落ちていく。そこに人生の儚さを感じる。
ふわっと落ちて。地面に消える。
人生なんて。そういう一瞬モノな訳だ。
その一瞬モノの人生を。
俺は上手く生きれているんだろうか?
今の30になった俺は。10年前より成長しているのか、はたまた?
俺は彼が行けなかった世界に生きている。
俺は彼を置いてきぼりにして30になっている。
時は無情なのだ。放っておけば、あっという間に過ぎていく。
『桜の木の下には死体が埋まっている』なんて言い出したのは梶井基次郎だったか。
確かにある意味そうだ。俺の人生においては。桜の木の下には先輩が埋まっている。
そして。俺は年一で思い出すハメになる。あの男は死んだ、のだと。
だから。俺は。
桜に妙な想いを抱いているのかも知れない。
そう、毎年桜を見る度に心がかき乱されるのだ。
ああ。思いだした。
確か先輩は選りに選って4月1日に亡くなったのだ。
エイプリルフールの晩の夜桜の下の酒宴で。俺達は訃報を聞いたのだ。
あん時は。誰かが「エイプリルフール!」と叫ぶのを期待したもんだが。
現実ってヤツは無情で。マジで先輩は死んでやがった…冗談キツイぜ。
俺は煙草を取り出して。
2本火を着け。そのうち一本を傍らに置く。
先輩、煙草は吸わなかったが。和解の席の酒宴で俺が無理に吸わせたのだ。
俺が
そもそも。俺も引きこもり専門団体の寮を出て、遠くに引っ越しちまったから、墓参りに行けてない。
俺は煙草を吸い込んで。紫煙を肺に満たして。吐き出す。
濁った紺の夜空に。紫煙が立ち上る。
ビールのロング缶は生ぬるくなっている。
それを無理やり流し込む。
そして俺は立ち上がる。
何時までも夜桜を見ている訳にもいかない。
この桜の木の下には先輩が埋まっている…俺は。その桜の木を後にしなければならない。
ビールで酔った千鳥足。踏み潰す桜の花。
俺は先輩の死を。一生忘れる事は無いんだろうな、と思う。
なにせ、桜の木の下には先輩が埋まっているのだから。
また。春になったら。
俺はまた彼を思い出す。
そして自分の人生を振り返るハメになる。
それまでに。もう少しマシな自分になろう、と思う。
なにせ。俺は彼の行けなかった世界に生きているんだから。
もう少し、やりようはあると思う。
『夜桜の下で』 小田舵木 @odakajiki
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