富籤(とみくじ)

宮口拓子

第1話

「南野じゃねえか、どうしたこんな所で」

 事務所の壁に貼りつけてあるポスターを見ていたら先輩芸人が声を掛けてきた。

「いや、何すかこれ」

 その人も眉間にしわを寄せてそれを見た。

「事務所が面白がってやるみたいだな」

「いや、俺ら物扱いされてますやん」

「芸人なんてそんなもんよ。ファンに一口千円出してもらって優勝したらコンビとファンで総取りなんだから夢はあるじゃねぇか」

 来月、小劇場GEIGEKIで開催される『芸人宝くじ』というイベントらしい。その日の漫才で審査員から一番多くの票を集めたコンビが、自分達のくじを購入したファンと宝くじ当選の如く賞金を獲得できる大会になっている。

「まぁ、何にせよ頑張れや。この前のネタ面白かったよ」

「ありがとうございます!」

「おう、じゃあな」

 離れていく背中を見つめながら思った。

―あの人別のコンビにも同じようなこと言ってたような

 身銭を切って自分達のくじを買ってくれそうな人など考えてみても思いつかない。以前仲間内で大喜利まがいのことをしていた時に『明日来日するハリウッドスターの名前』をお題に出されて苦し紛れに何も知らない仲間に対して『ジャン・ポーレ・ジョーンズ』と答えてそこそこに笑いが起きたものだったが、今回ばかりはお手上げである。逆に金を返さなければならない相手は大勢心当たりがあるのが惨めなもので、先日も実姉から借金返済の催促があったばかりだ。

―今の俺らじゃ優勝は厳しいか

 事務所の廊下を歩きながら先輩に酒のひとつでもせびればよかったと後悔した。

 エレベーターに向かう途中で通りかかった小洒落たスペースには所狭しとライブやイベントを告知する張り紙が並んでいる。右目の端で流し見ていたその一枚に思わず足を止めた。

 後輩芸人の単独ライブ。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのそのコンビTは数年前、自分達を含めた鳴かず飛ばずの芸人からひがみや嫉妬としか言いようのないイジリを受けていた。

「おまえらサラブレッドなんやろ、ネタ見せてくれや」

 アマチュアながら高校時代に全国高校漫才選手権『漫才甲子園』で準優勝したコンビだった。鳴り物入りで事務所に入ってきており、漫才のレベルも当時から若手の中で頭一つ抜きん出ていた。見た目にも華があった。それが一部の先輩芸人の気に障り楽屋でむりやりネタをやらされていた。

「おー、お手本みたいなネタやな。すごいわ」

 当然ウケるわけはない。笑わないことでそのイジリは成立するのだから。笑うことはその場の空気を読めていないことになる。そんな言葉だけ残してその先輩達は楽屋を後にする。他の連中も気まずそうに一緒に席を外したりその場で苦笑いしたりした。

 痛快な不良映画のワンシーンだと楽しんでいる自分が居た。Tのふたりは完全に選ばれた人間で、自分が一番欲しいものを持っている。そんな後輩に年齢以外に敵うものなど何もなく芸人という超縦社会を利用して先輩風を吹かすことしかできない。そうしていれば自分の面目だけは保てる。

 エレベーターに乗り込み事務所を出た。振り返って表から見る建物は辺りでも有数の広々とした敷地の上にそびえ立っている。元々は大阪で始まった小さな会社だが、今では東京に進出し巨大な本社を構えるまでになった。このビルを眺めていると自分達も一般の会社員と同じようなものだと思えてくる。

 給料は歩合制のため人気が出ればこんな強欲事務所に所属していようが相当な額を稼げるのがこの世界である。一方で売れない芸人の懐事情は悲しいもので、奨学金の返済を憂いているそこらへんの学生など可愛く思えてくる。これだけ毎日舞台で貢献している芸人を売り出す努力を事務所に期待しても、そんなリターンはいつまで経ってもやってこない。借金や先輩の奢りで何とか食いつないでいる実態を連中は本当に理解しているのか。

 辺りを見ると若い子連れ夫婦の散歩姿が目に入った。三人とも曇りひとつない笑い顔を見せる。連れている子供は幼稚園児くらいだろうか。自分が学生時代に勉強のひとつでもまともにできていたなら今頃違った人生だったのかもしれない。

 漫才を観て育った。気に入った芸人のネタは克明に記憶していた。声色、話すスピード、ツッコミの間合い、イメージ通りに思い出してはひとり笑いを浮かべた。

 自分が一番面白いと根拠のない自信を持っていた。高校を卒業した後、周囲の反対を押し切って芸人になった。

「あんたほんまに芸人で食えると思ってんの?」

「売れるかどうかは運次第や。厳しいで、あの世界は」

 そんなことは百も承知だった。ただ自分が何者かになれるとしたらお笑いしかない。漫才しかない。

 それからは笑いに人生を賭けてきた。他にやりたいことなどなくできることもなかった。最初の舞台は養成所時代の小さな劇場でのライブ。声が震えた。思い出す時はいつも頭を振り回してしまう。一部の同期は笑いを取っている。自分の笑いは間違っているのか。彼らとは何が違うのか。売れている先輩の漫才を見よう見まねでネタを書いた。最近ではようやく徐々に舞台でも笑いが起きるようになってきたが、日々悪戦苦闘しながら観客の前でもがく自分自身の方がよっぽど当選することのない宝くじを買い続けている気分にさせられる。

 ふと相方の顔が浮かんだ。

 連絡でも入れてみるかと携帯を握ったが、やめておいた。

 彼女とも別れパトロンがいなくなったことで金は底をつき、コンビニのバイト代を拝み倒して前借りした。芸人として売れる気配もなかった。今のままでは借金に手一杯で自分で生計を立てることなど想像もできない。返済の手立ても思いつくのはあの『芸人宝くじ』とやらに参加するくらいのものである。

 乗り賃すらも出し惜しむ気持ちだったが事務所からは電車に乗り、少しでも安く済まそうと最寄りの二つ前の駅で降りた。自宅までは歩いて1時間くらいか。三階建ての賃貸アパートは共同の玄関から階段、部屋に続く廊下までもが昼間でも薄暗く帰る気も失せた。唯一気に入っていたのは一階の道路寄りに面した場所で営業している銭湯で、たまに立ち寄って風呂上りに一杯やっている時はなんとも言えない贅沢な気分にさせられる。

 誰か他の先輩に一杯奢ってもらおうかと考えながら歩いていると、通りの右手にある石垣が目に入った。石垣は自分の背丈よりも少し高いくらいで、木々を纏いながら数メートル先まで続き右側の土地一帯に広がっているようだった。城壁か何かかと近づいて見ると「八幡宮」と彫られた石碑がある。その横の入口から階段が伸びていて、その先にはまた古そうな石でできた鳥居が見える。確かにこのあたりに神社があると聞いたことはあったが、最寄りの駅でもないため気にしたことはなかった。

―神頼みですか

 時間もあることだしと急な階段を上り始めた。少し上っただけで息が切れている。確か神社に入る前は一礼だったか。鳥居の前で頭を下げた後、境内の歩きづらい石畳を歩く。途中の曲がり角に茶店のような場所があったが店の前の小さな看板の料金を見て素通りした。本殿が見える場所まで辿り着くと案外立派な神社に見えないこともない。賽銭は5円でいいだろうと財布を空けるとちょうど残っていた。こんな些細なことで運を使う必要はないのだが。

 参拝を済ませ、何の気なしに横に目をやると「お祓い」の文字がある。その本殿近くの柵に張り出された和紙を近づいて見る。手書きで書かれた文字がやけに達筆だった。

 これだけの神社のお祓いなら少しくらいはご利益がありそうなものである。

 周りを見渡したが受付らしき場所は見当たらない。誰かいないものかと境内をうろうろしていると、本殿から横に伸びる廊下を歩いている神主らしき男を見つけた。小走りで近づいて声を掛けた。

「すいません、あの」

「はい」

 振り向いた顔は整っていて若々しく見える。自分より少し年下、あるいは同じ年くらいと見た。

―淡い青と白の服がよく似合ってはいるが―

 そもそもこの袴みたいな服何やねん。何ってどういうことよ。いや正式名称があるはずやん。袴なんちゃうか。いやさすがにそのまますぎるやろ。神主やから神服? 聞いたことないで。

「ここでお祓いってやってもらえるんですか」

「ええ、やっていますよ」

「受付もここでしてもらえるんですか」

「はい、あちらの受付で大丈夫です」

 神主が手を伸ばした先にお守りなんかが売られている小さな小屋があった。全く視界に入っていなかった。

「あぁ、わかりました。ありがとうございます」

「とんでもありません。あちらでお手続きとご祈祷料のお支払いをお願い致します」

「はい、えっ、祈祷料?」

「ええ、5千円から頂いております」

 ほぼ空の財布を確認するまでもなく、手持ちの金などありはしなかった。下ろせば何とかならないことはないが、お祓いに5千円は。

「あー、いや、それなら結構です」

「…そうですか」

 あっちの神社なら3千円で、と家電量販店であれば値切り開始のゴングが鳴っていたが神々が祀られている神社という場所の性質上、ここでの交渉は分が悪いと判断した。神主は天然を表に出したような顔でこちらを見つめその場を離れていいものかどうか迷っているようにも見える。その顔によるところかはわからないが不思議そうな目で自分を見つめる神主になぜか妙な親近感を覚え、廊下をまた歩き出そうとした動きを見逃さずに再度声を掛けてしまった。

「宝くじ買ってくれませんか」

「えっ」

 驚いて振り返った神主は再確認した。

「宝くじですか?」

「ええ、宝くじです。当選確実の」

「ちょっとよく分からないのですが」

「僕芸人なんです。今度のライブで優勝したコンビの宝くじを買った人はその何倍もの賞金をもらえるイベントをウチの事務所が企画してまして」

 携帯から事務所のウェブサイトを検索し、神主に見せてやった。

「僕に賭けてもらえないでしょうか」

「…ちなみにその宝くじはいくらですか?」

「一口1千円からです。何口でも大丈夫です」

「…」

 沈黙の間、無意識に神主の服装に目が戻ってしまう。この袴みたいな衣装は一体、携帯で調べようかと思ったが同時にもう一つ違和感のようなものを覚えた。

―こいつ―

 その正体は徐々に自分の中に染み出してきて確信に変わった。

―あの帽子被ってへん―

 神主っていったらあの帽子やろ。帽子って? ほら、あの黒くて縦長のやつ。あーなんか見たことあるな。なんで被ってないねん。確かに黒髪のセンター分けは爽やかかもしれんけど。流行ってないんちゃう? そうなんかな。たぶんもう古いねん。でも漫才も伝統的な掛け合いが本流であってリズムネタなんかありえへんで。それお前の好みやんけ、髪型全然関係ないし。いやいや音楽もブルースが理解できてないとロックは語れへん。何の話やねん。目新しいからといって何もかもが良いわけではないのよ、ベースにある本質を理解してないと―

「優勝できそうなんですか」

 神主の声が響いた。もっともな質問である。

「僕らが最有力候補です」

「本当ですか」

「間違いないですね」

「…」

 再度の沈黙にたまらず言った。

「神主さんに買ってもらいたいんです! 運を味方につける意味でも」

「…申し訳ありません、他の方をあたってもらった方が宜しいかと思います」

「一口だけ」

「いや、あの…」

「じゃあ二口」

「どういうことですか…」

 その後遠くを眺めながら考え込んでいる様子だったが、しばらくして神主が言った。

「少し待っていてください」

 そして廊下を歩きだし突き当りを奥の方へ曲がって消えていった。最後に笑ったように見えたのは気のせいか。

 待っている間、お祓いの受付小屋に目をやると巫女さんらしき若い女の子がうつむいたままちょこんと椅子に座っていたが、その姿が昔付き合っていた女性を思いがけずその場に蘇らせた。ナンパでさんざん振られた挙句諦めかけたところにたまたま引っかかった大学生で金を借りて学費を工面しながら巫女のバイトで稼いだ金は自分のチケット代やメシ代に使ってくれていたものだった。今頃は有名企業で高給取りになっているであろう特段美人でもないその人の顔をなぜこうも鮮明に覚えているのか。男の方が未練がましいという通説を最近は身をもって痛感させられる。そして本殿に視線を戻すと遠くを見つめる別の横顔が甦った。

―なんか東京っぽいよな―

 何が? あの神主、ちょっとシュッとしてるっていうか。そうかな。ただ声がちっちゃいねん。そこはええやろ。

 境内を吹く風がどこか暖かく感じられた。

 数分して戻ってきた神主は白い封筒を手にしていた。

「5口買いましょう」

 やはり少し微笑みながらそれを自分に手渡した。


 翌日は昼前に目を覚ました。二日酔いである。昨日、神主からもらった5千円を手に居酒屋に直行し前後不覚になるまで飲み上げた。もとよりその金だけでは足りず、行きつけを良いことに多少ツケてもらった。先輩から紹介された良心的な店で日頃から世話になっているが、出世払いがいつになるか見当もつかない。

 あの5千円は本来事務所に入れてくじを発行してもらうべき金だが、半ばピンハネしたような状態になっている。半ばというより完全にピンハネである。起き抜けに襲ってきた後悔の念をシャワーで洗い流した。いつになればまともな飲み方ができるのか。飲み方ではなく人格の問題か。髪を洗いながら再認識した。

 劇場の出番が控えていたため昼過ぎにはGEIGEKIに向かった。劇場に着くと楽屋で相方が他の芸人と何やら話をしている。笑い声が部屋の外まで漏れている。

「あいつはマジでクズですからね! おれいくら金貸してるか忘れてもうてますもん」

 自分の話だと直感で悟った。屑でも焼かれるよりはネタになった方がよっぽど良い。何かおもろい登場の仕方はないか。

 数少ないネタがいくつか頭をよぎったが、一瞬で決めた。

「おーい! お前ら人の悪口なんて最低やでー! おれの弟子やったら今頃もうパンパンやで!」

 弟子に厳しい師匠のモノマネである。

「あっ、師匠! すんません!」

「師匠そんな感じやったっけ」

「全然似てへんて!」

 部屋に乗り込むや否や瞬時に反応が返ってくる。さすが芸人というか、職業病というか、まぁ自分達の生き方だろう。

 出番が近づいてきたので相方とネタ合わせを始めた。あらかじめやるネタは決めているものの、お互いの確認作業も兼ねて事前に何度か本番同様に通しで擦り合わせる。楽屋前の廊下を進んだ先にある階段の踊り場がこの劇場での自分たちのお決まりの場所となっている。長身の相方を見上げて話すことにも随分と慣れてきた。自分の漫才が多少マシになってきたのも、以前コンビを組んでいた人間と解散した後、紹介されたこの男によるところが大きいと密かに思っている。自分と比べて人生経験も考え方も大人で、年齢以上の人格の差みたいなものを感じざるを得ない。

 芸人宝くじのことも、昨日の出来事も相方には何も話さなかった。人に金を借りて踏み倒すなんてことはひとつの芸の肥やしであって後から振り返れば話のネタにでも何とでもなる。わざわざ報告するほどのことでもないと言い聞かせ、そしてその記憶はいつものように頭の片隅に追いやった後時間の経過とともに忘れ去られていくはずだった。

「南野!大野!そろそろ出番やで!」

 劇場のスタッフから声が掛かった。舞台までの廊下を足早に歩き舞台袖に入る。木製のセットの陰で出番を待つ。出番前の緊張も最近では慣れたものである。前の組のネタを袖から眺める。出来栄えは、まぁぼちぼちでんな。

 なぜかまた昨日のあの横顔が浮かんだ。それを無理やり頭から切り離そうとしているところで、登場の音楽が鳴った。

 

「どーもー! よろしくお願い致しますー」

「よろしくお願い致しますー南野大野ですー」

「ねぇーもうありがたいことに。お客さんたくさん入って頂きまして」

「本当にありがたいことでございます」

「あのー最近ねー、生成AIというのがすごいらしいんですよ。どうも」

「へー! そーなんですか」

「そーなんですかって。あなた何も知らないんですね」

「僕ちょっと最新情報には疎いんで。多少はわかりますけどね」

「生成AIってどういうものかご存じですか?」

「簡単にならわかりますよ。人工知能ですよね。人間の思考回路を真似したような」

「チャットGPTとかは?」

「チャットGPTはあれなんでしょ。調べたいことを入力すればかなりこと細かく解説するように答えを出してくれるみたいな」

「まーまーそうですね。GPTに聞けばなんでも答えてくれます」

「便利ですよねー、それで言ったらちなみにGPTが何の略か、あなた分かってますか?」

「あー、あれでしょ。わかってますよ」

「おーすごい。ちょっと言ってみて」

「いや…それはこの場で言うことではない」

「…なんで?」

「お客さんがそれを求めていないからよ」

「いや逆にここまで話したなら気になるんじゃないですか?」

「いやいや、そんなことないはずや…」

「言えよ」

「…」

「お前知らんやろ」

「知ってるよ!」

「分かった。じゃあ俺が今からいくつか言うから、当ててみてよ」

「そんなんでええの? 逆に?」

「逆にって何やねん。まぁええわ、ひとつ目はジェネレイティブ・プレトレインド・トランスフォーマー」

「オーケー」

「ふたつ目はジェネレイション・プレトレインド・トランスフォーマー」

「…グッド」

「みっつ目はジェネレイショナル・プレトレインド・トランスフォーマー」

「イエス!」

「英語につられんでええねん! あとちょっとエロい言い方すんな! で正解は?」

「ないですね。この中に正解はありません。ひっかけ問題」

「正解あるよ」

「ないですね」

「だって正解は最初のジェネレイティブ…」

「ジェネレイティブ・プレトレインド・トランスフォーマーな! あー、わかってるよ!そんなん」

「いやぜったい今、わかってなかったやろ。被せてきただけやん」

「わかってました!」

「…あっそう、まぁいいですよ。ただチャットGPTすごいですよ。似合う服装とかも助言してくれますから」

「チャットGPTは服装のアドバイスもしてくれます」

「そうなんですよ。もう一瞬で。季節だったり条件を入力したらすぐアドバイスをしてくれるみたいな」

「そうそう、もうあなたみたいな人はすぐにやってほうがいいですね」

「なんで?」

「今日の服装もチェックにチェック合わせてますから」

「別にいいじゃないですか」

「チェック好きですよね。あなた」

「そんなことないよ別に」

「いや、この前も着てたね。確か」

「着てないと思いますよ」

「いや、おれは分かるのよ。一番近くでお前を見ているから」

「怖いですね」

「あとお前はチェックを着ていない他人に対しても厳しい」

「そんなことない」

「えげつない」

「えげつないってなんやねん」

「以前おれがスーツ着てた時に感じたもん。お前あの時思ってたんやろ」

「何て?」

「こいつ上も下もチェックじゃない!って」

「思うか!スーツやろ!しかもそんなにチェック好きじゃないから」

「いやお前ならスーツでもチェック入れてきよる―」


 思いのほか舞台でのウケが良かった。素直に嬉しいものである。芸人は板の上で笑いを取れるかがすべてでそれ以外の物差しはない。そしてそんな観客の反応がダイレクトに返ってくる瞬間が至高であり、自分が生きていることの証明と言ってもいい。

 その日の劇場終わりに相方とネタの細かい部分の話をしていると、スタッフから声を掛けられた。

「いやー、ウケてたなー」

「えっ、あざっす!」

「あっ、いやTやで。Tの話」

「…」

「そんなウケてたんすか?」

「おぉ、途中天井落ちるかと思ったぞ」

―くそ、そんなわけあるかい

「もう少ししたらあいつらの時代になるやろな」

 いけしゃあしぇあと自分達の前で後輩を褒めてくるこの男の神経を疑う。まぁこんな劇場のスタッフにまともな人間などいるはずもない。話を聞きながら自分でもうまく笑えていないのが分かり顔をそらすと、様子に気付いたのかどうかその男が取って付けたように言う。

「おまえらのも良かったで。結構ウケてたやん。芸人宝くじも期待できるんちゃう?」

「僕らのくじ買ってくれる人なんかいませんてー」

「あのな、自分達で売り込まなあかんで! そら何もせんと買ってくれる人ばっかりやないんやから」

「なるほど! 確かにそうですね! いや、僕は周りにちょいちょい話はしてるんですけど、こいつなんて何も考えてないでしょうから」

 芸人の性と言うか、ここでの相方とスタッフとの冗談半分の会話が仇となった。

「実はね、買ってもらったんですよ。昨日」

「えっ! マジで? 嘘やろ」

「いや、ほんまやねん」

「誰によ」

「神主さん。神社の」

「はっ? どうやって買ってもらったん?」

「土下座、土下寝で」

「お前頭おかしいやろ!」

 なんやそれはー、と言いながらスタッフは仕事に戻っていった。会釈して見送った後、相方が落ち着いて聞いた。

「さっきの話マジなんか」

「うん、ほんまやねん。たださ…」

「おう」

「5口買ってくれてたんやけど、もらった5千円使ってもうた」

「酒に?」

「…そう」

「5口分のくじ渡さんとあかんやろ…」

 相方はいつもの笑い半分、呆れ半分の吹き出し笑いをして、何か考えるように遠くを見つめた。

 まぁ、間違いなくこの男が言うことが正しい。

「優勝賞金があれば楽勝でくじ買って渡せるけどな…」

「優勝せんでも5千円くらい払えるわ!」


 いつでもできると思うほどやらないのが世の常で、5千円分のくじをしばらくたってもそのまま放置していた。くじが有ろうが無かろうが優勝すれば自分達の手元に入ってきた賞金を渡す。負ければそれまでの事である。抱えている多くの借金の内のひとつで別に気にする必要もないが賞金がなければ生活すら危ういのは現実であり、ひとまず優勝を狙うべくネタ合わせから始めてみた。相方をいつもの公園に呼び出した。

「宝くじの大会、何のネタでいくん?」

「ちょっと考えてるやつがあんねん」

 いつもの通りふたりでボケ、ツッコミの流れを確認していく。

「まぁまぁおもろいかもしれんな」

「おっ、そう思う?」

 相方の反応も悪くなかった。次のGEIGEKIで試すことが決まった。2時間程度のネタ合わせの後、帰り際に相方が思い出したように言った。

「あれ神主の人にチケット渡さなあかんやん」

「えっ、…あーそうやな」

「どうすんの?」

「まぁようわかってないやろし、ええんちゃうか」

「そらあかんやろ」

―真面目やなぁ

「…事務所に話してみるわ」

 ごにょごにょと濁しながら歩き出した。芸人なのになぜこいつはこうも真っ当な人となりなのか。いや自分が少し狂っているだけか。帰りの電車で事務所のサイトを見てみると宝くじの賞金は最低でも1百万円、購入者が多ければ更に上がるとも書かれてある。賞金額はいくらにせよ自分達のくじを買う人間と賞金を山分けするならくじを買ったファンが少ない方が得である。

―返済の頭金くらいにはなるかもしれんな

 淡い期待を描きながら、その日は安物の缶チューハイで我慢した。

 翌日相方から連絡が入った。宝くじのくじ代わりのチケットを立替えて事務所から購入してくれたらしく、神主に渡すようにメッセージに書かれてあった。さすが、いい男である。以前コンビを組んでいた元相方はこちらがプログラミングを施しスイッチを押して起動させることのみで稼働するスーパーコンピュータのような奴で、思い通り動かせる利便性と忠実さを兼ね備えていたが正確性を求めすぎるあまり感情を持ち人間に反旗を翻した。今はそいつが少し懐かしく思えてくる。

 その日のうちに相方からチケットを受け取り、翌日例の神社に向かった。足取りが少し軽い気がする。境内を歩いている途中で何人もの人とすれ違った。ご利益があると信じているのか、結構な人の数である。本殿近くの場所に着くと参拝の列ができていた。横目で見ながら通り過ぎ辺りを見渡しても、神主の姿は見えない。元々境内のどの場所にいるかなど知る由もなかった。

 お祓いの受付の巫女さんを思い出し、小さな小屋まで進み話しかけた。

「今日は神主さんはいらっしゃいますか」

「今はお祓い中だと思いますが、何か御用でしょうか?」

「ちょっと渡したいものがあるんですけど」

「あぁ、そうなんですね、もし宜しければ、私がお預かりできますが」

「あっ、いえ、直接渡したいんです」

「そうですか、もうしばらくしたらお祓いも終わると思いますので」

「どのくらいかかりそうですか」

「はっきりとは申し上げられないのですが、15分から20分くらいかと」

「わかりました。ありがとうございます」

 よく見ると見た目は昔の彼女とは似つかない程可愛らしくよほど口説こうかと思ったが、これもまた神社という場所の性質上控えることにした。神社の本殿、澄んだ空気や大木は聖域とも言える雰囲気を放ちこんな人間が日常まともに行う行動はひとつ残らず境界の外側に追いやっている。

 ひとまず小屋を離れて最初に話しかけた本殿から続いている廊下の側で待つことにした。廊下の手すりに背中を預けて時間の潰し方を考えていたらほどなくして本殿から一般の客がお祓いを終えて出てきた。そしてその列の最後にあの神主の姿を確認した。

 恥じらいもなく、一目ぼれの女と再会したようなテンションで声を掛けた。

「すんません!」

 周りの客から視線を浴びているのがわかった。神主はあっ、という顔をしたが、また少し微笑んで近づいてきた。他の人がいる手前速やかに渡す必要があると思った。

「これこの前の宝くじのチケットです」

―青春やねぇ―

 放課後、体育館裏での告白みたいな。それも古いて。んで男に?

 廊下の外側から思いっきり手を伸ばしチケットを差し出すと神主は少し屈んで受けとってくれた。そしてそのチケットをまじまじと見た。

「良かったらぜひ観に来てください」

 思えば今までこんな風に自分でチケットを配る経験などしたことがなかった。目の前はぼんやりとして渡した手の感触だけがはっきりと体に残っている。

「ありがとうございます。…日曜日ですか」

 これもまた微笑みながら小さな声で呟いた。

 小恥ずかしいので直ぐにその場を後にした。なぜどこか緊張してしまうのか、その答えはあの神主のこちらの心を見透かしたような、その上ですべてを許してくれているような表情、所作、佇まいでありそれが自分に言いようのない感覚を覚えさせているようだ。雰囲気から何から神主は自分の周りの人間と比べて明らかに異質であり、性別や諸々のものを超越しているような存在に見えた。

―おれゲイなんかな―

 いや知らんけど、今日目覚めたってこと? 別にわるいことではないよな.。まぁそうやけど。神に導かれたんやわ。そうなんかな。これからお前をもそういう目で見てしまうかもしれん。勘弁してくれよ。

 チケットを渡せたから良しとしようと神社を出ると、その日もまた夕暮れが手招きするもんでいつものごとく行きつけの飲み屋にお世話になってしまった。

 不思議なものでチケットを渡して以降は、徐々にネタ合わせに身が入るようになっていた。毎日バイトが終わると相方と待ち合わせ、いつもの公園でネタ合わせをはじめる。長い時は一日に3時間から4時間、これだけ集中して漫才に取り組んだことは過去になかったかもしれない。気のいい人が立ち止まってネタを見てくれた。面白かったです、の何の飾り気もない一言が励みになる。ただそれは好意的な観客だけの会場を安易に自分に思い起こさせてしまうものだったが。

 舞台の合間の楽屋での会話も『芸人宝くじ』の話題が増えていった。

「あいつらのくじめっちゃ売れてるらしいで」

「それやったら分け前が減るだけやんか。このイベントは普段評価されてないコンビの一発逆転のチャンスやねん。競馬の倍率やってそうやろ」

「ちなみに南野大野はどんくらいくじ買ってもらったん?」

同期の芸人が聞いてきた。

「…2枚」

「えっ?」

「…2枚やねん」

「2枚て…逆に誰と誰に買ってもらったん?」

「おかんと姉ちゃん」

「バレンタインかい」

「義理くじよね、もはや。ギリギリっていう意味でもあるけど」

「もしくじ当たったら何に使うの?」

「せやな…」

 イベントが近づくにつれて当日神主が舞台を観に来てくれるのか、が気になっていた。もちろん観に来なくても自分たちが優勝すれば賞金は入るわけで無理やりに来てもらう必要はない。そもそも神主に休みの日があるのかネットで調べたところ、基本的に決まった定休日はなく、特に土日祝日はどこの神社も忙しいためなかなか休みが取れないようなことが書かれてあった。

―日曜日の反応はそういうことか

 来られても緊張するだけだろうと思う一方で、観に来てもらいたいと密かに願っている自分にも気づいていた。果たしてあの5千円を漫才で返せるのか。不安と微かな自信の間で当日の会場の風景を思い浮かべた。大きな大会ともなると普段通り漫才をやること自体難しく台詞を噛んだり飛ばしたりもあれば緊張が審査員に伝わることで減点対象となるケースもある。そんなことを想像するたびに静かに奇声を上げるか表情を歪めるかで何とか自分の感情のバランスを取っている。

「事前に誰かに見てもらった方がええ」

 相方も今回はかなり真剣な様子で、信頼している先輩や後輩芸人に事前にネタを見てもらうように促した。自分の笑いを見てもらうとしたら誰か。

「誰に見てもらう?」

「…」

 頭に浮かんだのはTだった。今あの劇場で一番ウケているコンビ。実力は認めざるを得ない。

 自分のことをどう思っているのかが不安だった。かつて楽屋でのイジリに参加していた人間を、助けることはおろかその一員として歪んだ虚勢を張って恥をかかせたこんな人間をどう見ているか―。

 相方の純粋な問いに身を任せようと思った。

「Tに見てもらいたい」

「あいつら忙しいやろ」

「…まぁ頼んでみるわ」

 数日後、Tのふたりに劇場で会う機会があった。今更例の事を許してもらおうとは思わない。断られても恨むこともない。ただ自分にも当選の可能性が残っているとしたら、賭けてみたいと思った。

「ちょっとええか」

 楽屋で座っているところをいつも声など掛けられない人間から不意打ちで話しかけられ、その後輩たちは少し驚いたような表情で振り返った。

「はい、えっ、何すか?」

「…アドバイスが欲しいねん」

「アドバイス?」

「…俺らのネタ見てアドバイスしてくれへんか」

 片方が半分笑いながら言った。

「僕ら先輩にそんなんできませんよ」

―そらぁ、そうくるやろな

 ポーカーフェイスと表面上の謙虚さで煙に巻くのは容易に想像できた。こっちは真っ向勝負しか考えていない。

「次のイベント勝ちたいと思っててさ。今一番面白いと思うコンビにおれらのネタを見てもらいたいのよ。マジで頼むわ」

 周りに居合わせた芸人仲間は突拍子のないことを言い出したと、これを一種のネタでやっているのか純粋なお願いとしてやっているのか判別がつかなかっただろう。楽屋のみんなが居る前で後輩に対して大真面目に助言を乞う先輩はいくら何でもイタすぎる。それでも顔から火を出し懇願する男を骨の奥側まで覗き込むように見つめる後輩を前に、自分ができるのはその場でただ直立することだけだった。

 少しの沈黙の後、Tのもう片方が言った。

「高うつきますよ!」

 実際に舞台での漫才を見てもらい助言を受けた。案外気を使うことなく思ったことを率直に、且つこちらのプライドを傷つけない言い回しで指摘してくれる。気付かなかった穴が所々出てくる。

「南野さんは特にネタの畳みかけの部分で早口になりすぎるんで」

 修正して再度見てもらう。他のスケジュールの隙間を縫いながら、イベントまでの短い期間で爆笑を取れるレベルにまで仕上げていかなければならない。彼らのおかげで微調整を繰り返し大会直前には何とか手ごたえを感じることができた。

「これでウケへんかったらしゃあないで」

 相方の一言で少し気は楽になった。が布団の中で何度も寝返りを打つたびにいっそう寝入りが悪くなるような気がしながらとにかく無心で目を閉じる夜は、今回の大会が自分にとって特別なものだということを波のように打ち付けてくる。そしてその言いようのない感情は漫才の出来不出来を懸念したものか、あるいは神主が観に来てくれるのかという不安にも似た高揚の表れか自分でもよく分からない。

 当日会場に向かう途中、相方と合流したものの会話はほとんどない。いつもそんなに多く話すわけでもないが、気を紛らわせることを何か話そうかと考えていた時、到着に合わせて相方が口を開いた。

「今日もいつも通り爆笑とりましょか!」

―気使っとるやんけ

「いつも爆笑とれてましたっけ?」

 楽屋に入ると大半のコンビはすでに到着していた。

「お疲れ様ですー」

 自分たちはいつもの階段の踊り場でネタ合わせを始めた。

「ちょっと早なってるで」

 相方に言われて少しスピードを落とす。Tからも受けたアドバイス。ただでさえ早口になる本番はこのくらいでちょうどいいのかもしれない。

「よっしゃ、いこ」

 寄せては返すこの緊張と興奮を、言い表せる言葉はない。それを紛らわすためにあえて出番前のセット裏で余計なことを考えようとしていたが結局思いを巡らすのはあの神主のことだった。会場で神主を見た時に自分の感情はどう揺れるのか。もしあの服装のまま劇場にいたらと妄想する。何だか笑えてきた。お笑いファンの中に神主。笑うポイントが全然違っていたりして。それか常時浮かべているあの微笑みでお笑い観覧か。波は徐々に穏やかになり凪になったところで出番を迎えた。


「どーもーよろしくお願いしますー」

「よろしくお願いしますー頑張っていきましょう!」

「今回『芸人宝くじ』というイベントということでね」

「そうですよー、色々考えますね。ほんとに」

「ただ今回は宝くじと言っても、安易な運任せとは違いますから」

「あーその通りですね、漫才でウケないとダメですから」

「はい、この出場が決まってからというもの、めちゃくちゃ練習しました」

「はい、しました。練習」

「そして、えー、神社にも通いました」

「はい…っおい! 神頼みしとるやないか」

「まぁ、聞きなさいよ。そこで素敵な出会いがあったのよ」

「何ですか? 出会いとは」

「神主さんです」

「へー、そうなんですか」

「そう、もう、その日初対面ながら私…あのー、お金を借りてしまいまして」

「…誰に?」

「神主さんに」

「何してんねん!」

「めちゃくちゃ良い人そうで。もう全部許してくれそうな。逆にこっちが金を借りらされているような。そんな気がして」

「完全にバチあたりますよ。それは。ちなみに何ていうて借りたのよ」

「貸せ、つって」

「えっ?」

「金貸せ、つって」

「気狂ってるやろ!」

「けど貸してくれたで」

「よっぽどお前が不憫やったんやろ」

「ちょっと好きになったもんね」

「何で男を好きになんねん」

「おっ、今かなり差別的な発言でしたよ。大丈夫ですか」

「まぁすみません。確かに好きという感情を性別で決めつけるのは良くなかった」

「あなたああゆうタイプでしょ。フライトアテンダントをスッチーとか言う」

「そんなん言いませんよ。それもうちょっと年上の年代じゃないですか」

「看護師さんを看護婦を言う」

「まぁー、微妙ですね。行ってしまうこともあるかもしれません」

「話のオチを強要する」

「それは女性とか関係なくないですか?」

「エスカレーターでは右側に立つ」

「まぁそうかもしれませんね」

「シュッとしている、で上機嫌になる」

「…なんかあやしくなってきましたね」

「行けたら行く、は絶対に来ない」

「…」

「まぁ知らんけど」

「関西人あるあるになっとるやないか! 途中から」

「自分なりに考えてみたんやけど、神主さんには惹きつけられる理由はあの服装にあるような気がすんねん」

「へー、そうなんや」

「特にあの帽子ね」

「あー烏帽子ってやつですね」

「普段あんなん被ることないじゃないですか」

「そうですねー、なかなか似合わなそうですよね」

「そう! そこやねん」

「なにが」

「本物の男前は烏帽子が似合うのよ」

「あぁー」

「だからおれは烏帽子が似合う男になりたいの」

「そんなん別に見慣れるまで被ったらいいんじゃないの」

「おまえマジでわかってないな」

「何が」

「烏帽子は人を選ぶのよ。似合う人、似合わない人」

「ほーほー」

「そして人にも烏帽子を選ぶ権利がある」

「おう」

「…な?」

「全然わからへん!」

「一言で烏帽子と言っても! 高さも材質もそれぞれ違うねん! なんでそんなことも分からへんねん」

「あーあーなるほど」

「烏帽子は宇宙やねん! 無限なのよ! な! ほら! お前も被る気になったやろ?」

「なるか!」

「話それましたけど、結局神主さんにはいくら借りたのよ?」

「5千円」

「あー、まぁそれぐらいといっちゃあれですけど、すぐ返せそうな額ですよね」

「まぁまぁ…な」

「…それはお金をまだ返していない言い方やな」

「ちょっと今月厳しくて」

「返せるやろ! 5千円くらいやったら」

「5千円くらいって! お前5千円でできること真剣に考えたことあるんけ!」

「めちゃくちゃキレるやん」

「難波の大衆居酒屋やったら三日間通えるで!」

「安!」

「おれの行きつけのスナックのツケ代も払えるわ!」

「知らんわ!」

「楽天の訳あり発泡酒なら24本買える!」

「酒ばっかりやな! 出てくるのが」

「そのくらいの金額ですよ」

「まぁまぁ色々できるけど、返してあげてください。神主さんにお金」

「んー、そこはちょっと慎重にならざるを得ないな」

「…何で?」

「逆に失礼になると思うねん」

「ならないと思いますよ」

「いや、お前は何もわかってない」

「いやいや、おかしい…」

「気持ちやからこういうん…」

「いやそれは間違ってる…」

「間違ってな…」

「今すぐ返した方がええ…」

「そんなんじゃないんやって! あの…」

「今すぐ返せよ! そんな…」

「この大会で優勝したらええんやろがー! おお!? んで賞金で返したらええんやろ!」

「いや逆ギレやん…」

「お前と漫才やってたら絶対売れへん! もうその神主さんにお祓いしてもらうわ!」

「また金掛かるんちゃうか?」

「そこはお前が立て替えてくれや」

「めちゃくちゃやな! もうええわ!」

「どうもありがとうございましたー」


 本番は上出来で前後の組と比べても比較的笑いが取れていたように思う。楽屋で芸人仲間と上辺だけの会話をしながら結果発表を待つ。時折、今の組がめちゃくちゃウケていたやらスベっていたやら情報が入ってくる。淡い期待が胸を過ぎる。

 漫才中に舞台の上から神主を確認する余裕はさすがに無かったが、神主があのネタを観た時の反応を想像すると自然と自分の顔がにやついてくるのがわかった。さすがに怒ることはないだろう。いや、クソ真面目な性格だとしたらあり得るか。もはや自分が何のために漫才をやっているのかわからない。

「いやーお疲れ様でしたー! これで全ての組の漫才が終了しましたけども、いかがでしたか!」

「どのコンビが優勝してもおかしくないくらい皆さん面白かったです!」

 全てのネタが終了し司会の先輩芸人が甲高い声で総括に入る。女性タレントの気のないコメントの後、人の緊張を他所にイベントは淡々と結果発表に移った。自分と相方は舞台に上がった大勢の芸人の後ろ側に埋もれていて会場内もまともに見渡すことができない。競馬で言えば完全に馬群に沈んでいる位置である。人の隙間から除くように客席を見ようとしたが上手くいかない。まぁ休日を取ることもままならない人間がわざわざお笑いライブなど見に来るはずもないか。

「それでは結果発表です!」

 前方すら満足に見えない壇上からの景色はこれだけ多くの人間が同じ場所を目指しているのだとあらためて自分に認識させるのに十分すぎるほどだった。今回は一組分の当たりくじが用意されているが、この先は果たしてどうだろうか。当たりを引いた瞬間を想像するのは今の自分にはあまりにも難しい。


 その日の収録後、別の予定があると打ち上げの参加を断った。

 電車を乗り継いで最寄り駅まで着いた後、家までの帰り道にコンビニに寄ってまた缶チューハイを買った。飲みながら帰った。

 自分たちの力は出し切った。

「優勝は―」

 何度もあの場面が甦る。結局自分達の名前が呼ばれなかったあの瞬間。

 これまでやってきたことの何が間違っていたのか、しょせん無駄な努力だったのか。あと何年こんな思いをしながら漫才を続けるのか。

 細い坂道を上る。少し足がふらついた。同時に右足に違和感を覚えた。携帯、携帯が鳴っている。手に取ると見慣れた名前が映った。

 そのままポケットにしまい込んで道を引き返した。

―どこかで一杯やって帰ろう

 駅の近くの馴染みの居酒屋に入った。相変わらず人が少なくて居心地がいい。店員も客には無頓着だ。

 ビールと枝豆で飲み始める。そういやあいつともよく来たな。酔ってお笑い論を語って、将来の自分達のMC番組を想像して、似てもないモノマネで盛り上がって、わけがわからなくなった。あの時が一番良い時間だったのかもしれない。

 夢は夢のままで終わらす方が傷つかなくて済む。自分が本当に手に入れたいと手を伸ばして届かなかった時の絶望は、手を伸ばし続けた分だけ辛いだけだ。

 小さなテレビに映るタレントをぼんやりと眺めた。塵ひとつも面白くないことを延々と話している。自分が話した方がよっぽどマシだろう、というのは負け犬の遠吠えか。全国ネットで漫才をするのはどんな感覚なんだろうか。

―ガラガラ

 神主は観に来てくれていたのか。

「―…」

 自分たちのネタで笑ってくれたんやろか。

「―…」

「―ここの席空いてますか?」

 雑音に混じった音が鮮明になった。まじまじとその顔を見てしまった。

「はっ、何でお前がここにおんねん」

「そらコンビやからわかるよ。生ひとつくださーい」

 小さなふたり掛けのテーブルの対面に相方は座った。久々に顔を正面から見るような気がした。

「お前が予定あるなんて嘘ばればれやで」

「…」

「そらおれも悔しいよ」

 どこかの客が頼んだ料理を炒める音とテレビの雑音で店内はいっぱいだった。

「またふりだしに戻ったなぁ」

 この言葉を何人の芸人が噛みしめてきたのか想像もできない。

「おれら大丈夫なんやろか」

「ん?」

「このまま続けて日の目見ることあるんかな」

「…わからへん。けどさ、諦めきれるか」

「…きれへんな」

 限られた時間を費やし、くじを買い続けることを芸人はやめることができない。買うのをやめるのも選択のひとつかもしれないが、自分達からすれば人生の舞台から降りることと同じである。当たる確率が万にひとつのくじを一緒に買い続けてくれんのか、お前は。

 初めて会ったのは確か東北沢の小さな喫茶店だった。


「全然あかん、間がちゃうねん」

「…」

「もう大会まで二週間切ってんで。もう一回や」

「…」

「…ほなちょっと休憩しよか」

 部屋の時計は深夜二時を回っていた。

―まぁ、そら疲れも出るわな

 ベランダで夜風にあたりながら何度もネタの間合いを頭に思い浮かべる。どうすればこのイメージが伝わるか。

「外寒っ、おれが実際やって見せるから―」

 呼びかけた部屋には誰もいなかった。こんなときにトイレかい。

「おいっ、ちょっと悪いけど後でおれが見せるから」

 トイレからの返事はない、ドアを開けたが姿はなかった。

 コンビニにでも行ったのか。携帯に着信を入れても、その後部屋で待ってみてもそいつが現れることはなく、その後数日何度か電話してみたものの連絡は全く取れなかった。

バイト先まで行ってやろうかと考えたタイミングで携帯が鳴った。賞レースまで一週間を切っていた。

「おう、お疲れ。どうしたん、全然出えへんかったやん」

「…もうついて行かれへん」

「はっ?」

「お前にはもうついて行かれへん、解散させてくれ」

「いや、おまえ何言うてんねん。今まで一緒にやってきて、こんな直前のタイミングで」

「前から考えててん、実は。おれ笑いの才能ないんよ」

「大丈夫やって。おれら段々良うなってきてるやん。もう賞取れるレベルになってきてるって。ふたりでコンビやん。おれがフォローするからさ」

「いや足手まといになるだけやわ」

「…はぁ、そしたらさ、せめて会うて話させてくれよ」

 待ち合わせに向かう足が重い。どう声をかけるかを考えながら歩いているうちに喫茶店に着いた。

「お疲れ」

「おう…」

「どうなん。気持ちは」

「わからへん。多分こんな気持ちで続けても大会で勝てるわけないし」

「…」

「ほんまに申し訳ない」

「こんなときははっきり言うんやな。ネタ合わせるの時は全然喋らへんくせに」

「…申し訳ない」

「…」

「わかった、そなら解散しよか。今までありがとう」

 自分が言うしかなかった。大会の三日前にそのコンビは人知れず解散した。

 直後の出場するはずだったその大会では、自分たちより5歳以上若いコンビが優勝を決めた。

―こいつらの何がおもろいねん

 腸が煮えくり返る思いだった。なんであんな連中に持っていかれるのか。しかし今はとにかく新しい相方を見つけるしかない。

1週間後、先輩の芸人や事務所に相談し、ちょうど同じ時期に解散したコンビのツッコミを紹介してもらうことになった。

「大野って知ってるか? 背高いひょろっとしたヤツ」

「いや、知らないですけど」

「一度会うてみたらええやん」

「分かりました。会わせてください」

 前の相方と解散した時と同じ喫茶店だった。少し早い時間に店に着いて、新しい相方を待った。

 カランカラン、と店のドアが開くと、明らかにそれとわかる男が入ってきた。背が高い、190センチくらいか。

「南野くん?」

「はい、南野です」

「大野です。よろしくお願いします」

 小一時間話した程度だったが、直感的にこいつなら問題ないと確信した。

 ほどなくしてネタ合わせに入る。テンポがいい。少しゆっくりでいて的確なタイミングでツッコミが入る。細かい部分は舞台で試しながら質を上げていくしかないが、感触は良かった。

「自分なんで解散したん?」

 一カ月が経ったころ、居酒屋で大野から聞かれた。

「ついて行かれへんて言われたんすよ」

「敬語じゃなくてええって。コンビなんやから」

「まだ慣れないんで。徐々に」

「結構ガンガン自分の意見言う方やったんや?」

「うん、まぁ…そうやね。売れたいやん」

「そやったらおれにも言うてくれ。悪いところあったら。俺も言うからさ」

 ビールを流し込みながら、解散して良かったのかもしれないとはじめて思った。すかさず聞いた。

「なんで解散したん? そっちは」

「売れへんかったから、かな。相方引っ越し屋でバイトしててさ。社員に誘われたらしいんよな。稼ぎ良いからさ。家族もおったし」

「結婚してんすか?」

「してるで。子供もひとり」

「へー、男?女?」

「男」

「そうなんや、かわいいの? 俺独身やからわからへんけど」

「まぁかわいいで。…もう逃げられへんな」

 大野は少し照れながら笑った。

 酒の勢いが増してくる。お互いのお笑い論を投げ合う。しっかり胸元に届いている。

「おまえとなら次の『笑タイム』ぜったいイケるわ」

「顔売るチャンスやしな」

 店を出た後、じゃあ、と高く手を振って別れた。冷たい風が心地よかった。


「ここは俺が出しとくわ」

「…ええの?」

「どうせ持ってないんやろ」

 相方が開けた財布の中の札は決して多くない。視線をそらすしかなかった自分を茶化したように相方が言う。

「また良いネタ期待してまっせ!」

―こんな自分にできることはそれくらいか

「…まぁちょっと考えてみるわ」

 ふたり重なった時に〇になればいい。どこかの先輩が言った当時は月並みな決まり文句くらいにしか考えなかった言葉も今なら少しは情緒に落ちてくる。いびつな自分の形を変えようとするわけでもなく薄暗い部分だけそっと明るく照らすこの相方に何度救われていることか。せめてこいつのくじくらいは当たってほしいもんだ。


 GEIGEKIの楽屋ではまた変わらず芸人たちが全力でふざけ合っている。

「おれ賞金とったら京都で芸子遊びしたかったんすよー」

「そもそも店に入れんのか。一見さんお断りやろ」

「そこは有名な師匠とかに頼みますわ」

「芸子遊びって何がしたいの?」

「あれよ。あのーほら、トラトラとか言うやつ」

「じゃんけんみたいなんやな」

「そうそう。おばあさんと虎と槍持ってる奴」

「ちょっとやってみようや、ここで」

「ええよ」

「どれがどれに強いんやっけ」

「おばあさんが最強なんちゃう?」

「何でやねん」

「槍が虎に勝てて、虎がおばあさんに勝てて、おばあさんは槍に勝てるみたいやで」

「おばあさん槍に勝てるか?」

「試してみよか」

 自分のフリに同期と後輩芸人が乗ってきた。

「じゃあお前おばあさんな。俺槍持ってるやつ」

「南野さん強そうっすね。槍」

「南野が槍で、こいつおばあさんな。ただこのおばあさん、柔術やってるけどな」

 筋肉ムキムキの後輩はよぼよぼのおばあさんが杖を突くように歩く。自分が槍に見立てた箒でそいつを突っつく。何度か素振りで突いた後、箒が後輩の足に当たった瞬間、そいつはピクっと身体を震わせこちらを凝視した。今回ばかりは頭の中でゴングが鳴った。 

 気が付いたらチョークスリ―パーを決められている自分がいた。

「ギ、ギッ、ギブ…」

 一瞬はじけ飛んだ眼鏡を思ったがもうそんなことはどうでもいい。薄れていく意識の中で聞こえるのは聴衆の微かな笑い声、そうだ。丸太のような腕で締め付けられる槍を持っている奴、いや俺を、援護する人間などここにはいなかったんだ。思いっきり相手の腕をタップした。

―カン!カン!カン!

「おばあさん、めっちゃ強いな」

「槍弱すぎるやろ」

「けど正しかった。おばあさんが勝ったやん」

「何やこれ!」

 しばらくトラトラでふざけた後、劇場を出てあの神社へ向かった。くじを買ってもらいながら当選させられなかったことを詫びるために。ピンハネしたことを言おうかどうかは、迷っている。その日は夕暮れ時が近づいても朝からの抜けるような空がまだ続いていた。初めてここに来た時はどうだったか。やや傾斜になった神社の前の道を下っていくと石垣が見えてきた。入口の階段を上がる。境内の石畳を歩き、横目に入った茶店の看板を見た。いつか入れるようになってやると思った。

 拝殿には相変わらず数人が列をなしている。その奥の本殿の中を遠目で覗き込むと薄い垂れ幕で良くは見えないものの何やら神事が行われているようだった。この様子では神主は当分出て来そうにはない。本殿横の小屋の奥に別の出入り口を見つけ、そこから一度境内を出て神社の周辺を歩いてみる。緑が多い洒落た家が何軒もある。あらためて自分にこの場所は不釣り合いだと思った。ただあの神主がこの辺りに住んでいるとしたらと想像するとそれはどこか納得できるものがあった。

 しばらくして境内に戻ると、神事は終わっているようだった。巫女の女性にまた話して神主を呼んでもらうようにお願いした。どう話を切り出すかを考えていたところ、思ったより早く神主は姿を見せてくれた。表情は初めて見る今日の空を映したような笑顔だった。

「こんにちは」

 自分が挨拶すると、神主は会釈をして言った。

「この前はありがとうございました」

「えっ」

「面白い漫才を観させてもらいました」

「来てくれてたんですか?」

「はい」

「会場に?」

「ええ」

「そうなんすか!」

「後ろの方の席だったんですけど」

「全然気づきませんでした」

 自分でも声が大きくなっているのが分かった。はて、何を話しに来たのか。

「初めて漫才というものを目の前で観ました」

「あっ、初めてだったんですね」

「ええ、外出自体多くないもので」

「忙しいところ申し訳ありませんでした」

「大丈夫ですよ。貴重な体験でした。私の席の周りの皆さん大爆笑でしたよ」

「マジですか? 僕らのネタで?」

「そうです。もう凄い熱気で、私自分が火の中にいるのかと思うくらいでした」

「おー凄い! …あ、いや今の少し言い過ぎでしょ」

「いやいや本当です」

 話をしていると、神主という肩書きを取っ払った素の人間と話しているような感覚を覚えて嬉しくなった。

―この人酒飲んだらどうなるんやろか―

 全然想像できへんな。酒乱やったらどうする? 望むところやんけ。ん、何でなん? 仲間ができるからよ。俺の? そう。俺が酒乱やって言いたいの?

 そろそろ本題に入らねば。

「あの、優勝すると言っておきながら、結局出来ずにすんませんでした。あとネタの内容も…」

「私からすれば優勝も同然でしたよ」

「えっ、あ、ありがとうございます」

―まぁそう言われれば―

 確かにウケてたしなぁ。もはや優勝みたいなもんかもしれんな。うんうん、そうやそうや。さすがに無理があるんちゃうか。

 神主の反応は今の自分には十分過ぎるほど暖かく空の財布に分厚い札束が飛び込んできたような感覚にも似た気分にさせられた。何かこの人に返せるものはないか。その場で頭を巡らせてみたが、思いつかない。相方が居てくれれば何か気の利いたことでも言ってくれそうなものである。あの師匠のモノマネをこの人が分かるわけもないか。笑いしかない自分に出来ること。

「あの」

「はい」

「自分は優勝したらこう言おうって決めてたことがあったんです」

「そうなんですか。何を?」

「―これでようやくおはらいができます」

 神主のきょとんとした顔にこれがスベったことを確認した。そら分からんやろ。

「あのー、神社でのお祓いとお金の支払いを掛けてですね…」

「はい」

「ええ、それで『おはらい』ということで…」

「あぁー」

 ネタが理解されていないことでスベる、理解してもらうために説明する、もはや純粋な笑いは起きない。これぞ負のスパイラルである。

「さすが芸人さんですね」

「あ…ありがとうございます」

 あまりこんな会話に付き合わせるのも申し訳ないと思い、その場を後にしようと辺りを見渡した。風に軽く揺れる境内の緑が綺麗だった。

―おっ、これやな

「じゃあ、そろそろ行きます」

「わざざわありがとうございました」

「いえ、またぜひ観に来てください」

「ええ、喜んで」

 遠くを眺めて、すーっと大きく息を吸い込んだ。

「あそこの喫茶店でジンジャーエールでも飲んで帰ります。神社だけに!」

 神主が少し吹き出した。

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富籤(とみくじ) 宮口拓子 @miyaguchi-hiroko

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