ただ、きみをみる。

豆ははこ

君を、みる。

「猫がいたんですよ。……あれ、おかしいな、いない。桜だけですね。ああ、でも、とてもきれいだ」


 それが、最初。

 大学の花見で真面目に桜を鑑賞するひともいるのか、と驚いた。


 次に、桜の木の高いところに猫がいたから、それを見ていたのだ、と言う相手の顔のよさに、さらに驚かせられた。


 そんな、彼と僕との、出会い。


 風は、強く。

 そして、冷たい。


 風に舞う、夜桜の花びら。


 その中に見えた、きれいな顔。

 手には、一升瓶。そして、蓋代わりなのか、かぶせられた紙コップ。


 酔っ払いのつぶやき、と言われそうな台詞。


 多分、猫も、見間違いだろう。そう思った。


 だが、彼が言うと絵になるから不思議だ。


 暗やみのはしから、ひょい、と、猫が顔を出しそうな気がしてきたくらいだ。



 彼の名字は、知っていた。


若菜わかな……くん、だよね」


「あれ、学科は違いますよね? 私の名字をご存じなのですか。わかな、が珍しいからですかね」

 笑う彼。 


 彼は、知らないらしい。

 珍しいのは、名字だけではないことを。


 さらさらの髪に、色白長身。

 裸眼は、大きくて黒目がち。

 どこからどう見ても、ハンサムというやつだ。


 外国の何とかという俳優とか、日本人ならば、白皙はくせきの美青年と言われた舞台俳優の誰それに似ているとか。


 共学の大学でありながら、女子学生という存在が眉唾になりがちな学部、工学部。

 そこに在学中なのは、僕達と変わらない。


 それにもかかわらず、文学部の女子たちから好かれているらしいという噂の存在、それが彼、若菜。


 学部内どころか、大学内の有名人。

 僕はこの日、そんな彼と親しくなった。

 

 一応、礼儀上から僕も名乗ったが、結局、若菜からは「貴方」と呼ばれたので、僕も「君」と呼ぶことにした。


若菜君わかなのきみではなくてよかったです」


 誰かに、そう言われたことがあるのだろうか。

 きみ、と僕が呼ぶと、彼は真底嬉しげに笑っていた。


 若菜。源氏物語からかな。


 不得手な古文。共通第一次学力試験のために、有名な作品の概略だけは頭に叩き込んだから、覚えていた。


 確か、光源氏が主役の話のなかでは、最後の巻。

 当時としては老年に入り、最上の位を得、樺桜かばざくらの君と称えられた、最愛の人、紫の上を失う巻。


 正妻である紫の上に、義理の母への思いをのせていた日々。

 それでも、最愛の人との別れのときには自らの思いに気づけたであろう、光源氏。


 果たして、彼は不幸だったのだろうか。

 そう言えば、もう一人の正妻、女三の宮と柏木の密会を助けたのは、猫だったよな。


「どうかしましたか」


「いや、なんでもないよ」

 若菜君から、源氏物語を思い出していた、なんて説明しても、な。


 それと、あまりにも整った顔が近くにあると、同性とは言え、戸惑うものなのだな。


 僕は、へんなことに感心した自分自身に、おかしさを感じた。


 親しくなってから分かったことだが、研究のために大学に泊まり込みをして無精ひげが生えてしまっていても、彼の顔はたいへんにきれいだった。


 君……若菜は、飲み会は好きではないが、花見は好きらしい。


 お互い、何かあると飲みたがる教授の研究室に所属していたからか、僕たちは、花見の期間は毎日のように顔を合わせることになった。


「会話ができなくても、花を見たらいいから、この時期の飲み会は好きなんです。まれに、女性との会食の席にもお誘いは頂くのですが、私は、自分の会話がつまらないことを自覚していますので、ご迷惑ですから、伺いません」


 そう。

 彼は、自分を私、と言う。


 それが、とてもよく、似合う。


「お酒は、一人でたくさん飲むのが……好きなんですよね」


 彼は、かなりの酒を飲む。


 初対面のときの、あの一升瓶。

 あれも、空だったものを回収し、酔い潰れた連中が残したものを集めて回って、一人でこっそり楽しむために持っていたというのだから、驚きだ。


「確かに、まあ、君は飲むし、飲める人だよね。でも、迷惑なんてことはないよ。君だったら、文学部とか、他大学の女子学生も喜んでくれるのではないかな。君の容姿は整っているから」


 やっと学問に集中できるようになった、昭和のこの時。よき時代。


 手をつないで歩くことなどは難しいが、きちんとしたところで少しばかり女子と会話をするくらいのことは許される。


「容姿……?」

 何のことか分からない、と本気で考え始めた若菜。


 僕は笑いを、いや、爆笑するのをこらえていた。


 女性でも、もしかしたら、男性でも。


 若菜の外見を好むすべての人に、伝えて回りたい気持ちに駆られそうにもなった。

 皆さん、彼は、自分の容姿がよいことに、頓着とんちゃくしてはいませんよ、と。

 

「貴方に褒めてもらえるならば、私の容姿も、捨てたものではないのかも知れませんね。ですが、桜を見ましょう。きれいですよ」


 どうやら、若菜の容姿を褒める権利は、僕に一任されたようだ。

 彼の外見を好む方たちには、申し訳ないという気もしたが、これは、仕方がない。

 


「貴方と飲むお酒は楽しいですから」


 二人だけの、花見。

 誘われたのは、葉桜の頃だった。


 花にはそれほど興味はない僕だが、桜を惜しむくらいの情緒はあるつもりなので、快諾した。


「見て下さい。奥の方にはまだ、桜がありますよ。なんという桜なのでしょうか」

「そうだね。なんだろうな」


 答えはしたものの、残る桜を探す気持ちにはならなかった。


 なぜだろう。


 また来年か、と桜を惜しむつもりだったのに。


 ……あ。 


 若菜の見ている方とは、逆。

 葉桜の群を見ていたら、はたと理解した。


 君が見るを、僕は、みないからか。


 そうだ。

 君が見てあげればいい。


 僕は、君をみるから。


 だけれど、それは。


 そう、こんなふうに。


 冷たい風が吹いて、わずかに残る桜の花びらたちの、かすかな花吹雪が舞う、この一瞬だけ。


 そんなことを考えていたら。



「猫だ。ほら、いましたよ」


 確かに、桜の枝の上に。


 白い猫が、見えた。


 こちらをじっと見つめる双眸。


 まるで、僕の気持ちを見透かしているかのようにも思えた。


 すると。


 にゃあ、と、ただ一声。


 猫が、鳴いた。


 僕は、声につられて、そちらをみた。

 みてしまった。



 声が、聞こえる。


 「ね、きれいですよ」

 

 「ああ」


 そう、それは。


 くやしいくらいに、きれいだった。



 


 


 

 ※共通第一次学力試験……現在の大学入学共通テスト、その前の大学入試センター試験以前に存在していた試験のこと。



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