恋人は、魔女

朝吹

恋人は、魔女


 魔女が、俺の腰を跨ぐようにして俺の上に乗っている。

 対面座位というやつだ。

 乗せたのではない、断じて。こう見えても職業は高校教師だ。不祥事を起こせば、俺の名と顔写真が全国ニュースにどどんだ。

「太郎くん。太郎先生」

「おう」

 河川敷の木陰で樹に凭れて気持ちよく昼寝をしていたら、魔女が乗っかってきたのだ。眼が覚めた。

 そよ風が川面にさざ波をつくっている。短いスカートから生脚をのぞかせながら、しどけなく魔女が俺の顔に顔を寄せてきた。

 俺のきょうだいも公務員だ。姉は役所勤め。兄は地方大学の助教授。だからこの体勢は止めよう。誰かに見つかる前に。

 草の上で身動きしたら、魔女の身体がずり落ちかけた。それをきっかけにして、俺は魔女の両脇を持ち上げると、「よいしょ」と俺の上から降ろした。

「そろそろ帰ろう」

 立ち上がり、明るい声を出した。

「不能」魔女が吼えた。

「そんな言葉を口にするなら君とはもう逢わない」

「今のは嘘よ、太郎くん」

 魔女が背後から抱きつく。女体は柔らかいよな。EDじゃないぞ。

「太郎先生、きれいな夕焼けね」

 魔女のことは幼少期から知っている。近所の子なのだ。俺の腕に腕をからませた魔女の眸に、黄金色の雲が映っている。夕陽に透ける髪。ヘアミストを振りかけているのかいい匂いがする。

「放さないわ。うふふ」

 可愛い顔と声で云っていることが怖い。

 どうしてこうなってしまったんだろう。

 他の男なら喜ぶべき状況なんだろうか。



 わたし、太郎くんのお嫁さんになる。

 あ、そう。


 近所に住んでいる幼い魔女のままごとの相手になってやっていた。当時俺は中学生、魔女は幼稚園児。

「太郎くん、ゆびわ」

「君の指にはめたらいいのね。はいどうぞ」

 魔女が差し出し、俺の手から魔女の指に戻っていったおもちゃの指輪は、まだ幼子には大きくて、左手の薬指からすぐに抜け落ちた。

 次に逢った時、指輪はビーズの首飾りの先にぶら下がっていた。魔女は得意そうに「これなら失くさない」と胸の前に揺れているそれを俺に見せた。その時の小さな指輪は、今は成長した魔女の左手の小指にはまっている。

 塗料が剥げて、金色に変わり、さらにそれも変色して銀色っぽくなってしまった四つ葉のクローバーの指輪。もとは翡翠色だった。

「身の置きどころがなかったの」

 魔女というのは比喩でも何でもない。本物の魔女だ。

「たまに魔法が使えない魔女が生まれるの。そんな魔女は、魔法界にいるよりは人間界で暮らすほうが倖せだからといって、人間界で暮らしている夫婦の家に養女に出されるの」

 魔女の両親の顔を想い浮かべながら、俺は魔女のはなしを聴いていた。両親ともに外観は外国人だ。彼らも魔法が使えない魔法使いなのだという。

四葉よつばちゃんが魔女だとしたら、その魔法界は何処にあるんだい」

「あのへん」

 大真面目な顔をして四葉ちゃん、これが魔女の名だ、小学生になった四葉ちゃんは天空の何処かを指した。

 お蔭で空を見上げるたびに、「あのへんに魔法使いの国があるのか」と雲の向こうをしみじみと凝視する癖がついた。何処なんだよそれ。



 魔法が使えなくとも、四葉ちゃんは正真正銘の魔女だった。

 学齢になった四葉ちゃんは俺の出身校でもある地元の小学校に元気いっぱい通学していたが、或る日の下校時、変態と出くわした。学区に変質者が最近出没しているとの地域情報が回り、パトカーが巡邏していた頃だ。

 大学一年生になっていた俺はその日、午前だけ授業を受けて学食で昼飯をくってから家に帰る途中だった。

 四葉ちゃんは恩賜公園の木立の中に連れ込まれた。その公園の側道を俺が歩いていた。

 触るな。人間の分際で。

 四葉ちゃんの声に似てるな、と想った。

 学童がかぶる黄色の帽子が風もないのに俺の方まで転がってきた。公園の方を見た。

 四葉ちゃんは牡丹色のランドセルを背負ったまま、ただ立っていた。だけどその顔は、眉がつり上がり、牙を覗かせでもするかのように唇が少し開き、シナイ山でモーセの前に降臨した神のごとく何か熱そうな霧がその全身から放出しており、とどめに水色のその眸は鏡のようにぎらぎらとして、光の矢を迸らせていた。

 変質者は死んだ。

 水道栓をきゅっと閉めるようにして完全に息が絶えていた。

 俺はその場から四葉ちゃんを小脇に抱えて連れて逃げた。そして俺たちの家の近くの、疎水にかかった橋の上で、今日のことは誰にも話さないようにと四葉ちゃんに誓わせた。公園で見た四葉ちゃんの姿は俺の錯覚だ、きっとそうだ。だけど四葉ちゃんが変質者と一緒にその場に居合わせていたことが知られたら、世間が何を云うか分からない。相手が死んでいるのだ。悪い噂が広まれば、四葉ちゃんの将来に傷がつく。

 そんな取り越し苦労で狼狽えていた俺に対して、四葉ちゃんは落ち着き払っていた。

「太郎くん」

 四葉ちゃんは襟元から見えている毛糸の糸を引っ張り、お護りを取り出した。装飾品は禁止でも、お護りや家の鍵なら学則の範囲外だ。

 交通安全のお護り袋の中から、魔女はおもちゃの四つ葉の指輪を取り出した。

「許せなかったの。あいつ、これに触ろうとしたから」

 変質者が触ろうとしたのはそれじゃないぞと教える気にもなれず、「とにかく、忘れてしまうこと」と俺は本件についての沈黙を四葉ちゃんに固く約束させて、黄色い帽子をその頭にのせた。


 

 卒論や教員になる為の試験準備に忙しく、教職に就いたら就いたで忙しく、折々に付き合う恋人もいて、ワンルーム・マンションも借り、実家の近所の魔女のことはたまに想い出す程度になっていた。

 中高一貫校に進んだ魔女の四葉ちゃんも、彼氏が出来て毎日楽しくやっているようだった。駅前でたい焼きを食べながら友だちとふざけて笑っているところなんかも目撃した。

 しばらく逢わなかった。

「改正された法律のせいで二年遅れて、やっと結婚出来る年になったわ」と俺の前に再び現れた十八歳の四葉ちゃんは背が伸びて、魔女の血のなせるわざなのか、眩いばかりのとびきりの美人になっていた。そして魔女は真剣な顔をして俺に求めた。 

 結婚して、太郎くん。


 

 断る。

 どうして。

 何度かこのやりとりを繰り返した挙句、俺は根負けした。

「三年待ったら結婚してくれるのね」

「約束します」

「デートするのはいいでしょ」

 まあいいか。

 そんなわけで、四葉ちゃんは休日になると俺の処にやって来て、媚態をちらつかせながら纏わりつくようになったのだ。

 結婚の約束をしたのは適当な気持ちからだ。三年後、俺はもう三十代のおじさんになっている。予定はまだ先だから、そのうち四葉ちゃんも心変わりをするだろう。君に似合う男はモデルか何かだよ。


 今日はいつもと違い、来るのが遅い。

 土曜日だった。授業の準備のための教材を散らかしていると、チャイムが鳴った。

「四葉ちゃん、鍵は開いてるよ」

 声をかけたが、入って来る気配がない。玄関に行って扉を開いた。そこには四葉ちゃんではなく、きりりとした顔の外国人の少年が、金雀枝エニシダの箒を持って立っていた。

「姉はいますか」

「姉」

「ヨツバです。わたしの姉です」

 ひと目で見渡せるワンルームの中を覗きながら、少年は魔法界から来たと俺に自己紹介した。四葉ちゃんは魔法が使えない魔女だが、「それは嘘です」と少年魔法使いヨアヒムは否定した。現代人の服装をしているが、多分ヨアヒムが持っているその箒は、空を飛ぶやつだ。

「姉のヨツバは魔法が使えないのではなく、生まれ落ちた時に幻術師が魔法をかけて、魔力を大幅に制限されているのです」

「なんのために」

「姉が、怖ろしい力を持つ魔女だからです。ヨツバが本気を出せばこの島国など姉の魔法により瞬く間に海の底に沈みます」

「なるほど。魔法の力で国民全員がそう想わされるのかな」

「言葉どおり陸地が割れて壊滅するという意味です。そしてこの島が沈むことになれば、近隣諸国も大津波に襲われて、何十億もの人間が死ぬでしょう」

 怖すぎ、四葉ちゃん。

「……それでヨアヒム君は俺に何の用」

「どうやら、姉が誘拐されました」

「先にそれを云えよ」

 慌てて俺は家を出た。



 ヨアヒムの操る箒に二人乗りをして、俺は空を飛んだ。ものすごく速かった。墜落する飛行機にでも乗っているような気分だった。

「何かあてがあるのかい、ヨアヒム君」

「複数の箒の痕跡がわずかに見えます。姉を誘拐した連中のものかもしれない。それを追います」

「誘拐したのは誰」

「魔法界における反体制側といったところでしょうか。強大な力を持つ姉を陣営に取り込んで、魔法界で花火でも打ち上げようというのでしょう」

 やがて眼下が真っ白になった。

 菊の畑だ。

 山間に白い小さな菊の花が何処までも続いている。遠目にはシロツメクサに見えなくもない。眼下のこの大地から四葉ちゃんを探さなければ。

「四葉ちゃん」

 ヨアヒムの飛ばす箒の上から俺は大声で呼んだ。

「四葉ちゃん」

 君が魔法界に帰るというのなら引き止める権利は俺にはないが、誘拐は駄目だ。

 むせかえるような菊の香。太陽が昇る前の夜明けの風のような寂しい匂いがする。

「太郎くんからもらった四つ葉のクローバーの指輪。首飾りにしたからもう落とさない」

 名まえと同じあの指輪を君がどれほど大切にしていたことか。

 姉の姿をヨアヒムが見つけた。

「太郎さん、あそこに」

 山稜に送電用の鉄塔が幾つもそびえ立っている。その谷間、菊の花の波の中に四葉ちゃんはいた。他のものも見えた。あまり見たくないものだ。引き千切れて散らばっている魔法使いたちの残骸。四葉ちゃんがやったのだ。

「ヨツバ姉さん」

「四葉ちゃん」

「太郎くん。ヨアヒム。危ないから来ないで」

 箒で降り立った俺たちに向かって四葉ちゃんが叫んだ。

 四葉ちゃんを襲った魔法使いはまだ数名そこに残っていた。悪漢らは手にした魔法杖を打ち合わせた。金属がへし倒れる轟音がした。太い送電線が鞭のようにしなり、風が走り、鳥が一斉に飛び立つ。

 山から鉄塔が倒れてきた。



 魔法界なんかには帰らないわ。

 四葉ちゃんが俺を抱いている。左手の小指にはあの指輪。

「クローバーが」

 おもちゃの指輪のリングから飾りの四つ葉が外れて、土石流の中に零れ落ちてしまった。それを捜そう手を伸ばした俺を四葉ちゃんが抱き止めた。

「いいのよ」

 俺たちは天地がひっくり返った世界の中で、落ちてくる菊の花の雨に打たれて浮いていた。

 わたしは人間界で育ったの。太郎くんの傍で育ったの。一度も魔法界に戻りたいと想ったことはないわ。

「魔女は嫌い? 太郎くん」

「ヨツバ姉さん」

 ヨアヒムが箒で俺たちを迎えに来た。

 砲弾のようにボルトを四方に飛ばして倒れてきた巨大な鉄塔。手にした魔法杖からヨアヒムが魔法を飛ばしてその傾斜を宙で止めたが、倒壊する鉄塔はそこから狂暴な象の鼻のように突然角度を変えて、反対側の、悪い魔法使いたちの上に巨人の槍のように落ちていった。四葉ちゃんがそれをした。

 大地震のように地面が跳ねた。

 覚えていないが、俺は叫んでいたらしい。これでは電力会社の管理責任問題になってしまうとか何とか、大人の配慮らしきことを。

 すると四葉ちゃんは、「想定外の天災に見えたほうがいいかしら」と云った。止める間もなく、突如として山並みがうねり、山体崩壊した山が近くの鉄塔を数基のみ込み、崩壊音を立てて土砂が菊畑と共に一帯を谷に押し流していった。ウエディングケーキが皿から滑って床に落ちていく海外のハプニング映像のようだった。

 下流に被害が出るのを止めてから帰ると云った四葉ちゃんをそこに残して、一足先にヨアヒムの箒で雲の上に舞い上がった俺は、下界の怖ろしい光景に震え上がっていた。土煙の中に崩れ去る針のような鉄塔の残骸。

 四葉ちゃんの小指から落ちたクローバーも、その中に消えた。



 少年ヨアヒムは、「魔女であると知りながら姉を疎まない人間は希少です。姉のことを宜しくお願いします」と俺に頼むと、魔法界に帰って行った。魔法界とは人間界と重なるようにして、次元の違う処にあるそうだ。

 魔女が俺の上に乗っている。

 四つ葉のクローバーの指輪が魔女の左手薬指を飾っている。失くした指輪の代わりに俺が贈ったものだ。

「太郎くん」

 いつもの河川敷。木漏れ日を落とす大樹の下でうとうと昼寝をしていると、四葉ちゃんの口づけで眼がさめた。 

 爽やかな風。川のせせらぎ。俺を跨いでいる四葉ちゃんの柔らかい唇と短いスカートからのぞく生脚。どうしてこうなってしまったんだろう。

 もちろん気分は悪くない。



 [了]

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋人は、魔女 朝吹 @asabuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ