悪魔と老いた天使

真花

悪魔と老いた天使

 夜の一時、住宅街に夏の精はむせ返るように満ちている。

 ドアも壁も僕はすり抜けて、客の、と言っても僕が一方的に決めたのだが、北島良平きたじまりょうへいの部屋に上がる。靴は脱ぐし、ワイシャツにスラックスでビジネスライクなスタイルだ。顔だって普通の日本人にしてある。北島は机に齧り付いて勉強をしている。僕の気配に気が付かない。僕は区切りがよさそうなところまでそのままで待つ。

 北島が伸びをした。すかさず、僕は、あの、と声をかける。穏やかに、平和そのもののように。北島がビクッと体を硬直させる。錆びついたネジを力づくで回すようにゆっくりと振り返る。目が合う。北島が忙しなく視線を動かして、僕を見分する。

「誰?」

 僕は一礼して、微笑む。営業スマイルよりはずっと、心からの微笑だ。北島は全然笑わない。細かく震えているように見える。安心を与えたいが、代償が取れないのでそれは出来ない。

「悪魔です。取り引きをしに来ました。それ以外に何かをするつもりはありません」

 北島はじっとりと疑う表情をして、また視線を動かす。コチコチと時計の音が鳴っている。眠り損ねた蝉の声が遠く聞こえる。北島が深く息を吸い込んだ。

「信じられない」

「これでどうでしょう」

 僕が念じると枕が宙に浮いて、部屋の中を飛び回り、北島の膝に落ちる。北島は膝の上の枕を両手で掴んで、その感触を確かめた後にベッドの上に投げた。

「信じます」

 北島が信じたのは枕が舞ったからではない。僕は北島の「疑心」と「枕の浮遊」を取り引きした。その結果、「疑心」が消えた。僕に出来ることは三つだけで、その一つが「取り引き」だ。僕は北島の納得に満足した顔をする。

「では、本題に入らせて頂きます。北島様は大学受験生ですよね?」

 北島は頷く。頷くがその現実を認めることに苦痛を伴っていることがありありと分かるような苦い顔をする。

「俺の学力じゃ、志望校に入ることは無理なのに、親はそこを受験しろと言う。ただの徒労になることは目に見えている」

 僕は世界で最初のサポーターのように深く何度も頷く。受験なんてしたことはないが、その苦役によって人間が僕を必要とすることはよく知っている。知っているからこそ今日の客に北島を選んだ。

「具体的に、あとどれくらいの学力が必要ですか?」

 北島は机の方を向き、紙束を取って僕に見せる。紙束は模試の結果で、本人の現在の偏差値と、目標としている学校の偏差値の両方が載っていた。

「二十あれば、何とか」

 思ったよりも大きな数字で、だが僕はプランの通りに話をすることにした。

「偏差値一につき寿命一年でどうでしょう?」

 北島はぐっと黙る。手に持った模試をじっと見る。僕も黙って待つ。いや、この時間を待っていた。むくむくと大きくなるそれを取りに来た。取り引きは手段に過ぎない。北島は考えている。いや、葛藤している。命と学力のどちらを取るか、僕には関係がない。肝心なのは、それが二つとも大事なものであり、最終的には答えが一つになるものであることだ。僕達が集めているのは人間の葛藤だ。葛藤を収集して、魔界に持ち帰る。魔界から見たら、現世は葛藤を栽培するための農場に過ぎない。

「二十年寿命が短くなって、偏差値が二十上がるのか」

 だから僕は悩みが強くなるようにスパイスをかける。

「十年なら偏差値十です。残りの十は努力と言うことでどうでしょう」

 北島はまた黙る。葛藤はどんどん膨らむ。「疑心」が消えているために、僕の言葉はストレートに届き続ける。もちろん、取り引きは厳正に行う。十年くれれば偏差値は十上げる。時計の音がまた強く鳴って聞こえる。秒針が北島の心を削っているみたいだ。削れた分だけ葛藤が大きくなる。悩め北島。それだけ僕は得る。

 北島は天を仰ぐ。顔に手を乗せて、あ、あ、あ、と声を漏らす。北島にとっては二度とないであろう楽に学力を伸ばすチャンスで、早死にする確約のピンチだ。

「悪魔、さん」

 北島は呼んでから顔を僕に向ける。僕は、はい、と丁寧さを失わないで答える。葛藤の膨張が止まったから、答えが出たのだろう。その答えを聞く前に僕は葛藤を手のひらで吸い込む。北島にはもちろん見えない。

「俺、自分の力でやってみるよ」

 僕は、え、と声を出した。どっちに決断しても葛藤が収集出来れば問題はないのだが、現時点での学力を考えたら北島が偏差値を寿命で買わないとは思えなかった。現実は違った。

「分かりました。では、失礼します」

 北島は雨上がりのような晴れやかさと輝きを伴った顔をしていた。僕は一礼してドアを擦り抜けて外に出た。手に入れた葛藤の重みと北島の顔が釣り合わない。


 北島のせいで落ち着かないので、散歩をすることにした。上野公園の中に入る。

 噴水の脇の木の根本に年老いた天使が座っていた。まるでそこに根を張っているみたいで、かなり太っていた。天使は天使が望むときにだけ人間に見えるが、悪魔にはいつでも視認することが出来る。僕は天使に近付く。

「お姉さん、ここで何をしているんですか?」

 老いた天使は声がかかって初めて僕に気付いたみたいに顔をこっちに向ける。そんなことはないはずだ。だが、もしかしたらモウロクしているのかも知れない。その緩慢な動きを僕はじっと待つ。天使は綿菓子のように笑う。

「神様を待っているのよ」

 僕は首を傾げる。自分で会いに行けばいいではないか。天使にはその機能がある。天使は天使で僕達とは別の形で葛藤を収集して天界に運ぶのだから、そのついでに行けばいい。だが、自分で行けとは言い辛い。そうしないのにはそれなりの理由があるのかも知れない。

「もう長いんですか?」

 天使はこっくりと頷く。あごの肉があごを座布団のように収める。天使は遠くを見るような目をしてから、何かを目で数えて、やっと僕のところまで視線が帰って来る。

「百年は待っているわ。でも、信仰心が揺るぎないから、平気なの」

 天使は「信仰心」と「俗な心」の間の葛藤を吸い込む。ラッパのようなものを持っているが、それで吸い込む。その本人が信仰心と言うのには違和感が強い。まるで、売り物を私的に流用しているような禁忌感すらある。もし神様に対して求心力を感じるのなら、忠誠心とかになるのが妥当だろう。

「まるで人間ですね」

 天使はキョロキョロと辺りを見回してから、僕を呼ぶ。耳を出せとジェスチャーでして、僕はそれに従って右耳を天使の口元に近付ける。天使はその格好のまましばらく何も言わなくて、僕が、何でしょう、と急かすと、囁いた。

「新しい堕天使の形よ。でも、人間とはやっぱり違うわ」

 天使はふふふ、と笑う。それはそうだろう。百年も人間は座っていられない。だが、信仰心を語るなら、その新しい堕天使は人間に近付くと言うことではないだろうか。

「ずっと待つんですか?」

 天使はゆっくり一回瞬きをする。涙が溢れるかと思ったが、何も出なかった。そのまま向こうの方を見た後に、空を、まだ真っ暗な空を天使は仰ぐ。そっちに天界はないし、北島が同じように仰いだ天井にも答えは書いていなかった。二人が見ているものは何なのだろうか。僕も人間に堕ちれば仰いだ先に何かを受け取ることが出来るようになるのだろうか。天使は視線を僕に戻して、ため息のような目をして微笑む。

「神様との約束だからね」

 僕は天使の微笑に呑まれそうな錯覚を感じて、首を激しく振る。これ以上関わったら、本当に呑まれてしまう。あの体の肉はこれまでに呑まれた悪魔で出来ているのかも知れない。

「それじゃあ、失礼します」

 天使は、じゃあね、と手を振る。僕も振り返して、その場を去る。少し離れてから振り返ると、老いた天使からは巨大な葛藤が生えていた。


(了)

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