ピレネーの城

笠井 野里

ピレネーの城

 教室は授業中にもかかわらず浮足うきあし立っていた。浮足立つどころか、一時間後には机を浮かせて席替えの運びとなるのだ。五限の美術の座学では、アクセントも一点透視図法いってんとうしずほうも誰も聴こうとするものはいない。三ヶ月という異例の長さで、夏休みの終わりから秋まで変わらなかった座席順が、次のの時間でようやく変わる。


 教室は隅から隅まで、安堵あんどと期待と、少しの不安が混じった中学生にありがちな、しかしやはり喜びの顔を見せていた。――隅から隅まで? 窓際の隅に座る二人の男女だけは、表情にかげを落としている。一番窓際の女子は、なにも言わずに美術の教科書をめくっている。その右隣の男子は、窓の外の、車が点になってひっきりなしに往来する国道一号線を眺めている。


 男子がふと空を見上げると、秋の昼下がりらしい青さをしていて、雲一つない。教室と皆と同じ色をしている。彼はどこにも逃げ場を無くして、隣席の彼女を見た。彼の目には、彼女が青空の顔をしているのか判断つきかねた。彼女は、見るでもなく教科書をめくっている。ふと、彼女は彼の視線に気が付き、どこかぎこちなく笑って、いつものように授業中の二人の暇つぶしを提案した。


「おもしろい絵、探さない?」

 彼は二つ返事で、自分の教科書を開いた。彼女とこうしてたわむれるのも、席が変わったらできないのかと思うと、心が重苦しい。見開きで現れたレンブラントの『夜警』の明暗めいあんは、彼の精神をもたれさせた。


「……あのさ」

 彼女は、小さな声で呼びかけながら、ふと彼の方に椅子を寄せて、彼の教科書を見つめた。彼は無言でその先を待った。

「――やっぱなんでもない」


 恥ずかしそうに笑って、彼女はまた彼女の教科書に目を戻した。寄せられた椅子はそのまま。ページをめくる。フェルメール『真珠の首飾りの少女』が彼を見た。彼には、彼女の瞳のほうが力強く美しく思えた。ゴッホ『ひまわり』のおどろおどろしさ。クリムト『接吻せっぷん』のヘンテコさ。ピカソ『ゲルニカ』の叫び声。――しかし、今の彼にはどの絵画も迫ってくることはなかった。


「席替え、楽しみ?」

 突拍子もなく湧き出た彼女の問いに、彼はついホンネを口にしてしまった。

「ぜんぜん」

「そっか」


 彼は短い相槌あいづちの感情の不透明さに、騒がしい教室の中とは異質いしつの無音を感じ、落ち着かなくなって消しゴムを手元でもてあそんだ。彼女も、席替えをしたくないのだろうか。そんな考えが頭をよぎったが、都合が良すぎることは信じられないたちがわざわいいし、すぐさまかき消きえてしまった。



 結局、彼女も彼もおもしろい絵を見つけられなかった。黒板にはいくつも一点透視図法を説明するための図形が描かれ、線が二重三重に引かれ、ごちゃついて意味が分からなくなっている。時計の針は五限の終わりを示す準備をいそいそとしているし、皆それを待っている。彼は、――彼だけは、時計の針も教室の空気も、絵もなにもかもが息苦しく思えていた。頬杖ほおづえをついて教室の一点をにらんでも、二点をにらんでも、遠近法が崩れたような感覚におちいる。


 彼は救いを求めるように窓の外を見ようとした。窓の外には、遠近がある。校庭、公孫樹いちょう、国道一号線、堤防ていぼう、そして水平線がだんだんと遠くになって消えていく。そういう景色を思い浮かべた。

 彼は窓を見ようとして、彼女の瞳とぶつかった。すぐ顔を逸らしてしまう。瞳の残像がくっきり残り、この席からみる景色がもう見納めであることを強く意識せざるを得なかった。


「あのさあ、そっちは席替え楽しみ?」

 彼は少し前にされた質問を彼女に返した。その声は石のように固く灰色だった。

「私は席替え、ぜんぜん楽しみじゃないよ。……さびしいなって思う」

「……うん。おれも、さびしい」

 それを聴いた彼女は、彼には寄りかかるように近づき、そして、美術の教科書の表紙にニッコリマークをラクガキした。サイン付き。


 二人、曖昧に笑った。彼は全身がやわらかくなったような気がした。時計の針がまたいそいそと走っていく。席替えまではあと少し。二人だけの寂しさが、並んだ二人の机の間に教科書のカタチで置いてある。美術の教科書の表紙には、波立つ海、青い空、そして浮かんだ岩、その上に立つ城、マグリットの『ピレネーの城』が描かれていた。――そして雲の隣には、ニッコリマーク。


 浮足立った教室の端に、二人の城が浮かぶ。

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