第51話 女神の名代
マルグレリンが部屋を出ていくのを見送ってから、倒れ伏しているネグロの方へと歩み寄る。
記憶を失わせる魔法とやらがどのような作用をするかは分からないが……覗き込んで顔を見れば、眉間にシワもなく一見穏やかに眠っている。
青い鳥は彼が目覚める前に姿を隠したほうがいいと思ったのだろうか。床に転がっていたカバンの中に頭をつっこみ、潜り込んでいく。
「……こういう顔は昔のままなのだけどね」
人差し指を伸ばして、眉間の間を柔らかくなぞる。眠り続けていた10年という期間はネグロを精悍にし、騎士団長という重役に押し上げていた。彼は自分のことを卑下して、主人のいない自分に価値がないというように振る舞うけれど。
「私はいつだって、お前を誇りに思っているよ」
彼が目覚めている時には決して口に出せない言葉を紡いでから、肩に手を当てて軽く揺する。
「ネグロ殿、ネグロ殿。起きてください」
「────ヴァイ、ス、……さ、ま?」
半覚醒の瞼の下の瞳がこちらに焦点を合わせる。敬称に心臓が冷えるが、表層で動揺を見せるわけにはいかない。努めて穏やかな苦笑を浮かべて見せた。
「様付けは不要です。……覚えていますか? 助けに来てくださった後で魔王の名代と名乗った男と交戦をして、後一歩というところで逃げられたのです」
「……ああ。そうか。……あの向こう側にお前がいると思い、窓を叩き割って飛び込んだところまでは覚えている。ヴァイス、怪我は」
ラウディカの、そして私の目論見通り記憶を失っていることに安堵しながら首を横に振った。
「いいえ。向こうは俺を害することが目的ではなかったようでしたから、無事です。……まあ、だからこそ不気味だとも言えますが」
「怪我がないのは何よりだが、その物言いは厄介だな。……再びお前を狙ってくる可能性もあるのではないか?」
唇を固く引き結ぶ顔からは、心配が伺える。一度、二度。ネグロの口が開いては閉じられる。
「そうかも知れませんね。今回の手が挫かれたとあらば、また別の手法を考えてくるかも知れません」
「──私が何を言いたいのか、お前なら分かっているだろう?」
「分かっていますよ。でもそれを口にしないのは、あなたも察しているからでしょう」
危険に遭う可能性を恐れるならば彼の、騎士団の庇護に入れというのだろう。けれどもそれに私が頷くことはしない。
「……そうだな。ヴァイス、お前は存外に頑固だ。こうと決めたことを揺るがせるとは思わない」
「褒め言葉として受け取りましょう。ええ、俺は俺ですべきこともしたいこともありますから」
バラッドが告げたバグの原因があの男だというのならば、再びまみえる必要がある。それに、マルグレリンのように派閥とは別軸で国を良くする理解者を得ることは続けたかった。
「そういうところは……私の敬愛する方によく似ている。だからこそだろうな。お前自身の望むままその力を振るってほしいと思いながら側に私を置いてもらうことを望みたくなるのは」
自嘲を浮かべる男の瞳の奥には燻った熱が渦巻いている。どこへ向ければよいのか定まらなくなった黒い灯。
「それでも、あなたはその感情に耽溺しないでしょう。……すべきことを理解し、そうあれかしと振る舞える方だ」
「当然だ。それがヴァイスさまが望む私の在るべき形だろう」
その通りだと心の中で頷いた。それを分かってくれているのだから、
「……俺はもう少ししたらこの街を発とうと思います。先ほどの魔王の名代が今後何かを行うならば、その標的は俺になるでしょう」
「…………。そうか」
「ええ。とは言えまた何か会った時にはアカネや……あなたを頼ることもあるでしょう」
燻っていた炎がわずかに灯る。
「今生の別れではありません。今後もお互い最善を果たすのならば、交わる道はいくらでもあるでしょう」
彼の腕を取り、力のこもっていない手の指先を自らの額に当てる。戦に赴く騎士への幸を祈る仕草。
「──その道の果てに、あなた自身の報いがあることを祈っています」
物語に用意されている聖女の救済でも良い。それが彼に降り注がれないのなら……物語の幕が引いた時にでも、彼の心に炎を灯してみせよう。
その方法は闇に覆われたあの部屋の中で確かに知ってしまったのだから。そこまで思わせてしまった責任を、全てが終わった時にも放置するほど残酷にはなりきれなかった。
《……やはり、あなたが悪逆な皇太子になるなんて無理でしたね》
バラッドが聞こえることも厭わずに笑い混じりに囁く声。全く、自分でもそう思うよと苦笑まじりに笑みをこぼした。
元皇太子は正体を隠したい〜皇家教育と青い鳥の裏情報を使いつつ、バグの原因を解決せよ〜 仏座ななくさ @Nanakusa_Hotoke
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