第50話 締結

「さて、一難去ったとは言えここからが大変だ。ネグロを起こしてからマルグレリン殿に説明を……──」


「……」

「……」


 首を僅かに上に起こしていた、マルグレリンと目が合う。汗を顔に滲ませた彼は、色のついたガラスの装飾品の奥で瞳をこれでもかと開いていた。


「…………」

《そういえばいましたね、この人》

「いますガ!?」


 渾身の悲鳴をあげたのは今回の発端であり、立役者。

 ……うん、ごめん、私もてっきりラウディカがまとめて記憶を失わせたものだと思っていた。


「ええと……いや、ここまで来たのなら遠回しな探り合いはよそうか。──先程の話、聞いていたか?」


 視線が泳ぎ続けている様に鋭く尋ねれば、勢いよく背筋を正して「ハイッ!」と声が返ってきた。

 かと思えば一気にその体はすぼみ、伺うようにこちらを見てくるあたり、成る程。彼は彼で動揺しきっているようだ。


 私自身ももちろん困っている。困ってはいるが、頼むことは決まっていた。


「聞いてしまったことは仕方がないか。まさか記憶を君も失ってくれとは私には言えない。……ただ、そうだね。出来るならば先の話、吹聴はしないでほしい」

「……何故ですカ?あなたがその名を明かせば、その名の責務を果たすならば、この国の未来は安泰でしょうガ」


 訝しんだ顔をされる。青い鳥が告げた可能性も、私が眠る前に聞いた運命も彼は知らないのだ。そう思うのは自然なことだろう。だけれど。


「私がヴァイス皇太子その人だと分かった瞬間ネグロの大暴走がはじまりそうだからね……ブランを皇帝から引き摺り下ろすなんて真似をされたら目も当てられない」

「…………あァ…………やりそうですネ……」

《正直なところ、やると思います》


 三者三様、そのうち一羽は鳥だが、とにかくめいめいが頷いた。こんなところで同意を得たくはなかったが。


「弟が皇帝として立ち、その責務を果たそうとしているときに横槍を入れるような真似はしたくない。本人がそれを望むのならまだしもね。……だからまあ、あまり中枢に絡みそうな君たち商会や騎士団と……それから、アカネとはどこかで距離を置くつもりだよ」

「…………それでアナタは、よろしいのですカ?」


 ため息と共にマルグレリンが装飾を外す。色のついた硝子に隔てられていた細い瞳を初めて真正面から見た。


「君の言いたいことは分かっている。無論、そのまま見ぬふりをすれば救えぬ者もいよう。だがそれは力不足だけから来るものではない。どのような立場に誰が就こうと、只一人では救えぬものだ」


 それは私であろうと変わらない。私の理念に当時の皇帝である父が賛同し、ネグロをはじめとした多くの理解者がいてくれたからこそだ。


「私は信じているよ。ブランが成す国の未来を、アカネが与える祝福を、ネグロが切り拓く争いの先を。それでも救いきれぬものに手を差し伸べる道を、私は選ぶだけだ。……そして、可能ならばそれを、貴方にも手伝ってほしい。マルグレリン」


「……っ、ワタシ、が……?」


 差し出した手を、茫洋とした顔でマルグレリンが見つめる。そんなにおかしなことを言った覚えはないのだけれど。思わず苦笑がこぼれた。


「政治と宗教と騎士による統治、それらだけでは人々の生活を豊かにし実りあるものにすることは不可能だ。黒百合商会をここまで巨大な形に築き上げた貴方の力なら、より多くの発展をさせることができるだろう。……無論、私は君にとって無価値な男だ。この頼みを聞く義務も、責任もない」


 彼の再三の誘いを断っておきながら虫が良い自覚はある。それでも、言葉にしなければ伝わらないこともあるから。

 ……同じいる部屋にいるもう一人にはどうしたって伝えられない分、せめて彼にはこの言葉を届けたかった。




「──イイエ、そのように無価値などと仰る必要はございませン」


 胸元に手を当てたマルグレリン。元来胸を張り背を伸ばす気持ちのよい姿勢をとる男だったが、それがここに来てさらに一回り大きくなったようにも見えた。


「ヴァイス殿下……この瞬間だけは殿下と呼ばせてくださいネ。ワタシは確かに殿下の命を聞く責任はありません。ですガ商人には商人の誇りがありまス。亡者として無心をするのではなく、己が良心の赦す形で利益を追求するという。

 ……目の前の力と金に目が眩んでいたワタシを覚ましたのは、アナタがワタシの才に気がついてくれた時でした」


 どこか照れくさそうに口元を緩め、商人は自らの目元をなぞる。


「叩き上げの頃から築いてきた目利きの腕。責任者になるにつれていつしか忘れていたワタシ自身を評価してくださったのでス。それに応えぬのは商人の名折れ。……まあ、ワタシや商会の利益はもちろん最優先とさせていただきますガ」


「………‥ありがとうございます」


 この世界は完全無欠の皇太子わたしを必要とはしていない。だからできることは何もないが……それでも、生きていることすらも未だ伝えられぬ家族たちの、民の一助に少しでもなれるのなら。



「さて……そろそろネグロを起こしましょうか。マルグレリン殿は動揺を表に見せずにいることは得意ですか?」

「……どうでしょうねぇ。商人として一端のつもりはありますガ、アナタやネグロ様のやり取りを聞いて保てる保証は……難しいかもですネ」


「ふふ。ならマルグレリン殿は商会の面々に今回の件を穏便に伝える準備をお願いします」


《…………またヴァイスがフラグを回収することになるかもしれないのですね》


 机に乗ったままやり取りを大人しく聞いていたバラッドが頭を左右に振った。そう何度も同じ轍を踏むことにはならない……と、思いたい。

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