第49話 破談

 私が正体を明かした瞬間のネグロの表情ときたら、私の人生の中でも類を見ないものだった。

 驚愕と喜びと訝しみと、それ以外にもおよそ人が抱きうる感情全てを内包しているような。


「……何故。今まで隠されていたのですか?」

「お前が抜け殻のように、盲目な忠誠を私に向けてきたからだ。表向き私は死んでいる存在。縛られるべきではないと判断した」


 ネグロの眉間にシワがよっているのを見つめながら、彼が再び口を開くのに重ねるように言葉を紡ぐ。

「私の判断が間違っていたことがこれまであったかな?」

「……! ありません。ヴァイスさまの判断と御言葉よりも尊く優先されることなどこの世に存在しません!」

《安定の強火》


 青い鳥、バラッドがつぶやいた声をそっくり無視したネグロは、熱のこもった視線をこちらに向ける。今のこの熱量に比べたら、これまでの彼の瞳はまさに死んでいたと称するに相応しかった。そのことに胸が痛む。


「──ならばその点に関してこれ以上の説明は不要だね」

「はい。……ですが、何故今この時にそれを?」


 その疑問は当然といえよう。何せ眼前には未だ敵がいる余談を許さぬ状況。だからこそ、今口にする必要があった。

 殊更ネグロの意識をこちらに引き付けるように、勿体つけるようにゆっくりと口を開く。


「それは────」


齧れ毒林檎アトファスファム喜劇の記憶は我が内にキルトリコミテラシー



 *



 聞こえてきた声と共に、目の前にいたネグロが崩れ落ちる。まじないの言葉は馴染みがなかったが、それでも似た響きを聞いたことがあった。

 生理的変質魔法と呼ばれる、人の生理現象に直接関与する術式。倒れ伏したネグロを一瞥した視線は次いでこちらに向けられた。



「…………」

「どうしたのでしょうか、ラウディカ殿。……随分と怖い顔をして」


 先ほどまでの余裕すら残る笑みは何処へやら。眉間にシワを深く刻み、怪物のごとき形相となったラウディカへと微笑みを浮かべてやれば、数秒の間をもって笑みが返ってくる。


「…………流石ですね、皇太子殿下。私の目的を探り当てていたとは」


「君は私自身を害するのではなく、私が眠ることだけを促していた。こんな別の空間に連れてきた時点で弑するならいつでも出来たというのに」


 それをしないのは、私を殺せば絶対に味方にならないものを引き込みたかったのではないか。地面に視線を落とす。



「私が死ぬべき運命だと知って、誰よりも強く反発したのがネグロだった。私が死ぬのが正しい世界など認めないと。それを認めるのならば──魔王になっても構わないと」


 未だ沈黙を続ける男へと目線を向けた。


「魔王の名代よ。君がその役割の通りに動くとするならば何よりも望むのは魔王の復活だろう。魔を操る強大な力を持っているネグロほど、器に適した存在はいなかった……違うかな?」

「いいえ、違いません。私の目的はあの方を絶望させること。絶望は魔の力を歪め、魔王へとあの方を変容させるでしょう」


「そうだね。けれどもその絶望に君たちが関わってしまえばネグロの怒りが向くのは君たちに対してだ。復活させた魔王に君たち自身が滅ぼされることになる」


 だからこそ、私を手にかける訳にはいかなかったのだろう。あくまで私自身の意思で、この世界に存在する理由を失って眠りを選ぶことを望んだ。

 あくまで世界こそが、私を奪ったのだとネグロに認識させるために。


《……だからネグロ騎士団長に名を告げたのですね。それを知ってしまえば最後、ネグロ騎士団長があなたの言葉と反するものを受け入れるはずがありません》


「その通りだよ。とはいえ懸念はいくつかあった。そのうちの一つは、私の言葉をネグロが信じ受け入れてくれるか」


 その結果はさっき君も見た通りだよと微笑んで見せれば、ラウディカの表情が再び厳しいものとなる。敵意はあるが、殺される心配を私はしていなかった。彼が私を殺してしまった瞬間、彼の目的は永遠に潰えるのだから。


「もう一つの心配は、ネグロが私の正体を知ることでこの先の物語の展開が大きく変わることだが……」


 そちらは事実賭けだった。下手をしたらネグロに担ぎ出された私がこの世界を変え、致命的な破滅をもたらす可能性だってあるほどの。

 バラッドが制止をするのも無理はない。彼と私の違いは、ただ信じていただけだ。……ネグロではなく、目の前にいるもう一人を。


「ラウディカ、君が先ほど使った呪文は彼の記憶に作用するものだろう?」


 人々から記憶を奪う生理的変質魔法があることを私は知っている。

 今私が生きていることを家族が覚えていないのはひとえにその呪文があったからだ。かつて魔法を使用したネグロ自身が、そのことも含めて忘れている。


 ネグロが使える呪文を、この男魔王の名代が使えぬはずがない。それを信じた結果だった。


「…………まさか私の行動まで図った上の選択とは、皇太子殿下には驚かされます」

「元、だよ。今の私は君が以前言った通り何者でもない。……大切な弟に、正体を明かさねば死んだような目しかさせられない無力な男だ」


 先ほどの生きた瞳を見て思い知らされた。

 ネグロにとってただしく導きとなっているのは、かつての私だった。そのことに有り難さを上回る口惜しさを覚えている。


「だからこそお前の望む形になるつもりはないよ。ラウディカ=イ・ゼルマ=ニョグダ。眠ってしまえば、さらにこの子を傷つけることになる。目覚めたまま、出来ることを模索することが私の使命だ」


 それに否を──仮に抱いていたとしても、真正面から私を害することは出来なかろう。確信を抱いて彼を見つめれば、苦虫を噛み潰したような表情をされた。


「……長きに渡り続く皇国の歴史の中でも、最も優秀とされた皇太子殿下を侮りすぎたようですね」

「それはもう、過去の話だよ」


 浮かんだ泡沫の真実も、他ならぬラウディカが握り潰した。ネグロがその魔法を解く手段がない限り、今伝えた話も闇の中に葬られる。

 今の私はただの白紙ヴァイスに他ならない。


「分かったら引くといい。……お前の思う通りの魔王に、この子をさせるつもりはない」

「──仕方がありませんね。この場の商談は破談ということで、今日のところは退散するとしましょう」


 言葉尻からしても諦めていないことがうかがえるが、それならそれで構わなかった。指をラウディカが鳴らせば、窓の外の暗闇が青空へと変わる。


「とは言え、我らが悲願、魔王の復活を諦めたわけではありません。また折良い商談手法が見つかり次第、伺うことと致しましょう」

「……どんな条件であろうと、この子や……私の家族たちが悲しむような選択肢ならお断りだよ」


 こちらの言葉に唇の端だけを器用にあげ、一礼をした男は次の瞬間姿を消す。

 青空だけがただ、異様さから脱出したことを物語っていた。

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