第48話 砕けたもの
砕けたガラスが粉々になって床へと散る。外は変わらず暗黒の様相を呈しているというのに、そこに立つ男は焔を体現したような赤き髪をしていた。男は他の何を一瞥することすらなく、私の姿を認めると迷わずこちらへと駆け寄ってくる。
私に馬乗りになったイゼルマの名代に業火の如き視線を向け、剣を抜いた。
「どけ」
一閃した剣から炎が噴き出るのに大仰に肩が跳ねる。
──かつて私がこの世界の真実を知った日の朝方に見た夢。炎に囲まれて生き絶えた光景を否が応でも思い出す熱は、けれども私に直接触れることはなく、上に乗っていた魔王の名代を弾き飛ばした。
背中に回された腕が、いやに恭しくこちらの身体を支え、上体を起こす。その手つきに先ほどまでの燃え盛る熱はない。
「………ネグロ、殿」
「無事か。ヴァイス」
何故ここに彼がいるのか。
唖然とした面持ちで尋ねた問いにネグロから返事が返ってくることはなく。こちらを検分するように上から下まで向けられた黒い瞳はやがて瞳を覗き込んだ。
「怪我はないようだな。……精神面はどうだ。なにか不調はないか?」
「ありま、せん、が……どうやって、ここに?」
イゼルマの名代によって作られた空間であり、マルグレリンを弾いた場所にいきなり踏み入るとは思わなかった。いや、そもそも彼は私の記憶が正しければ、今は遠方に出掛けていたはずだ。あるいは時間の流れが外とここでは異なるのだろうか?
思考が目まぐるしく回る中、ようやくよろよろと起き上がったマルグレリンが自らのグラスをかけ直す。
「驚きますよネ……。ネグロ様はワタシがお呼びしました。
情感をこれでもかと込めた言葉は、商人らしい言い回しとも言えよう。名を呼ばれたラウディカ……魔王の名代は言葉を返すことなく、ただじっとネグロを見つめていた。
長距離の瞬間跳躍……理論については商会を調査した時に耳に挟んでいた。だが実現には高い魔力操作技術が必要であり壁があったはずだが。
それを果たせるのが、ネグロという男なのだろう。だが。
「…………いえ、待ってください。それはイーダルードまで戻ってくる説明にはなりますが、ここに入り込めた説明にはならないのでは?」
「それはワタシもなにが何やらと言いますか……」
マルグレリンが眉を下げたまま首を横に振る。手は今にも床に転がりそうな自重を必死に支えているが、そうでなければ敗北を示すべく両手を挙げてもおかしくなかった。
「商会のお部屋に案内したら急にネグロ殿が『ここが怪しい』と言い出して、窓ガラスを剣で斬り砕き、ワタシの首根っこを掴んで飛び出して行ったらココですヨ!?」
「「えぇ……」」
ラウディカと声が重なる。この男もこんな声を出すんだなと他人事のような思考がよぎるが、未だ予断を許さない状況ではある。
小さく頷いたネグロは私の肩を抱き、そのまま庇うように前に立つ。マルグレリンも身を起こしながらラウディカを睨みつけた。
「お気をつけください、ネグロ騎士団長。その者こそが今回の事件の首謀者、ラウディカ=イ・ゼルマ=ニョグダ。……悪魔のカイナの幹部だという話も聞きましタ」
真偽は不明ですが、そう呟いたマルグレリンは私を──正確には、私の周りで羽を逆立てて警戒している青い鳥を見た。
そのどちらも一瞥することなく、ネグロはただ前を見据える。
「イゼルマの名代という言や悪魔のカイナの幹部という情報の真偽を問うつもりはない。現状その証拠はどこにもないからな」
一度剣の周囲に炎がまとわりつく。
「……が、この青年を害そうとするのならば容赦はしない。即刻この場を立ち去れ。そうしないというのならば……斬る」
「──そうですね、それも一興でしょう。この盤面の時点で既にこちらの計画は破綻している」
ラウディカは先ほど向けられた炎で衣服は焦げているものの、怪我はうかがえない。けれども未だ警戒を示すネグロの剣に構えることすらせずに様子を窺ってくる。その姿は警戒しているようにも、何かを慮るようにも見えた。
先ほど浮かんでいた疑念が、確信に近づいていく。……このまま何もせず見逃すのも一つの手段だ。だが、多少のリスクを天秤にかけたとしても
最後の一欠片をはめるべく、私を庇うようにして立つ男の名を呼んだ。
「ネグロ」
彼の名を呼ぶのは初めてではなかった。これまでと違うのは二点。
一つは敬称を外したこと。それはおよそ眠りから醒めて以来初めてのことで。もう一つの声の響き、かつてのように己が部下を呼ぶときと同じ声音にネグロの背筋が伸びた。それは身体と魂に染み付いている動きだった。
一拍遅れて、驚愕に彩られた黒い瞳が振りかえりこちらを穿つ。
「………………ヴァイ、ス?」
『ぴ、ぴィ!?!?』
「事情の仔細を説明するのは後で……と言ってあげたいんだけどね。それではお前も納得はしないだろう。……今まで隠していてすまない」
そう言って微笑めば、感極まったように彼の瞳が一瞬見開かれる。バラッドが焦ったように甲高い鳴き声をあげた。
《いけません!いけませんヴァイス。彼に真実を話すことは大きなバグに!》
「黙れ愚鳥」
鋭い声がネグロの口から漏れ出る。青い鳥に射殺さんばかりの視線を向けてから、そのままこちらを見つめてきた。
「…………冗談にしては性質が悪すぎる。……だが、お前がそんな、」
「嘘などつく必要がない。……とは、どの口が言ったものかになるけれどね。今までお前にすら真実を話せなかったのだから」
ここに来てから一度たりとも揺れることのなかった漆黒の瞳が、揺れる。唇は戦慄き、幾度も薄く開いた唇から呼気が漏れる。
「……本当に、お前、いや、貴方さまは……」
『ピィィィィ…………』
バラッドが困ったように項垂れるのに僅かに眉を下げる。──大丈夫。私の推測が正しければお前が危惧することは起きないはずだ。
「私はヴァイス=フォルトゥナ・イラ=グレイシウス。かつてこの国の第一皇子であった男だ」
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