第47話 回答
バラッドは何も口を開かない。あるいは開けないのかもしれない。
──無理もない。バグを解決して世界を救うことが私たちの目的だった。そしてその一方で、世界の救済には私の力はむしろ枷でしかない。
「成程……君の言葉を全て信じるというのならば、それは一つの選択だろう」
「心外ですね。人の子のように愚かな嘘偽りを口になどしませんよ」
男はくつくつと笑いを滲ませる。バグとして生まれた彼はあるいは、人とは違う生態なのかもしれない。……そのことに幾ばくかの憐憫が浮かぶ。
私はカップを傾けて一口飲み込んでから、その首を──横に振った。
「それでも、提案を飲むことは出来ない。ネグロと……あの子と約束をしたからね。あの子に何も言わないうちに、手の届かないところに消えたりしないと」
「……」
悪魔の名代、ラウディカの瞳がすぅと細まった。それを見れば、自然とあちらの意図が読めてくる。
「誰にでも等しく情深い女神の名代さまにしては、最善とも言い難い選択ですね。何も言わないうちになど、彼の貴方への傾倒具合を見れば口にしたところで反対されるだけでしょう」
「自覚はしているさ。……でも、一つ訂正しておこう。私は誰にでも等しい振る舞いをしたことはない」
テーブルにカップを置き、まっすぐラウディカを見据えた。
「無論皇国の民も愛おしいものだ。だが、私にとって何よりも大切なのは弟妹たちを第一とした家族で……それにはあの子も含まれる」
今でも瞼の裏にありありと思い出せる。
血縁上は従兄弟でもあるネグロとはじめて出会った時のこと。魔月の民が管理されていた場所で、目覚めた時の私よりもボロボロの服とも呼べない布切れを巻いて、幼いながらに肉体労働に従事されていたときの姿。世界に希望を一欠片も抱いていなかった頃の瞳。
目覚めてまもないころ、先月の遠征訓練で見た瞳も同じだった。今ここで、私が何も言わずに消えればまた、同じ瞳となるのだろう。
「世界を滅ぼさないためにあらゆる手は尽くそう。帝位も名声も不要だ。それでも、その為にあの子たちを傷つける選択を取る気はないよ。……況してやこんな、信頼性のない商談でね」
机の向こう側、椅子の斜め後ろに立ったままのラウディカにそう笑ってみせた。空気が一段と張り詰めながらも、魔王の名代はわざとらしく口元を抑えて眉をさげた。
「おや、そのようなことを仰られるなど……残念です。私は信頼をしていただけるように誠心誠意事情をお話ししたつもりなのですが」
「そうだね。確かに事情は理解したし嘘はないのだろう。──でも、本当のことをどれだけ口にしているかはまた別だ。もしもそれに不服の意を唱えるのならば、今度はそちらが事情を話すことだね。
ラウディカ=イ・ゼルマ=ニョグダ。貴殿がここにいて私に商談を持ちかけるのは、かの大臣モーガルの差し金かい?」
「……いいえ。アレは我らの傀儡ではありますが、決して我らと志をともにするものではない」
「それを聞いて安心したよ」
どうにかしてネグロか……あるいはブランに彼を排斥する選択を取ってもらわねばならないところだった。
「ならば大臣は関係ないと。ますます私を眠らせようとする君たちの益が分からないね。起きていたところで君たちの行いを表立って止めることは出来ないというのに……いや」
そうではないとしたら?
そもそも彼らの目的を果たすためには、私が眠らなければならないとしたらどうなのか。
ラウディカの方を見上げれば、宵闇よりもなお深い暗い光に照らされて、その表情は窺えない。ぞわりと、背筋が粟立った。
「……残念ですよ、皇太子殿下」
椅子から立ち上がれないのは、先ほどこちらの世界に引き摺り込まれたときと同じ現象だ。歯がカタカタとなりそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
これまでの理性的な笑みを浮かべたまま、ラウディカは瞳を妖しく輝かせた。形容表現ではないそれは、人の人体構造では不可能な行動。
「私はね、本当に貴方に対して誠実にありたいと思っているのです。願わくば、互いに納得のいく形で眠りについてもらいたいと」
『ッピ、ピィ!!』
こちらへと近づいてくる男へと、バラッドが果敢に飛び上がり、その頭や肩を幾度もつつく。
「邪魔ですよ」
だが、悲しきかな。手のひらに乗るほどの大きさの青い小鳥と、長身の浅黒い肌の男の身長差では、払い除けられるだけで終わってしまう。
「…………っ!」
「ああ、そのように警戒なさらずとも、殺すことはしません。女神の名代である貴方を殺せば私の存在も危うくなるでしょうし……危ない橋は私、渡らない主義ですから」
鷹揚な笑みを浮かべて、魔王の名代はこちらへと腕を伸ばしてくる。
《……ヴァイス!聖句の三十七番、光の衣の段を!》
「……!『女神は言う。いかなる悪しきと相対しようと、光を衣として身にまとえば、推し量れぬものなどないと』」
バラッドの言葉に瞳を見開き聖句を紡げば、途端に身体の重圧が嘘のように軽くなる。指先から逃れるように後ろへと飛び退けば、椅子が大きな音を立てて転がった。
「まったく、足掻いてくれますね。ですが」
「……っ!」
急な抵抗を咄嗟にして、それに身体が追いつくかと問われれば……答えは否だ。たたらを踏んだ足にラウディカの蹴りが繰り出され、そのまま受け身をろくに取ることも出来ずに床に転がされた。馬乗りになったラウディカがこちらの喉を抑える。
「これでお終いです。……おやすみなさい、皇太子殿下」
「くっ…………、」
酸素を奪われた頭が世界を見ることを拒むように、視界が急速に眩んでいく。せめてもの抵抗とばかりに爪を立てるが、相手は意にも介さない。
──打つ手なしか、諦念が脳裏によぎったその瞬間。
部屋の窓ガラスが、大きな音を立てて砕け落ちた。
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