粗さがしから全肯定まで・批評あれこれ

朝吹

粗さがしから全肯定まで・批評あれこれ


 たった一冊の本を知らないだけでその批評家は命取りになる。昔はそんなことまで云われるほどでした。

 世の批評家さんは、半ば公認化された教科書ともいうべき有名どころの批評本、その中で取り上げられた主要な作品を読破しておりますし、「あの批評本を知らないのならば……」批評する資格なしとばかりに、線引きもいたします。

 ですが、何十年とかけて培うそれらの批評の下地を、カクヨムの中に持ち込むのは現実的ではありませんし、卑怯であると考えます。たとえ読んでみても、いきなりでは、ちんぷんかんぷんでしょう。

 そんな批評ですが、一口に批評といっても、批評にもけっこう幅があります。その幅を例題で説明してみようという、とっても気楽な雑談です。



 カクヨム内で「批評」と銘打っているのはその大半が、『他人の意見・感想を仰いでいる』これに近いです。

 先生役になった人に、生徒が作品を持ち込み、作品について意見をもらう。

 カクヨムではその時に、誤字脱字、誤用なんかも洗い出してくれます。

 そして先生役の批評者は、持ち込まれた生徒役の作品をよく読んだ上で、他の人が云いにくいことでも、一歩も二歩も踏み込んで云ってくれます。


 これでいいです。

 十分、「批評」です。

 作品の良い点、悪い点、改善すべき点を教えてくれる。


 ※余談。カクヨムでは文章の水準が高いとおおむね高評価になりがちですが、中身ではなく文章力だけでワンステージ上がってしまうというのは実はひじょうにまずいです。ここは、書き手の方が「手癖」で書いていないかどうかを常に自分に問い質さなくてはなりません。傍目にはまったく分からないことなので、あくまでも書き手側の意識の問題です。手癖で書いても何でも読ませるというのは、老境にはいった作家の辿り着く最終形態であって今はまだやらなくてもいいことです。もっとも、手癖で書くということがどういうことか、自分で分かる書き手さんならば、まずそこは大丈夫です。



 カクヨムの批評も、他の人に見てもらうと、前の人とはまったく違うことを云われたりします。この時にどちらが正解なの? と迷う必要はありません。

 あなたがこうしたいと想うものが正解です。

 たとえボロカス云われても落ち込むことはありません。もらった意見の中から参考に出来そうなところを調子よく取捨選択すればいいのです。

 他人の意見はきいたほうがいい、これは美徳のようですが、いちいち指示を仰いで他人の意見にひたすら従って書くのならば、その作品はあなたが書く必要もありません。

 誰かの意見を鵜呑みにしてしまう癖がつくと、別の人に見せた時に、今度はその人の意見でまた全部書き変えることになります。

 文章が下手と云われた?

 今はまだ下手、それだけのことです。

 つまらないと云われた?

 凡打を積み上げないと安打も生まれません。巧い人というのは、空振りから始めて、バントや安打をこつこつ積んでいった人のことです。


 批評する人は真剣に取り組んでくれますので、お礼を云い、酷評されても「この人からはこう見えるのね~」くらいに面白がって、くるりと背中を向け、よければ試しにまた別の批評企画に同じ作品を持ち込んでみて下さい。

 何人か渡り歩いていると、「お、この人の見解はいいぞ」という人が見つかると想います。他の批評家さんの意見には納得できなくとも、その人の意見なら、すっと入ってくるのではないでしょうか。


(例題)

--------------------

 土砂降りの雨の中で、彼と再会した。

「元気だったかい」

「元気よ。ほら、こんなふうに」

 とびこむようにして彼の傘に入った時には、雨があがっていた。

--------------------

『傘が傾くほどの土砂降りの雨の中、再会した彼らの会話が終わるまで数秒しか経っていないのに雨が止んでるのはおかしいです。ゲリラ豪雨なのでしょうか。しばらく無言で顔を見合わせていたのなら、その描写があった方が読者は混乱しないのではないでしょうか。時間経過はセリフではなく地の文でも埋めることが出来ます』

 これがカクヨムでいただける批評です。以下、批評(カ)と表記します。


 なるほど、時間経過か。

 土砂降りからすぐに雨があがるのは確かにおかしかった。

 指摘してもらえてよかった。


 いいです、これで。

 合ってます。


 それで、同じこの原稿を、わたしが個人的に好きなタイプの批評家さんはどうとらえるのか。

 以下、批評(A)と表記します。批評(A)は、この場面を、


「そこは晴れていなければならなかったのである」


 と書きます。


『何故なら、(登場人物のその場面に至るまでに辿ってきた心情、物語の転換における背景の効果、古今東西の名作の中の同じような場面を引き合いに出してきて)、それと同じである。或いは、激しい雨は降り続いていたのだろう。しかしこの二人にとって雨はもう雨ではなく、雨は意識から消えたか、ちょうどカフェで流れているヒーリング音楽のように心を慰撫する伴奏だったのではないか。一つの傘の中にいる二人はシェルターにいるかのようであるし、再会のよろこびはやがて空に浮かぶ虹まで予感させている。これと同じ効果を上げている例としてこの作者は第二章においても傘を用いて暗示的な描写をしており~』


 こんな感じでしょうか。

 作者も想いもしなかった方向に、全肯定してくれるのです。

 批評(カ)は「なぜ雨が突然やむのか。それはおかしいだろう」ここを粗として指摘するもので、批評(A)は、「なぜ雨がやんでいると書いたのか」に着目します。  つまり、批評(A)は粗さがしをした上で、そこから肯定に進める批評方法をとっているのです。


 そんなことはない、世間の批評家は粗さがしばかりやっている。

 というのなら、それは対象の小説がまずいのか(ある)、その批評家が偏執的で性格が悪い(これもある)からです。

 でも。

 優れた批評家なら粗さがしなんか、まずしないです。する時もかなり控えめな指摘にとどめているはずです。

 その理由は、【優れた批評家がとりあげる小説は、優れているので、粗さがしなんかする必要がない】からです。


 

 そんなオチか。

 やっぱりな……。


 でもこれは、編集者はじめ何人もの手を経て、校正校閲まですでに終わった状態で出版されている作品だから粗さがしをする必要がないという意味ではないのです。

 粗さがしをしない、これはその小説が、【粗のない小説であること】を意味しているわけではありません。

 粗なんて、どんな名作であっても、虱潰しに探したら山のように出てきます。

「偶然、逢った」

 そんな偶然はありません、という具合に、ケチをつけようと想えばどうとでもケチをつけられます。

【粗のない小説であること】は、【良い小説】であることを必ずしも意味しないのです。


--------------------

 とびこむようにして彼の傘に入った時には、雨があがっていた。

--------------------

 小説とはリアリティの枠の方を歪めてくるものですし、ある程度の力が見込める作家ならば、「ここはこうしなければ」と書いていることがほとんどです。

 批評する人によっては「あり得ないことである」と、ばしっと書かれちゃうこともありますし、描写や説明が足りない点ばかりを指摘する批評に従うと、下手をすれば、この箇所でも三十行くらいになります。その結果、肝心のシーンが埋没してしまうのならば、最初のかたちの方が読者に伝わるものが大きかったかもしれませんよね。


--------------------

鎌倉時代を舞台にした小説に、現代風の窓が出てきた。

--------------------

『鎌倉時代にそんな窓はありません。時代考証は基本です。資料を調べてから書きましょう』

 カクヨムの批評ならばこれで合っています。


 確かに鎌倉時代の家屋の窓はそんな形ではないな。うっかりしていた。細かいところまでチェックしてくれてありがたいなー。


 中学生さんなら、これでいいです。


 でももし、小説全体を見た時にひじょうに力のある書き手さんだったら、そこは注意すべき点ではないかもしれません。

 その人は、あえて、その窓をそんなかたちで描写している確率が高いからです。

 そして批評(A)ならば、その箇所についても、こんな感じで書きます。


『ここにおける窓とは、花頭窓でもなく、現代建築の窓のように想われる。この時、男を見送る窓は左右に開かれて、額縁のように女の姿を浮かびあがらせている。郷里を立つ男にとって女房を後に残したこの窓はそれからの旅路、金箔をはった屏風のごとくに、歳月の流れから解き放たれて、想い出の中、ちょうど幼児が黄色い宇宙船の夢をみるのと同じように、男の独り寝の灯明の影に漂わなければならなかったのである』


 四角い窓に、ぽんと女の人の顔が出ていて、それが遠くから見ていて美しい効果が出ている。こちらに軍配をあげます。

 びっくりするくらいの全肯定です。


 鎌倉時代に現代風の窓があるなんて時代考証的に絶対におかしい!

 もっともです。

 でも時代考証だの何だの、そんな水準は、多分この書き手ならもう超えているだろう。その場面のその窓とは、ぱーんと左右に開かれていないといけなかった。

 なので、「この描写にしたことによる効果とは」という方向に批評(A)は着目してくれるのです。


--------------------

赤い花が揺れていた。

--------------------

『赤い花が(風に)揺れていた。赤い花がよく出てきますが、桜やひまわりなど、具体的な花の名前を出すだけでも季節を想起させることができ、読者を引き込む効果が生まれます』

 これが批評(カ)です。


『作中において、当時には存在しえなかった花を書いているようだ。その花とは、どうもポーランドの国花に想われる。だがこれは作者の童話的な詩情が、その色その形でなければならないという確信をもって西洋の花のごときを描写したのであり、氏の思い浮べる古代においてその花は、竪穴式住居のまわりに季節すら無視して咲き誇っている。ここは断じて抹香くさい彼岸花などではいけなかったのだ。そのお蔭で我々は、夕陽の落ちる国と書かれている、作者の招く古代へと誘われるのである』

 こんな感じに書くのが批評(A)です。

 (カ)も(A)も、両方とも、批評なのです。


 この作者は時代考証や季節感を(作品世界を崩壊させない程度に)あえて無視しているが、そのことで生まれた効果とは何だろう。

 批評(A)はこっちの方向に考察していきます。

 書き手が中学生さんなら本気で間違えていることがあるので、「時代考証しましょうね」と指摘してもいいのですが、


 真っ暗な闇の底に、四角くそこだけが明るくて、見送る女の人の顔がいつまでも見えている。


 この描写があることでその場面がひどく印象に残る。

 それならば、「これは現代風の窓のようだが、そうでなくてはこの効果が生まれない」と全肯定してくれるのです。

 もちろん、辛口な批評(B)なら、同じ個所でも、


『そこまで離れているのにまだ人の顔と涙が見えるものだろうか。当時の灯りはそんなに明るいものではない』


 さめきった、こんなことを云ってそれで終わりかもしれません。いずれにせよ、批評家さんの目は特殊ですから、きっちりそこを拾い上げて一段落さばいて書くだけで、一般の読者はべつにガラス窓が出てきたわけでも、サンゲツのカーテンが出てきたわけでもないので、粗さがしをする気満々で小説を読むのでない限り、「これって現代風の窓?」「この赤い花ってなに?」とその場面に何か引っかかることはないでしょう。素直に、その幻想的な効果を受け取って、最も印象的な場面として記憶に残していくでしょう。


-------------------

その時、曲がった刀の武者がやってきて、テヤーと叫んで、首をはねました。

--------------------

『その状態の刀では首をはねることは出来ません。刀についてよく研究しましょう。テヤーとはなんでしょうか。漫画的な効果も使いすぎると逆効果です』

 このくらいの批評は、相手が中学生さんならちょうどいい感じです。


 批評(A)は、同じものを見ても、こんな感じになります。


『その時、(曲がった刀を手にした)武者がやってきて、テヤーと(一声)叫んで、(敵の)首をはねました、が正しいであろう。あろうが、太郎武者の異常なる剛力により一瞬で断首が終わることをありありと伝えてくれるのは原文のままの方である。曲がっている刀では切れないが、武者の目覚ましい活躍をこう書くことで、次の、「それを見た敵将はみんな馬から転がり落ちました」この愕きぶりに繋がっている。

 前章において、同じこの武者はキェエエアとも叫んでいるが、島津家兵法師範東郷重位を祖におく薩摩藩ジゲン流は、打ち込みにおけるこの雄たけびの気合を得意としており、猿叫と呼ばれて幕末にはおそれられていた。この猿叫のごとき効果を漫画で最初にみるのは、その黎明期に(マンガのうんちく)が擬音をコマのぶち抜きで入れたのが最初であり~』

 こんな調子で、展開します。

 

 

 あれ、粗さがしをしてないよ。批評とはなに?


 

 カクヨムで批評をして下さる方は、たいへんに貴重です。読んだら分かると想いますが、一作一作、ものすごい労力をかけて批評を書いてくれますよね。

 自分が「確かにそうだな」と想うことはありがたく採用して、それに従って変更したり、次作に生かしたらいいです。

 でも、誰かに何か云われるたびに書き替えるのなら、そもそも何が書きたかったのか、何を表現したかったのか、自分の文体すらも、そのうち不明になっていってしまいます。

 たくさんの修正指導が入っても、「今回は三つだけ採用しようかな♪」と、あくまでも作者の自分が主導権を握っておいて欲しいのです。

 批評をお願いする時には、「その人がこの作品から、どんな考えを巡らしてくれるのだろうか」という点を楽しみにするといいかもしれません。

 つまらない、分からない、など云われても、それは「個人の感想」です。

 誰が読んでも同じ感想しか出てこないような『粗も隙もないぺったんこの作品』よりは、ああだこうだ、個人の意見を色々きけるほうが批評してもらう甲斐もあるというものです。


 ある程度の小説を書く人は、「作文教室」や、リアリティから離れたとしても、「ここはそうでなければならない」そんな強い感覚で一行一行に貼り付いていることがほとんどです。

 赤入れされて、戻ってきた原稿を、「確かにこの方がいい」と書き変えてもいいし、「ここはこのママで」と突き返してもいいのです。

 人間が息を吹き込んで膨らませた風船は、ヘリウムガスを入れた風船のように舞い上がることはありませんが、時として、小説のなかでは舞い上がるのです。

 その風船を「これはおかしい」と指摘するのが批評(カ)なら、「舞い上がらなければならなかったのだ」と全肯定姿勢で捉えるのも批評なのです。



(まとめ)

 本来の批評は、粗さがしではないし、従わなければならない唯一の正解でもありません。

 批評とは、作者と読者の気づかない、批評家独自の視点を提供してくれるものです。だから人によって云うことが違うのです。

 作品がさばかれるのを見るのではなく、その批評家がどんな切り口で作品をさばくのか。それを愉しむのが批評です。

 批評とは、博覧強記をもとに、【その作品に深く潜っていく作業をしている】というのが分かりやすいかもしれません。


[了]


————————

※カクヨム内にある作品はわたしのものを含めて本来の批評を受けるレベルにはありませんので、粗さがしも粛々と浴び、精進していきましょう。批評も、出来ればいろんな人に見てもらって下さい。人によって着眼点が違うことを知るだけでもけっこう面白いですよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

粗さがしから全肯定まで・批評あれこれ 朝吹 @asabuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ