シュレディンガーのペンギン
此木晶(しょう)
シュレディンガーのペンギン
その日世界からペンギンが消えた。
南極は当然ながら、世界各地の動物園、水族館から生きたペンギンが忽然といなくなったのは勿論、博物館に納められた剥製、化石、模型、或いはありとあらゆる書物の写真、図案、イラスト、キャラクターに至るまで、おおよそペンギンがどのような生物であったのかを示す全てが消え失せた。
同時に、人々の記憶からもペンギンがどの様な生物であったかが失われた。結局残ったのは極々僅かなペンギンなる生物がいたというぼんやりとした、曖昧模糊で朧気ななんとなくな思い出だけだった。
ペンギン喪失事件後、雨後の筍の如く設立された研究所の一室で一人の研究者が叫びをあげる。
「エウレーカ!!」
両手を挙げて、挙げすぎて椅子ごと床に倒れ込む。盛大に、しかし幸いな事に周囲に乱雑に積み上げられた肝心な事は全て抜け落ちてしまった文献資料を巻き込まなかった故に、平穏な騒音が響き渡った。
既に夜も深く、こんな時間に起きてこの部屋にいるのは、床に倒れた研究者と。
「『なにが』分かったんです?」
彼の助手だけだったが、となりの仮眠室で転がっている何人かは多少はうなされたかもしれない。
「ペンギン喪失の謎がだよ」
「はあ、今度はどんな頓痴気です? この間は、ペンギンを認識できなくなっているだけで、そこに全て存在しているのだとか言い出して、光学、赤外線、音響その他諸々持ち出してなんの成果もなかったじゃないですか」
「なにも、とは失礼だね。何度も、ペンギンぽいモノは観測できただろう」
「ぽいだけでしたけどね。それこそ霞みたいな判別不能な靄のようなもので包まれているのかそれそのものなのか取り留めがなく、博士がペンギンだと言い張るからそうなのかもって言うだけで、実は狸やレッサーパンダだって言われたら、そっちかなと思いますよ」
「はははっ、それはないな」
「どうしてです?」
「真面目に聞くかね?」
「内容によります」
「良かろう。聴講者を夢中にさせるのもまた研究者の役目だからね」
研究者は眼鏡を無意味にキラリと光らせて起き上がる。
「さて、量子力学の基本的な考え方は知っているな?」
「観測するまで物事の状態は確定しない、ですよね。ひょっとしてバカにしてます?」
「いやいやいや、まさか。これが大前提だからね、明示する必要があるんだよ」
「本当ですかぁ?」
「勿論。本来の意図とは違った形で使われるようになってしまった『シュレディンガーの猫』の思考実験だが……」
「『一定確率で毒ガスを放出する装置と一緒に箱に入れられたネコは、蓋を開けて観測するまで生きた状態と死んだ状態が重なり合っている』のはおかしい事を示す為のものですよね」
「あ、うん」
「なんですか、きちんと答えたのに」
「いや、そこは私が言おうと思っていてだね」
「知りませんよ、そんな事」
「部下が私に厳しい」
「そう思うならもう少し上司らしく振る舞ってください」
「うむ、ではだね。もっと正確に言うと、猫が入れられた鋼鉄の箱の中には悪魔的な装置が組み込まれている。
非常に少量の放射性物質が入っているガイガー=ミュラー計数管と連動したハンマーと青酸ガスの入った小瓶だ。放射性物質が一時間後に原子崩壊する確率は50%だよ。
ガイガー計が放射線を感知するとハンマーが稼働して青酸ガスの入った瓶を叩き割る。当然猫は死ぬ事になる。つまり原子崩壊と猫は一蓮托生だと言える」
「回りくどいですよ」
「ならどう言うのかね」
「原子崩壊に生死の運命を握られているじゃないですか」
「些か詩的に過ぎる気もするが、そちらを採用しよう。一方で原子崩壊は極めて量子的で観測するまで状態は確率でしか知ることが出来ない。
素粒子は基本的な構成要素であるがゆえに個体差がない、つまり同じ存在となる。これは数個の素粒子で構成される原子にも当てはまり、しかし全く同じ物なのに、重い原子核が起こす原子崩壊のタイミングは原子核それぞれで異なる。仮に(あ)と名付けた原子核は一時間後に崩壊し、となりの全くなんの違いもない(あ')は百年後も崩壊せずに存在し続ける。
理由は聞かないでくれ。存在しないからね。
光が波なのか粒子なのか状態が不明なのと同じで観測した時点で決定されるとしか言いようがない」
「つまり量子力学では、一時間後の原子は崩壊した状態と崩壊していない状態が50%で混合した状態と表記し、原子の崩壊に生死の運命を握られている箱の中の猫もまた、観測されるまで生きている状態と死んでいる状態が重なった曖昧な状態にあると言えますね」
「その通り!! ではあるんだが、良いところを横からかっさらわないでくれるかね」
「博士がのんびりといつまでも講釈しているのが悪いんです。飽きました」
「はしょったらはしょったで説明不足と糾弾するんだろう?」
「当然ですね」
「ああ、神よ」
「信じているんですか?」
「全知全能ではない方をね」
「?」
「続けようじゃないか。かような反証として唱えられた『シュレディンガーの猫』ではあるが、後の世にて『ベルの不等式』を経て、真実であったと証明された。無論量子世界の事象をマクロ世界にそのまま当てはめてはいけないのだが、今回に関してはそれは除外できると考えている」
「どういうことです? いえ、ちょっと待ってくださいね。考えますから」
「まあ、頑張ってくれたまえ。答えに至る道筋は示されていると思うのだよ」
「またそういう無駄にハードル挙げて。この間みたいなことになっても知りませんよ。ん? この間?」
「おお、なにか引っ掛かったようだね。それこそ探求への第一歩!!」
「五月蝿いですよ、博士?」
「うむ、すまん」
「まさかとは思いますけど、シュレディンガーのペンギンとか言わないですよね?」
「いや、
「だって観測できてないじゃないですか! あくまでぽいものでしたし、それがもし実在と非在が50%の確率で重なりあったペンギンだったなら、観測に成功した時点で存在すると確定したんじゃないんですか!」
「それは、観測者が我々だったら、の話だよ。あくまで確率は観測者が観測することによって収束する。観測しても可能性が収束しなければ、それは観測ではないと言う結論に至らざるを得ない」
「言葉遊びです!」
「しかし現実だ」
「じゃあ誰が『観測者』だって言うんです? 神様とでも言うんですか!!」
「ある意味神様なのかもしれないね。決して全知全能などではないようだけど」
研究者は、虚空を指差す。
「いや、こっちかもしれないけどね」
違う方向を改めて指差す研究者を見て助手が呆れた声を洩らす。
「なにやってんです?」
「呼び掛けだよ。どうか我々にペンギンを返してくださいって言うね。まあ、何処から見ているか分からないけれど、『君』だよ『君』。そう、僕らを見ている『君』だ」
研究者はじっと虚空を見つめる。
「『君』がなにを思ってペンギンの観測を止めたのかは私には分からない。ひょっとしたら、このままだとペンギンが世界を崩壊させてしまうなんて可能性が収束しかねなかったのかもしれないね。しかしだ、安心すると良い」
男は両の手を掲げる。捧げるように、或いは誇示するように。
「ほら、無限無数の綺羅星の如きペンギンなる生物の可能性が渦巻いているのが見えないかね。優しく、厳しく、暖かく、愛に溢れた可能性だ!!」
「えっと、博士?」
「君も想像したまえ。ペンギンとはどんな生き物だい? 空を飛ぶ? それも良いだろう。唐突に増える? なかなか楽しそうだ。言葉を話す? いいね、夢がある!!」
「ハァー、知りませんよ、わたしは!」
「なぁーに構わん。可能性はどれだけあっても構わない。たった一つに収束すると誰が決めたのかね。全ては騒がしく、楽しい方へ進んでいくのだよ!!」
高らかに研究者は宣誓し、宣言し、断言する。
そして
世界にペンギンが帰ってきた。
ただちょっとばかり、時々空を飛んだり、宇宙を目指したり、パンを焼いたりすることもあるようだけれど。
シュレディンガーのペンギン 此木晶(しょう) @syou2022
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