笑うメガネに福来る【KAC2024 8回目】

ほのなえ

笑うメガネに福来る

 中年サラリーマンの目黒厳めぐろいわおは、その厳しい性格や、常に眉間に皺を寄せにこりとも笑わないその表情ゆえに、会社の年下の部下たちや年頃の娘である絵美えみから嫌われている――とまではいかなくとも、どこか敬遠されているような、疎まれているようなところがあった。


「いつもしかめっ面ばっかりしてるせいよ。少しは周りの人に、笑顔を見せたらいいのに」

 妻の多笑たえからはよくそう言われるが、

「面白くも機嫌が良いわけでもないのに笑えるか。俺が笑顔になれていないってことは、周りの奴らが原因なんだろう。それなのにこっちから嘘の笑顔を振りまくなんて、真っ平ご免だ」

 巌は毎回、そう言い返していた。



 そんなある日のこと。巌の誕生日が近いということもあって、妻の多笑が「誕生日に眼鏡を新調してあげる」という申し出をしてきたため、休日に眼鏡を買いに、夫婦そろって出かけることになった。


 様々な眼鏡を試着して多笑に見せていたところ、なぜだか、多笑が猛烈にお気に召した眼鏡が一つあった。

「……ふふっ。ね、これがいいわ! この眼鏡なら、きっと会社の部下の子たちにも少しは好印象になるんじゃないかしら? これにしましょうよ!」

「……ん? そうか?」

(確かに最近部下との関係が悪く、仕事がやりづらいところがある。こっちから歩み寄るなんて気はないが、眼鏡を新調することでそれが改善されるのならば、願ってもないことだ……。しかし一瞬、多笑のやつに笑われたような気がしたような……? いや、気のせいか。別に、どこにでもありそうな普通の眼鏡だしな)

 巌は試着を終えた例の眼鏡を手に取り、じっくりと眺めながらそう思う。


 そして、巌は自分の外見にはさして興味がない性分で、服装なども妻の多笑に任せっきりだったため――自分が見たところで似合っているかどうかはよくわからないからと、いつものように鏡を確認することもなく、眼鏡についても多笑の言う通りのものに決めた。



 その日の夜。娘の絵美が門限を破って夜遅くに帰ってきた。巌はいつものごとく、怒り心頭といった様子で「何時だと思っているんだ‼」と娘を怒鳴りつける。


 しかし絵美は不思議そうに首を傾げ、「あれ? パパ……怒ってんの?」などと言うではないか。

 そして「当たり前だろ!」と言い返した巌に対しても、なぜだか笑みを見せ、涼しい顔で言ってのける。

「ごめんごめん、友だちと喋ってたら時間忘れててさ、今度は気を付けるから。それよりパパ……そのメガネ、なんかいいじゃん。似合ってるよ」

「……え、あ……メガ……ネ?」

 予想だにしなかった言葉に巌がぽかんとしている間に、絵美は自室へさっさと入ってしまった。

(なんてことだ、俺としたことが。年頃の娘の部屋には入れないし、厳しく言い聞かせる機会を逃してしまった。しっかし、今日の絵美は何かおかしいぞ。いつもは何やかんや言い返すのに、大声出すこともなく、やけに素直だった……こんなのいつぶりだ。それどころか絵美から何か褒められたことなんて、今までなかったはずだが……何なんだ? 単に機嫌がいいのか?)



 そんなことがあった翌日の月曜日。巌は新調した眼鏡をかけて、会社へと向かう。


(多笑からは、挨拶は自分からすることで好印象だ――なんて朝からうるさく言われてしまったな。だが、普通挨拶は、部下からするものだろう。こっちから先に言ってやる必要はない。向こうから挨拶が来なければ、それまでの話だ)

 巌は部下との関係改善に自分から何かをする気はさらさらないようで、そんなことを考えながら、いつものようにしかめっ面で会社に乗り込んだ――――はずだったのだが。


「あれっ……もしかして、目黒部長?」

「目黒部長、おはようございます!」

「おはようございま……あれ、眼鏡変えたんすか?」

「いいじゃないですか。お似合いですよ!」

「へえ~、眼鏡が変わると、ずいぶん雰囲気変わりますね!」

「……そ、そうか?」


(何だ何だ。今日はやけに、部下から挨拶されるじゃないか。それに、部下との関係が悪い中だと、眼鏡を新調したことについても誰からも言及されないと思っていたが、まさか褒められるとはな……)

 巌は思ってもみなかった展開に、目をぱちくりとさせる。


 それだけでなく、その日はなんと、部下たちから「一緒に食べませんか」と昼飯ランチに誘われることになった。巌はいつもならば「一応礼儀として誘っただけのような昼飯なんて」と思い断るはずだったのだが――今日はどうやら相手が本心で誘ってくれているような感じがして、思わず承諾してしまった。

 昼飯中も、これまでにないくらい話が弾み――――部下たちと仕事の話どころかプライベートの話までしたのは、巌にとっては初めてのことで、これまでどこか険悪だったりよそよそしかった部下との仲が一転し、一気に仲が深まったような感じがした。


 とはいえなぜ今日に限ってそうなったのか、結局よくわからないまま、巌は帰路につく。

 すると駅からの帰り道、娘の絵美とばったり遭遇する。


「あ、パパ……」

「お、おう……偶然だな。今日は、早いじゃないか」

「うん……まあ、昨日注意されたし……さすがに今日は帰らないとね。パパもこんな早いの、久々じゃない?」

「ああ……そういえば、そうかもしれないな」


(確かに、今日は部下と円滑にコミュニケーションできたからか、仕事が予想以上に早く終わったが……。しかし、おかしいぞ。絵美はどうせ俺と一緒に帰るのを嫌がって、俺を無視して一人先にさっさと行くだろう、と思っていたのだが……)

 巌はそう思っていたものの、今日の絵美はなぜだか、おとなしく巌の隣を歩いている。


 今日一日、周りの人々の自分に対する態度の変化に戸惑っていた巌は、ここでもいつもと違う絵美の態度に訳が分からなくなり――――思わず、絵美に問いかける。

「なあ、昨日から思っていたが……やけに父さんのことを無視せず話をしてくれるじゃないか。どういう心境の変化なんだ? おまえ、学校で……何かあったのか?」

 それを聞いた絵美は、驚いたように言う。

「ええ? それ、こっちが聞きたいんだけど?」

「……へ?」

 きょとんとする巌を、絵美は不思議そうに見つめる。

「パパって……いつもはしかめっ面して、話しかけるなオーラっつーか、話しかけても嫌なことしか言わないだろうなってオーラ出してるのにさ。昨日からやけににこにこしてるから……だから、妙に話しやすいみたいな?」

「ええ⁉ 父さんがか?」

 驚く巌に対し、絵美はこくりと頷く。

「うん。何かいいことあったの? あ、もしかして眼鏡新しくしたから嬉しいんだ? へえ~、かわいいとこあるじゃん」

「い、いや、別にそんなことは……!」


 巌は思わず赤面しながらそう反論しつつ、絵美の言葉でふと気が付く。

(確かに、眼鏡を変えてから突然、周りの態度が変わった気がする。もしかして……これは、眼鏡のせいなのか?)


「……なあ、父さん、今、笑ってるように見えるのか?」

 巌の言葉を聞いた絵美は、巌の顔をじーっと見つめ、こくりと頷く。

「……うん。え、そうじゃないの?」

 巌は黙って眼鏡を取る。すると、いつものしかめっ面が現れて、絵美は目を大きく見開く。

「うっわぁ。いつも通り、眉間にすっごい皺寄ってるじゃん。眼鏡外したら、そんな顔してたの?」

「……ああ。よくわからないが……眼鏡があると笑っているように見えるのか……?」

「そうみたいだね。なんかよくわかんないけどさ」


(こっちもよくわからないが、眼鏡を変えただけでそんなことあるのか? 別に、これといって特別な眼鏡ではないと思うのだが……)

「……しかし、相手が笑顔に見えるだけで、そこまで話しやすいと感じるものなのか? 実は今日、会社でも、部下たちの態度がいつもとまるっきり変わっていたんだけどな……」

「うん、まあ案外そういうものだと思うよ。例えば……パパ、クアッカワラビーって知ってる?」

「く、くあ……?」

(突然何を言いだすんだ。呪文か何かか?)

「クアッカワラビー。知らないんならほら、今すぐググって、画像見てみて?」

 唐突な絵美の言葉に、訳もわからないまま巌は慌ててスマホを取り出して検索し、「画像」をタップして、クアッカワラビーの姿を見てみる。


「……ふっ。なんだよ、この顔」

 きゅるんとしたつぶらな瞳に、口角が上がっていて、笑っているように見える口が非常にチャーミングな動物、クアッカワラビー――――その画像を見た巌は、思わず笑ってしまった。

「ね。つられて笑顔になったでしょ? いつかSNSで画像がバズってて知ったんだけど、クアッカワラビーって『世界一幸せな動物』って言われてるみたい」

 巌はその言葉を聞いて、眉を吊り上げる。

「世界一、幸せ……? いやいや、おかしいだろう。顔がそう見えるってだけで、正直、クアッカワラビー自身が世界一幸せかどうかはわからないだろ」

「まあ確かに、そうなんだけどさ。でもさ、クアッカワラビーは、周りからは世界一幸せに見えるような笑顔をしてて、その顔を見た人のことも笑顔にできて……。今日のパパもそんな感じというか、笑顔が周りの人に与える影響って、そういうもんだと思うよ?」

「………………そう……なのか…………」

(なんだろう、娘の言葉に、妙に納得してしまった。まだまだ子どもだと思っていた娘に、この俺がまさか、諭される日が来るなんてな……)

 巌はそう思って、ふ、と笑みを――――今度は不思議な眼鏡による見せかけではない、本物の笑みを見せる。


「ほら、パパだっていい笑顔してるじゃん。まあ、クアッカワラビーみたいにかわいくはないけどね~」

「こら絵美、生意気言うな」

 巌はそう言って、絵美を軽く小突く。

「あっ、でも……」

 絵美は何か思いついたようににやりと笑うと、巌のスマホ画面に映っているクアッカワラビーの画像を指さして言う。

「この顔ってさ……パパには似てないけど、他の誰かにすっごく似てると思わない?」

「ああ、確かに、言われればどこかで見たような…………あっ!」


 巌は、クアッカワラビーの画像を見てハッとする。その時脳裏に浮かんだのは、妻の多笑の、にっこり笑った顔だった。


「あはははは! ああ、母さんにそっくりだな! はははは!」


 巌は絵美と顔を見合わせ、しばらくの間、柄にもなくゲラゲラと笑い転げてしまった。



 そうして巌は、「かけると笑顔に見える」という、何か不思議な力を持つ眼鏡なのか、それとも単に巌がかけるとそう見えるだけなのか、よくわからない――――そんな眼鏡を愛用し、笑顔を見せられているおかげか、今までとは違って周りの人とも上手くやっていけるようになった。


 そうして長い時を経て――――やがてこの眼鏡が壊れる頃には、巌は眼鏡がなくても、自然と周りの人に対して笑顔を見せられるようになっていたのである。



『笑うメガネに福来る』 完


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