薄氷を纏う

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

 私にとって、眼鏡メガネという代物は一種の枷であり、スイッチだ。


 常に理知的であれるように。感情よりも理論で物を言えるように。


 常に視界に入らない位置に装備されているそれは、ともすると装着しているのかいないのかということさえ意識させない癖に、何よりも強固に私の獣性を押さえつけてくれる。


 そうあれるように、誰よりも敬愛するしつけてくださった。


凍雪いてゆき副隊長、御足労いただき、ありがとうございます」


 その『枷』を右手の中指で押さえながら、私は牢の格子戸をくぐった。


 突き当たりの石壁からは太い鎖が下がり、その先には今、一人の男が繋がれている。長い鎖は石床に座り込んだ男の両手に繋がれてもなお余りあり、石床の上を蛇のように這っていた。


「……席を外してください」


 その様を見た私は、格子戸の内に立っていた見張りに淡々と声を投げた。格子戸に設けられた通用口を挟むように左右に一人ずつ立っていた見張りは、私の言葉にわずかに難色を示す。


 だが私はそれを、眼鏡越しの一瞥いちべつで黙らせた。


「外しなさい」


 さらに重ねた一言でヒッと息を飲んだ二人は、揃って礼を取ると即座に身を翻した。二人の気配が遠ざかっていくのを、私は薄暗い牢の中を見つめたまま待つ。


 騒々しいとは言えない、だがこの静寂を確実に乱す音が、私の聴覚の内から消える。後に残ったのは気が狂いそうなほどの静寂と、その気配に怯えるかのように微かに身を揺らす松明の灯りだけだった。


「……ケッ」


 その静寂の中に。


 まるで正気を保とうとあがくかのように、微かな声が落ちた。


「優男で有名な副隊長さんが、一体何の用だってんだよ」


 この空間の中には今、目の前の男と、私しかいない。そして私は口を開いていないのだから、消去法で声を発したのは目の前にいる男ということになる。


 その証拠に、男は力なくうつむけていた顔を上げると、下卑た笑みを私に向けた。


「見張りってのは、逃走対策のために二人立てられてるんだろ? それを二人とも外させるなんてよぉ。……あんた、俺の逃走に手ぇ貸してくれるってのかい」


 私はその声に答えない。表情のひとつすら変えない。


 ただ、一歩、男の方へ足を踏み出すと同時に。


 顔に掛けられていた『枷』を、スルリと外す。


「どうせツラがお綺麗な副隊長さん一人なんかよぉ……」


 その瞬間。


 それまで綺麗に凪いでいた心に、強烈な暴風が吹き荒れた。


 その衝動のままに足を振り上げ、振り下ろす。


「グチャグチャるっせぇんだよ!」


 ダンッという衝撃とともに、ゴリンッと何かが踏み潰れる感触が伝わった。同時に薄汚い悲鳴が牢一杯に響き渡る。


「チッ、うるせぇな」


 それが気に入らなかったは、左の小指を踏み潰された痛みに悶絶する男の前にしゃがみ込み、無造作に右手で男の頭を鷲掴む。


 そのまま衝動に任せて男の頭を壁に叩き付けると、手の中からグシャリと嫌な音がした。かろうじて死にはしなかったようだが、ボタボタと男の頭からは血が滴り落ちる。


「あ……が……」

「答えろよ、クズ」


 男の頭を鷲掴んだまま顔をこちらへ向けさせれば、男の瞳は一瞬で恐怖に染め上げられていた。その表情には『こんなの嘘だ』『聞いていた話と違う』という内心がデカデカと書かれている。


 大方、こいつも俺が現れた時に思ったのだろう。『この優男が相手ならば、あるいは脱獄できるかもしれない』と。


 その印象がチャチな眼鏡と、の躾によって作られた、ただの幻想であるとも知らずに。


「テメェを差し向けたドクズの名前は?」


 男は口ごもって意味不明な呻きを上げるだけで、こちらの質問には答えない。


 その反応も、ここまで至った経緯もクソすぎて、笑えてしまった。


「喋る気がねぇなら、もう一発な?」


 その衝動に抗うことなく、俺は笑みとともに男の頭を振り上げた。




  ❆  ❆  ❆




「何やら派手にやったようですね、凍雪」


 あの男は拷問に耐えきれず、死んでしまいました。


 そう報告すると、隊長を務める朔菜様は穏やかな笑みとともにおっしゃった。


「やるならやるで、返り血を浴びないようにしなさい」


 私を一切咎めることなく、まるで今日の天気の話をしているかのように穏やかな語調で言葉を紡いだ朔菜様は、スッと私との距離を詰めると、私がかけた眼鏡に指を伸ばす。


「……お咎めになられますか?」

「いいえ?」


 細く美しい指に押し上げられて、カチャリと微かに眼鏡が音を立てる。


 私の顔と朔菜様の指を隔てるこの『枷』が、今この瞬間だけはうらめしい。


「お前の本性を見抜けなかった相手の方に否はあるでしょう」


 一切穏やかな語調を崩さないまま、朔菜様は私の顔から眼鏡を取り去った。はその指を、甘んじて受け入れる。


 薄氷うすらいが取り払われた視界の先で、朔菜様は変わらず穏やかに微笑んでいる。


 その笑みに、手が伸ばせないのは。


 腕に抱き込んでグチャグチャにしてしまいたいと、獣性が叫んでいながらもピクリとも指先は動かず、代わりに勝手に膝が折れてしまうのは。


 俺が朔菜様をお慕いしている以上に、俺にとって朔菜様が、骨の髄まで刻み込まれた、絶対的な『主』であるからだろう。


「お慕い申し上げております、朔菜様」


 ひざまずいて、愛をう。


 まるで、罰を恐れる獣のように。


「どうか俺を貴女という存在で躾けてください、朔菜様」


 そんな俺の言葉に、敬愛する主はただ美しく微笑んだ。

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薄氷を纏う 安崎依代@1/31『絶華』発売決定! @Iyo_Anzaki

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