Cパート

 私は橋本刑事の家に向かった。そこは街はずれの一軒家だった。玄関のドアに近づくと中から声が聞こえた。それは橋本刑事と弟の信二の声だった。勤務中の橋本刑事は署を抜け出して家にいたのだ。信二と話し合うために・・・。私はドアに耳を当ててその会話を聞いた。


    ――――――――――――――――――――――


「信二。あの夜、どこに行っていたんだ?」

「えっ! どこにも行っていないよ。家で勉強していたんだ」

「本当か? 俺は知っているんだぞ。お前が時々、家を抜け出していることを。もう大人だからと思って黙っていたが・・・」

「ちょっと気分転換に風に当たりに行っただけさ」

「それなら聞く。お前、眼鏡はどうした? 細い銀縁の眼鏡だ。俺が買ってやって、いつもかけているやつだ」

「ああ、壊してしまってね。予備の眼鏡をしているんだよ」

「じゃあ、西森光江という女性を知っているか?」

「え、ええ・・・知らないけど・・・」

「嘘をつけ! 俺が何も知らないと思っているのか・・・」

「いや、ちょっとした知り合いさ。合コンの時に・・・」


    ――――――――――――――――――――――


 2人の会話が聞こえてくる。やはり津島が言っていた学生は橋本刑事の弟だった。それなら重要参考人として引っ張ってこなくてはならない。もちろん兄の橋本刑事はこの事件について捜査することはできない。

 私は呼び鈴を押した。すると橋本刑事が出てきた。彼は私の顔を見て明らかに狼狽していた。


「ど、どうした? 日比野さん。こんな時間にこんなところに来て・・・」

「弟さんに署まで来てほしいのです。そう言えば橋本さんには何もかも分かるでしょう」


 彼の黒縁眼鏡の奥の目は泳いでいた。だが少しの間をおいて大きな声で話し始めた。


「警察署に弟が行くのか? 捕まえに来たのか? 弟は家にいない。いないはずだ。そうだ。ここにいない! 姿をくらますことなど・・・」


 橋本さんは何度も同じことを繰り返していた。まるで他の誰かに聞かせているような・・・。


(しまった!)


 私は橋本さんを押しのけて中に入った。だがそこに信二の姿はなかった。橋本さんが大声で話しているのを聞いて裏の窓から逃げて行ったのだ。私は橋本刑事をにらんだ。


「橋本さん! 一体・・・」

「日比野。信二を見逃してくれ。犯人は別にいる。別にいるんだ。信二がそんなことを・・・」


 橋本刑事は恐るべき現実から目をそらそうとしていた。


「橋本さん! 何を言っているのですか! 彼が犯人です。私が逮捕します!」


 私はその家を出て、すぐに倉田班長に連絡した。


「容疑者は橋本刑事の弟の信二です。自宅から逃亡しました。すぐに手配してください。場所は・・・」


 それから私は暗い街の中を信二を探した。多分、まだ遠くには行っていないはず・・・私はあちこち歩き回ってようやく彼を見つけた。


「橋本信二さんですね」


 私が呼び止めると彼は驚いて逃げて行った。


「待ちなさい!」


 私はその後を追いかけた。そしてしばらく走ってなんとか追い詰めた。だがその私の前に橋本さんが立ちふさがったのだ。


「橋本さん!」

「頼む。見逃してやってくれ!」

「それはできません! 橋本さん。そこをどいてください!」

「いいや。どくことはできない」

「それなら無理にでも通ります!」


 私は彼の横をすり抜けようとした。すると橋本刑事は拳銃を抜いて私に向けた。


「来るな! 日比野。動かないでくれ。ここからそっと立ち去ってくれ!」

「橋本さん!」


 拳銃を向けられても、私は彼の言う通りにはできない。


「そんなことはやめてください。橋本さん」

「いや、俺は本気だ!」


 橋本刑事はトレードマークの黒縁眼鏡をはずして投げ捨てた。怖いほど真剣な目をしていた。私は彼の動きを目で追いながら、左手で肩さげバッグの留め金具を密かに外した。


「さあ、行くんだ!」


 だが隙を見て、私はバッグから拳銃を抜いて構えた。


「拳銃を下して、道を開けてください!」

「日比野・・・」

「橋本さん。あくまでもかばうというなら私は撃ちます!」


 お互いが拳銃を向けて引き金を引こうとしていた。しばらくにらみ合い、沈黙の時間が流れた。


(橋本刑事の中で葛藤が生じているに違いない)


 彼の中の刑事の良心が抗っているのだ・・・私はそう思った。だから私はその良心に訴えた。


「橋本さん。あなたは刑事です。罪を犯したものをそのままにしておけない。あなたには真実を闇に葬ることなんてできないはずです。どうか目を覚ましてください!」


 私の言葉に橋本刑事は動揺していた。


「弟さんは罪を償うことができるはずです。ここでその罪に向き合わなかったら弟さんの苦しみはもっと大きくなるはずです。拳銃を下ろして弟さんを渡してください」


 私はそう橋本刑事に訴えた。すると彼はつぶやいた。


「君の言うとおりだ・・・」


 橋本刑事は拳銃を下ろした。その顔は憔悴しきっている。拳銃を持った右手もだらりと下げていた。私も拳銃を下ろしてバッグにしまった。


(これでいい。これですべて解決する・・・)


 私はそう思って信二に近づこうとした。その時だった。

 急に信二が橋本刑事に突進してその右手の拳銃を奪おうとしたのだ。


「やめろ! 信二!」


 橋本刑事はあわてて抵抗したが、不意を突かれてその拳銃を信二に奪われてしまった。信二はその銃口を私に向けた。


「来るな! 撃つぞ!」


 私はバッグから拳銃を取り出そうとした。しかし橋本刑事が左手で制止した。


「ここは任せてくれ。頼む」


 その顔は真剣だった。私は下がり、橋本刑事のこの場を任すことにした。

 橋本刑事は信二に話しかけた。


「信二。もうやめるんだ」

「嫌だ! 捕まるのは嫌だ!」

「大丈夫だ! 兄さんがついている。心配ない」


 すると信二は両手で拳銃を構えて銃口を橋本刑事に向けた。


「兄さんが悪いんだ。僕のことを優秀だとか、将来が楽しみだとか、プレッシャーをかけたからだ。でも僕は兄さんの期待に応えられない。ダメな人間なんだ!」

「そんなことはない!」


 橋本刑事は強く否定した。


「いいや、そうだ。兄さんはだめになった僕をバカにするだろう。あの女もそうだ。僕に気があると思ったのに手のひら返しだ。バカにしやがって。だから刺したんだ!」


 信二は半泣きでわめいていた。橋本刑事はため息をついてやさしく信二に言った。


「俺はお前の味方だ。だからその拳銃を渡すんだ。これ以上、罪を重ねるな」


 橋本刑事は右手を出して信二に近づいた。


「さあ、兄さんに・・・」

「嫌だ! 来るな! 兄さんなんか嫌いだ!」


 信二はそうわめくと引き金を引いた。「パーン!」と銃声が鳴り、弾は橋本刑事の胸に命中した。


「し、信二・・・」

「嫌いだ! みんな嫌いだ!」


 パニック状態になった信二は拳銃を撃ち続けた。「パーン! パーン! パーン! パーン! パーン! カチャ、カチャ」弾が空になるまで・・・。その弾はすべて橋本刑事の体に当たり、彼を血で真赤に染めた。


「信二!」


 橋本刑事はそう声を上げるとそのまま倒れた。私は彼を抱きかかえた。


「うわあ!」


 信二は拳銃を投げ捨てると私の横を通って逃げて行った。だがそこには倉田班長たち第3班の刑事が待ち構えていた。

 信二は激しく暴れたが組み伏せられ、その手に手錠をはめられた。それで観念したのか、信二は急におとなしくなった。彼はそのまま連行されていった。


 私は橋本刑事を抱きかかえて呼びかけた。


「橋本さん。しっかりしてください!」

「俺って刑事失格だな。弟さえも説得できない・・・」


 その目は以前の温和で優しいものに戻っていた。


「俺は信二を苦しめていた。自業自得だな・・・」


 橋本刑事はそう言ってこと切れた。私はそっと彼を下した。その死顔は安らかだが橋本刑事らしくない。私はそばに落ちていた黒縁眼鏡を拾い、それを彼にかけさせた。


「これでいつもの橋本さんに戻った。やさしかったあの時の・・・」


 私はため息をつくと、そっと彼に手を合わせた。横たわる彼の顔は優しく笑っているように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒縁眼鏡の刑事 広之新 @hironosin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ