04

 夕食の時間にテーブルへつくと、日頃は何も口を出されないシャワーの使い方について真っ先に母から咎められた。

「体が温まらなかったり、疲れが取れなかったりするんだったら、ちゃんとお湯を張って浸かればいいでしょう。それとも何か考えごと?」

 突飛にそんなことを言われる意味もわからず曖昧に返事をする。席から腕を伸ばしてリモコンのボタンを適当に押すと、普段は目にしないドキュメンタリー番組のエンドクレジットが流れていた。選局画面でめぼしいものが見つからず、諦めて箸を取る。

 仕事で疲れて帰宅する母との食事の時間はたいていが無言だった。父は出張や地方赴任が多く、いつも在宅の日が分からない上にその時間に出くわすことがまずない。家に犬が一匹いたが俺が乳児の頃からいる老犬で、遅い夕食が始まる頃にはもう就寝している。連綿とくり返す静謐の時間を、その無言がほっとすると思って過ごしていた。熱い白米は噛めば甘い。母が買ってくる惣菜の好みは俺の趣向とほとんど合致した。汁物はあれば嬉しいがなくても不満はない。かぶときゅうりの浅漬けは毎日でも食べたい。こりこりと咀嚼の音だけが食卓に忙しなく響いた。

席を立って炊飯ジャーからおかわりをよそう。冷蔵庫にあるパックの納豆をひとつ出して混ぜ棒で適当に掻き回してから二杯目の白米の上へ落としていく。

 トレーの縁についた糸が手に絡んでぬるっと滑る。混ぜ棒で粘った糸玉ごとこそげ取る音がいやに耳にこびりついた。

 がしゃんと鳴る金属音に「ちょっと、癇癪はよして」と母が悪態を吐く。何かを考える前に、トレーと混ぜ棒を台所のシンクに投げつけていた。

 流しに落としたものを捨て置いて、茶碗を持つと足早に席へ戻る。箸を持つ頃にはもう一口も食べたくないくらいに食欲が削がれていた。無理やり取り繕って納豆と米をかき込むと碌に咀嚼しないまま飲み込んだ。耳の深部でどっどっと心音が聞こえる。昨日からずっと俺は少し変だ。部活の練習中も頭が働かず終始ぼうっとしていた。急に気温が上がったのに気づかず、水分を取りそびれたりして体調を崩しただろうか。

 喉元に呑んだはずの物がひっかかった感覚で食事を終え、ばたばたと自室へ引っ込む。机には明日までに予習しておかないといけない英語の課題が途中で放られていた。授業中にかなりの頻度で当てられるし、読解しておかなければその場で答えられない問題ばかりが単元ごとにびっしりと連なっている。前に丸腰で指名を食らった日は散々で、それに懲りてこれだけは他の科目を捨ててでも前夜に終わらせておきたいと誓っていた。

 眠気に負けているのでもない、酷い倦怠感があるわけでもなかった。今夜はもう、何もできる気がしなくなっていた。

 嫌だな、朝起きて学校へ行きたくなくなるのは。何が憂鬱でもない、上へ下へと情緒の起伏がありながらも、それをいなして普通にまま起こりうる程度のことだと思えない自分に疲れていた。

 普段は開けたままになっている、リビングと和室の間の引き戸が閉まる音がする。母が就寝するのだと分かると、途端に目が冴えて軽い動悸が起こった。どうしよう、課題を進められるか、少しだけ他教科の問題集に手を着けてみるか。もしくは明日のことを諦めて、普段は禁欲しているシミュレーションゲームにログインして憂さを晴らすか。

 ケーブルに繋いで充電している端末のボタンを押してロックを解除する。通知バーを展開してもメッセージの新着はなかった。

 最後のトークは昨日の河津からの連絡で止まっている。俺が作業場にいる時で、受信していることに気づかなかった一通。

 画面の左下に居座ったままのその短文を指でなぞる。そっけなく送られた会話は、ただ空腹を訴えているだけの文字列であり、それでいて返事を求める言い回しだと思った。今から応えることに何の意味はないだろう。河津は、本当に俺の道筋とは別にあの手から回避ができたのか?

 同じように辺境のリペアマンを訪ねたであろう、部活の先輩や同期の顔を順々に思い起こす。ぼんやりと浮かぶ彼等の様相は日常の穏やかな表情ばかりだから、どうしてそんな平気な顔をしているのだと途端に焦燥に駆られた。

 足音を立てないようにそっとフローリングを踏んで自室を出る。ガラス戸を押して暗がりのリビングへ戻った。台所で浄水をコップに汲んで一息に飲み干す。ごくりと嚥下すると今度は喉がちくちくと痛んだ。

 ガラスのコップをシンクの縁へ置き、そのままマットに尻をつけ、横向きに転がって床に頬を押し当てた。細長いラグマットに体半分が収まって、手足はひやりとしたフローリングに落ちる。じいんと音を立てる冷蔵庫の通電を聞きながら、横隔膜を上下させる無意識の運動を意識の片隅でなぞった。そういえば俺は演奏する時に息を止めたり吐き出したりすることしかできなくなる制限について、不自由だと思うことはあっても屈辱的な苦痛だと感じることはないのだなとぼんやり考える。目を閉じてしばらくじっとしていた。

 明け方までそこへ留まったが、気力が失せて眠ってしまうということは起こらなかった。不自然に醒めたままの思考で母の起床を待ち、一睡もしていない面で起き出した彼女を迎える。

 身支度をしながらでも耳だけ貸してほしい、と断りながら立ち上がった俺を目にして、母はいつもの朝のように忙しなく動き回ったり、苛立つあまりにひいっと奇声を上げたりするようなことはしなくなった。気配を察してのんびりと老犬が起きてくる。毛足の長い尻尾を控えめに振り、母の足下にうずくまった。

 今日は家事を放棄するという予告の代わりに淹れられるドリップコーヒーをゆっくりと啜りながら、彼女は静かに息子の言葉を聞いた。全て話し終えてると、しばらく沈黙を持て余す。空になったマグカップを両手で抱くように持つと、母は俺を連れて警察署へ行くことにする、と告げた。

「貴方がそんなに滅入ってるの、初めて見るかもしれないなぁと思って。車で所轄の署まで行ってみよう。直宏も制服でいいから、何かに着替えて」

 言われた通りに簡単に身支度をして、家から一時間ほど西に走った工房からほど近い警察署へ赴いた。いつも渋々といった顔で仕事へ行き、夜はだらだらと晩酌ばかりの姿から逸して機敏に動く母の姿を新鮮に眺める。きっとこの感覚は熱の出ない風邪と同じなのだなとぼんやり考えた。

 検温では平熱で、咳も鼻水も出ないから申告しない限り元気な連中と同じ括りにされて過ごしている。けれどもどうにも気怠さは悪くなるばかりで、授業も部活もまるきり集中できない。食事をすることも億劫になってはじめて家族に訴える程度の、あれと一緒だ。吐露すればあとはいつもの風邪と同じ扱いを受けるし、そういうことはもっと早く言いなさいと少し叱られたりもする。

 今の陳述も同じだったのだろうか。起こったその日その時に言わなかったことを注意されて、体の具合を心配される。気遣いのある食事を出されたり、平常では課される家事の手伝いを免除されたりして。そうして言ってしまったすぐ後に、まるで本当に仮病を使ったみたいに症状が消失する、そんなことがいつも通り進んでいくのだろうか。

 

 最寄りの警察署よりも古い堅剛なたたずまいの署内へ足を踏み入れる。受付と相談窓口の制服署員、そして最後に私服刑事と個室で面談と同じ話を三度繰り返した。付き添いの母はほとんど話さず、俺が「何月何日の何所で、中年男性に言葉で揶揄されたのですが」と主訴を述べるのをそばでそっと聞いている。

 私服刑事は和やかだが慎重な口調で、他にどんなことがあったかと事情を探った。自分以外に居合わせた人はいたか、身体の接触はあったか、時間の経過、そして所属している高校と部活、顧問との関係も。

 言葉で揶揄された、と告げた時には手帳の走り書きに留まるような姿勢だったが、話が進んでいくと、一度離席して書面を持ち帰り、その場で被害届用の書類作成を始めた。工房で貰った名刺を差し出し、無人駅からの経路も簡単に説明する。親御さんはこのことをご存じでしたか、と尋ねられ、母は黙って首を横に振った。

「危ないことが起こってからじゃあ遅いから、次から出かける時、お母さんにも言ってね」

 嫌な目に遭ったのはこちらの方なのに、なぜ私服刑事に俺の方に落ち度があるような口調で叱られなければならないのかと思いつつ、唇を引き結び黙って頷いた。服装や表情による誠実な印象とは異なり、実際は心の内で軟弱な男などと俺を蔑んでいるのかもしれない。被害届を出すとどうなるんですか、と母が口を挟むと、刑事は姿勢を正しつつにこりと微笑んだ。

「そうですね、同様の事例があれば我々が訪問して相手側の聴取を行います。もちろん匿名ですので直宏くんのことをお話することはありません。全てではありませんが、そのまま捜査へ移行する場合もあります。同じようなご相談が別の方からもあるなど、そういった動き次第で、ということになりますね」

 少しして、制服姿の若い男性署員が緑茶を持って会議室に訪れた。手早く給仕して離席する姿を見送りながら、母にそっと「公共の施設なのに、ちゃんとお茶くれるんだね」と耳打ちすると、目尻に皺を刻んだ横顔がぷっと小さく音を漏らした。

「それくらいへっちゃらでいてくれると助かる」

 へっちゃら、そう、俺は存外へっちゃららしい。人に話をしても気分が悪くなることはないし、問いかけにも客観的に回答を示すことができる。少なくとも高校受験の面接試験よりも緊張するといったことはなかった。平気で話す時間が多くなれば、それだけ自分が過敏に被害妄想をしていただけで世間一般には大きな問題になることではないのだと思うようになる。母の判断を否定することはないが、ここでは被害届を出すというアクションが出来事に関してのゴールなのだと理解した。


(続)

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