05

 帰りの車の中で、母は自分から部活の顧問へ電話でこの件を報告すると宣言した。俺の諾否にはかかわりなく、高校に在籍する生徒の保護者として、彼女の語彙を借りるとすれば「お母さんは怒っています」というようなことを訴えたいらしい。

「分かりにくいだろうけどね。直宏は男の子だし、ひどい乱暴をはたらかれたわけではないからね。でもダメなものはダメだから。別にコンクールでの金賞とか銀賞とか、買った楽器のことも、いいんだよそんなのは。部活、直の好きにしていいよ。今のところは続けるつもりだと思って、先生に連絡するだけだから」

 自宅近くのコンビニに駐車して俺を降ろすと、彼女はその足で職場へ向かっていった。家にあまり食糧がないからと買い出しを勧められたが、全く空腹を感じなかったので入店することなくそのまま帰宅する。自室へ戻り脱いだ制服をベッドへ適当に放ると、ワイシャツの下に中学の時のジャージを履いて、差し込む日で温くなった床へ座り込んだ。勉強机の脇に置いてあるホルンのハードケースを横へ倒し、ぬるぬるとジッパーを開ける。裾野の広い火山みたいな形をした朝顔はケースに収めたまま、本体の複雑に巻かれる円形を眺め、指先で触って確かめた。ロータリーのレバーを親指でひとつずつ順番に押し込む。動作を円滑にするために注入するオイルの種類がみっつあって、抜管した中へ注射器みたいに挿し込むタイプなどは特に日々の手入れが面倒だが、それだけ構ってやっているという充足感があった。

 中学の時に使っていたホルンは学校の備品で、古いヤマハのシングル管を使用していたが音色が好きになれなかった。春に御茶ノ水で今の楽器を見つけた時、これでようやく俺は自分の音色で演奏できるようになるのだという自信に満たされた。大事にしたいから不便を減らすことやもっと良くなるような調整をしたかった。ソロコンクールの出場や音大への進学などは考えていなかったが、自分に与えられた一音が合奏を成立させるための歯車として動いていくことに意義を感じていた。

 今年の課題曲でたびたび現れる、ホルンパートの五度の協和音が耳に残って響くのがすごく好きだ。もっとハイトーンを練習して、来年は中音域を牽引する一番吹きになりたい。

 鋼の相棒を持ち上げ、裏側の調整管に触れる。抜き差しの印象は修理の成果が素晴らしく反映されていて、全く違和感がない。技術が確かだというところに言い様のない虚しさを感じながら、本体をなめらかなドレープに覆われた緩衝材の内へ再び沈めた。

 楽器から手を離して、このままぼうっと過ごすのに少しだけいたたまれなくなり、のろのろと立ち上がって勉強机へ向かった。脱ぎ捨てた制服のポケットに入れたままだった携帯電話が鳴る。かけ布団に殺された振動音が止む前に、引っ張り出してロック画面を解除した。

 メッセージアプリの通知画面だったので、同期の部員のうち誰かからなのだと分かった。あいにく女子部員のほとんどを名前ではなくあだ名で認識してしまっているので、表示される氏名で個を識別することはできない。稲取、サックスにそんな名前のやつがいた気がする。休んだ同期に連絡を寄越してくるということは、学年の代表かインスペクター役からだろう。役員をしているアルトサックスの女子部員の顔をなんとなく思い浮かべてから、音声通話のボタンを押す。

「はい、狩野です」

「しってるよ」

 応答したのは男の声だった。聞かなくても河津だと分かってしまったのが、なぜだか微かに悔しく思う。

「稲取に電話借りたの。あんた、おれだと無視が多い」

「……嘘だよ、人聞き悪いな」

 スピーカー越しの声の掠れ具合で、耳に当てて通話しているのではなく、向き合った画面に声を吹き込んでいる姿が浮かんだ。四時から金管の分奏が始まること、練習後には秋の文化祭で演奏する楽曲の譜面が配られること、部長が明日まで不在のことなど、今日の予定を淡々と伝えられる。そこには俺の不在を責めるような語調は含まれなかった。

 こちらも通話画面をハンズフリー設定にしてベッドの上に置いた。制服を退けて壁際に腰かけるとギシッと軋み音がする。

「今日、学校行ってないし。森戸先輩とかには連絡したけど。伝わってなかった?」

 ひとりきりの教室の中で息を顰めながら話す声が、スピーカー越しにかさかさと鳴った。声の裏側で小さくパクパクと音がしているのは、手持ち無沙汰にトランペットのピストンで運指をさらっているのだと分かる。

「伝わってない、おれが聞き逃したのかも。そっか、明日ナオが来れば別にいい」

「明日」

 行けるかまだ分からない、という今の漠然とした感情は、母親の帰宅後にまた風向きが変わるかもしれないと思って言わなかった。小さな欠伸を噛み殺しながら、代わりに何か予定があるのかと尋ねる。電話越しの掠れた声はいつもより低くなり、明日で終わりなのだとやや物憂げに言われた。

「何が」

「期間限定のフルーツケーキ、分かる? 駅のモールにあるコーヒー飲めるところの。男ひとりは勇気が出ない、ナオも行こう」

 子どもが駄々をこねるみたいな言い分に思わず顔が変に緩んでしまう。よかった、今がビデオチャットになっていなくて。密かに表情筋を指圧で揉んでほぐしながら、ごろんと上体をベッドに横たえた。

「俺じゃないでも行けばいいじゃない。それこそ稲取とか連れて。女子の方がスムーズ」

「よせ。おれは美味いものを食べたいだけで、おんなのきゃあきゃあとか写真のパシャパシャとかを聞きたいわけではない」

「あはは、ひどいやつだな」

 その時発した言葉には、嫌味も棘もなくただ頭に浮かぶままに出たものだったと思う。河津にはそれが俺からの承諾とだけ捉えられたのかもしれない。

 電話はそれからすぐに切れたので、俺が心配だったのかフルーツケーキが心配だったのか分からない会話になった。数分後に、端末の本来の持ち主からきちんと事務的に今日の練習メニューと明日の予定が送られてきたし、同じ内容のものがホルンの先輩からのメッセージにも整然と箇条書きされていた。

《今日、他のパートでも休みがいたよ。はやり病かもしれない。無理はなさらず》

 妙に慇懃な先輩のメッセージには一言お礼だけ返信した。勉強机でやるべき課題は遅々として進んでいない。

 母は残務を放り出して定時より少し早い時間に帰ってきた。彼女が幹線道路沿いの回転寿司店で買ってきた持ち帰りの松膳をインスタントの味噌汁とともにふたりで静かに食べる。

 車内での宣言通り、就業時間のどこかで部活の顧問に連絡を入れたらしかった。電話の応対は穏やかで丁寧だった、話してみて安心した、と彼女は言っていた。頬杖をつきながら箸で握りをつまむ手や、相変わらず少し疲れた横顔をちらと覗き見て、不思議と自分も仄かな安堵を抱き始めていた。

 どこかで何度か教育された心理的な欲求として、誰かに話すということは、感情処理の観点である程度重要なものなのだな、と他人事に思った。警察と学校に話せばなんとかなる、というより、実際は何ひとつ過去も現状も変わらないにしても、自分以外の他人もそれを知っているという事が少しの逃げ道になっている気がした。

 肘を折って箸を持ったままの腕に鼻先を押し付ける。風呂の後も楽器の手入れで管をいじってしまったから、自分のことは油臭くないかと母に尋ねると、彼女は微かに変な顔になった。

「気にしすぎだよ。触れたものくらいで、直の体が臭くなるなんてことない。手は洗ったんでしょう」

「洗った。いや、忘れちゃった。もう一度洗おうかな」

 箸を置いて席を立ち、テーブルを離れた。シンクのバーを上げてから泡状のハンドソープをポンプで押し出して手指に撫でつける。水流の中に両手を突っ込み、つるつると白い泡が滑って剥がれていくのをじっと見入った。

 綺麗なものと汚いものの境目はどこにあるんだろう。それぞれに匂いをまとうものだろうか。この手はちょうど今、綺麗になったところなのか、それとも束の間だけ綺麗なふりをした何かになれたのか。綺麗なふりをした何かは、綺麗な寿司に触れることを自然にしても良かったのだろうか。触れると定義は歪むのか、一度失っても、その後にどこかで綺麗であることを再び取り戻すことは現実に有り得るのか。

 俺の楽器は今、そのどっち側にある?


(続)

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