06

 一階の廊下を伝令が走る。五時から課題曲の合奏です、と告げた人は上履きをつるつるのタイルに擦りながらまた駆けていく。背中を見送りながら、はい、と短く返事をして、譜面台に置いたファイルを閉じた。少し離れた窓際にいる森戸先輩が、鍵盤をキルトの肩かけ袋にしまっている。

 窓の向こうの裏グラウンドでは、女子テニス部が練習終了の号令をかけていた。先週あたりから日没までの時間がさらに伸びて、外には運動部の活気がいっそう満ちている。

 集合ー。にゃあー。

 一学期のはじめに物理担当の和田部という教諭が「あれは猫の鳴き声だ」と言ったから、実際はちっともそう聞こえないものであっても、それをにゃあとふりがなされた音として認識する他なくなってしまった。

 明日の朝練メニューは、にゃあ。先生からの伝達読みます、にゃあ。

 そうやって解散まであと何回にゃあと一斉に鳴くのかと数えながら、先輩の分と二台の楽器を抱えて8組の教室を出た。

 鍵盤を肩にかけ先を歩く先輩が三和土に入ると、待ち構えていた副部長が「ホルン急いで」と声をかけた。靴を脱いで余分な荷物は部室の端に置き、既に着席している他のパートの前の脇を横切って、指揮者の目の前にある座席にメンバー四人が並んで滑り込む。

 指揮台の後ろにある丸椅子に腰掛けていた顧問が、静まり返った広い合奏場を見渡し、全員の着席を確認すると、右手に持っていた指揮棒を楽譜の上に転がして置いた。

「合奏の前にひとつ、連絡があります。まあ、よく分からないんですけどね」

 気怠そうに間延びした声は、日頃の合奏で飛ぶ檄とは全く違った温度で保たれている。顧問は生物担当だが、その言動からしばしば高校へは吹奏楽をやりに来ている以外はすべてを添え物みたいに扱っているように映った。この時の話し方もまさにそれで、部活動以外の厄介ごとは勘弁してくれ、といった口調が諸所に現れている。

「楽器のリペアで紹介していた工房がありましてね、みなさんの中で何人か利用されたと思うんですが、ちょっと問題がありまして。直近で修理をお願いしたうちの生徒から、言葉で傷つけられるとか、体を触られそうになるとかね、そういう被害にあったという連絡がありました」

 一同はいつも通り、顧問の座る指揮台へ一心に視線を向けている。自分も溶け込んでいるこの光景が、ほんの少しだけ宗教と信仰を形作っているように見えた。行儀よく楽器を膝に置き譜面台の上から顔を出して顧問の言葉に耳を傾ける中で、前段の平場から双眸がぽつんとこちらへ留め置かれていた。河津に昨日電話を貸したサックスの稲取が、練習で酷使した紅い唇を引き結びながら、ひとり俺のことを見ている。何かを言いたそうな訳でもなければ、すべてを察知しているという脅迫でもなかった。瞬きでごまかして視線を逸らし、歯切れ悪く話す顧問の方へ向き直る。

「その工房を今後使うことはなくなるんですが、まあ他にね、困ったことがあったり、被害に遭ったと思う人はね、学校が相談に乗りますから、連絡してください、以上」

「はい」

 周囲に合わせてはい、と返事をしながら、それだけか、と思った。当事者だけが深刻に受けとめて過大に騒いだだけで、高校側は申告があったのでやむなく対応するポーズをとった、極端だがそんな風に見えてしまった。

 申告者が男子生徒だった、実際に強姦されたわけではない、証拠がない、誇張や被害妄想も含まれる。そんな風に思われたのか、少なくとも顧問はこの件について相手にしないつもりなのだということが分かった。

 当たらず触らずの雰囲気は他の部員からも感じられた。合奏の休憩時間中に聞こえてきた声は想定の通り後ろ向きなの内容だった。

「さっきの先生の話って、あの単線の電車に乗って行くところだよね?」

「いいおじさんだったよね、親切で」

「変なこと言われたことなかったな、私は」

「パンツの色聞かれたとか、そういう感じかな」

 短い時間のうちに交わされる、静かだがはっきりと聞き取れる女子部員の〝答え合わせ〟によって、ビンゴの穴開けと同じで消去法の魔力が働き始める。きっと考えすぎだ、彼女たちの多くは自分だけに関心があり、自分と会話の相手である友人がこの件に該当するかどうかだけが重要なのだ。そう言い聞かせて淡々と合奏に臨む。

 昨日の分奏でホルンが足踏みさせられたと聞いていたフレーズは、今日の合奏で不出来を叱られることはなかった。自由曲で毎度アドリブソロを吹くところで、その時も河津はその腕前をただ「上手」と評されて終わった。木管セクションはいくつかのアーティキュレーションの甘さで掴まり、何度吹き直しをしても合格をもらえず、暫くの間合奏場を追い出されている。定時までたっぷり譜読みをして、日没からさらに時間が経過した頃にようやく今日の部活は終わった。

 終礼後、楽器庫から運んだハードケースを開き、朝顔をくるくると外して本体を分解していく。管を抜き差しして唾抜きをして、洗ったマウスピースのひやりとした感覚を手の平で握ってゆっくりと味わいながら、メッキを拭いて指紋を落とし、ベロアの仕切りの内へ沈めた。

 立ち上がる頃合いで先輩に声を掛けられる。表情筋の動きが不完全なままの顔を持ち上げて返事をすると、彼女はプリーツスカートをすっぽり足へ被せてその場でしゃがみ込んだ。

「お疲れ様。狩野はいつもパートで音を合わせるのが巧い、かっちりハマって和音がかっこよくなる。耳がいいよね」

「……まだ、全然ですけど」

 ちょっと不愛想だった返答に、彼女は淡く微笑んでいる。森戸先輩は幼少期から音楽教育に恵まれ、中学から熱心にホルンという器楽に向き合い、外部講師とのレッスンを重ね、目下音大を目指している人だ。今から何かにおいて敵うはずもなく、俺やパートの他の部員を部活動の範囲以外で認識しない人、そう思っていた。

「狩野はいいなぁ、私より周りがよく聞こえて」

 その言葉は、おそらく合奏の場に限っての三番吹きの評価にすぎない。そういうのに一喜一憂する性質でもなし、俺はただ、主たる奏者の邪魔にならない中和的な音色というのが唯一最大の目標であったから、ひとまずはそれに適っていると解釈して短く礼を言う。

 会話の終わりを見計らって、先輩の後ろに影が立った。赤いシャツにスラックス姿、剥き出しの蛍光灯に照らされる綺麗な染色の茶髪。

「ナオ、終わったら帰ろ」

 トランペットを片手に提げた河津がひな壇の上からこちらへ声をかけるのを、見上げて返事をするまでにやや時間を食った。その時に覚えた違和感は、単に今日の自分がいつもより疲れているからだ、その程度にしか思っていなかった。

 

 楽器を背負った姿で三和土へ降りた俺に、河津は尖った声で「どっか行くの」と問う。

「楽器屋? 寄らないよ。直して良くなったから、少し可愛く思えるだけ。意味はない。河津のケーキも忘れてないよ」

 それは本当に思っていることだった。起こった色々なことは脇へ置き、親に買ってもらった楽器の状態が改善されたのはやはり嬉しい。それを確かめる為に何度でも触ってみたくなるのは素直な心緒だ。むしろ河津には物への愛着が湧かないのだろうか。女子部員たちのように楽器に名前こそつけないが、自分だけの固有のものを扱うささやかな優越感で小さな世界が埋まって満たされる心地は万人に共通するものだと思い込んでいた。

 俺をじろっと一瞥しただけで、河津はすたすたと先を歩く。昇降口の脇にある男子トイレの前で「しっこ」と言うので、つられて鞄と楽器を壁に寄せて床に置き、後からペンキで色を塗られた木戸を押して入る。

 タイルに上履きが両足つく前に、思い切り腕を引っ張られた。ぐんと弧を描いて体が円周を描くように振られる。個室の薄い壁に頭がごつんとぶつかった。咄嗟にうずくまろうとすると、両肘を掴まれそのまま個室の内向きに開いたドアに押し付けられる。痛みよりも大袈裟にバタンと響く衝撃が耳奥に刺さった。廊下の外まで筒抜けに聞こえていそうだ。

 振り回されたり打ち付けられたりしたから頭がぐらぐらする。既に平静を保てていない状態でうっすらと目を開けると、今度は髪を掴まれて額をドアに擦り付けられた。痛いとか不愉快とか負の感情を拾えず思考がぷつぷつと断線を起こし始めている。

 衝撃で開いた口から声も出せない俺に、河津は聞いたこともない怒号を上げドアを蹴りつけた。留め具の遊びががちゃがちゃと乱雑に鳴る。

「何、今日の」

 目線を合わせると、それが敵対の応答と思われたのか、こちらを睨みつける相貌が憤りでぶるぶると痙攣した。

「おれ、あの日あんたに会ったよな。ナオが楽器直してもらってる間、連絡も取ってた。なんでずっと平気な顔してるんだよ。何考えてんだあんたは」

 反駁を試みたが息を吐き出すだけで背中に悪寒が走る。呼吸ができなくなるのが怖くなって無意識に喉を掻いた。掴まれた頭を前に倒され、うっすらと湿ったタイルに膝をつけさせられた。スライド錠が穴に通って狭い個室を閉ざすと、洗面所側についている蛍光灯の明りがほとんど遮断された状態になる。

 無抵抗に跪いている俺の顎を掴み上げ、河津の手が口を抉じ開けた。何をされたのか、何を許したのか、どこを怪我したのかと怒鳴られるが、耳から音を感じる神経が痺れてその言葉の意味を脳へ伝播するのを阻んだ。親指で舌を押し込まれると唾液腺が反応して勝手に涎が溢れた。喉につかえて何度かえづくと、一気に吐き気が押し寄せる。

 どこからそんな力が湧いたのか、辛うじて男の足を押し退けると四つ這いで便器へ向かい、便座に覆いかぶさって勢いよく吐いた。直近で補給した水分と昼に食べた物、色のついた胃液をびしゃびしゃと音立てながら体から追い出していく。目を瞑って嘔吐する間、曖昧に削ぎ落していたあの時の記憶が圧制から抜けてどっと意識に溢れ出た。

 リペアの男が発するぬるぬるとした声、かさついて棘のある皮膚でぞろりと頬を撫でられた感覚、局部を見せろ、ここで勃起させてみろ、性交の経験はあるか、吐精した時どんな声を出すのか。

 嫌だ、もう考えたくない、煩い、消えろ消えろ消えろ。

 潰れた蛙みたいな呻き声の後に、何も吐けなくなった腹から悲鳴が出た。顔から噴出するものが汗なのか唾液なのか生理的に漏れ出た涙なのか分からないくらいぐちゃぐちゃに濡れた。


(続)

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