07

 極限に追いやられた状態にも関わらず、下腹は血流を巡らせて不健康に腫れ上がっていた。便器の腐臭を拾って再び嘔吐の発作がやってくる。今度は吐く時に背中を摩られた。触るなと拳を振り上げたいのに、相手にそれを向ける前に体が崩れてしまいそうで怖くなり、何もできなかった。

 吐き疲れて体にほとんど力が入らない。口を拭うためにトイレットペーパーに縋るように手を伸ばしたが、薄いシングルの素材はロールに貼りついて切れ端から引き出せず、くるくると虚しく自転するだけだった。河津が代わりに自分の手に巻き取ったペーパーを突き出してくる。受け取る気力が失せてぼんやり見つめているだけの俺の顔をそれで乱暴に拭った。情けなくて両目が熱くなる。はあはあと何度か空気を取り込むと視覚と聴覚が少しだけ戻ってきた。廊下に人の気配がある。遠くで話し声が聞こえた気がした。いや、それも幻聴なのか。

 個室の壁にもたれて立つ河津が俺の後ろにしゃがみ込んだ。脇の下へ腕を挿し込まれ、ずるずると体を起こして座らされる。頭を前に垂れたまま肩を後ろへ預けていると、喉元へ伸ばされた大きな手がぷつぷつとワイシャツのボタンを外していった。節張った長い指が、白いシャツに点々とある切れ目をつまんでは離しという動作を繰り返す。まるで枝葉にくっつく昆虫の足みたいだ。

 触るなと暴れたり、震えて縮こまったりする前に、その時俺が考えたのは、ああ河津って、こうやっておんなに触れるんだ、ということだった。

「楽器、良くなったって、何。あんたも良くしてもらったの」

「ちがう、河津、やめて、やめてください」

 冷ややかな侮蔑を背後から浴びせられるのに反して、体は焦燥で熱くなっていく。返す言葉はグラウンドから聞こえる、群れなすテニス部の猫みたいだった。にゃあ。発情を匂わせて媚びるような啼き声。ただし清潔なスポーツの中にある無邪気なものではない、下水臭に溶けた薄汚れたへつらい声だった。

 俺は、あの時も芯から拒んではいなかったのか、こうして相手が悦ぶような返事で嗜虐心をくすぐっていたのだろうか。それも無意識に。

「ナオ、顔上げろ。肌着持って捲れ」

 命じられた通りに手は自然に動く。指先の感覚が麻痺していて握るという感触が分からない。半袖の涼感インナーを両手で持ち上げて診察の時みたいに腹を見せると、首まで引けとぐいと腕を押し上げられた。ベルトを外されスラックスを引き摺り下ろされる。河津の伸びた手が小さな黒い長方形の端末を持っていた。鏡のように艶めくその形状を目の端で捉え、咄嗟に足をばたつかせて抵抗する。

 ロック画面がぱっと点灯した。俺の背後にある顔面が認証されて端末のホーム画面に切り替わる。メニューバーからカメラアプリを起動させ、画面側のインカメラの視点を画面いっぱいに映し出した。やや上から翳すように持って、乱雑に服を脱がされた体が全面に画角に収めるようにすると、手早くシャッターを切っていく。

 乾いた電子音がパシャパシャと連写するのがいちいち耳を苛んで全身を硬直させた。恐怖に縛られて動けないという体験をしたのはこれが初めてかもしれなかった。本当にだめな時、ひとは立ち上がって逃げ出すこともできなくなるのか。

 泣いていたのか、また神経がおかしくなって口から何かが漏れ出ていたのか、手のひらで顔をごしごしと拭われる。執拗に視線をレンズの方へ向けさせられ、画面越しの河津と対面させられた。

 ぞんざいな口調と手つきに反して、背後の男も俺と同じようにべそかき顔を晒して肩で息をしていた。よく見れば携帯電話を持つ手が小さく震えている。

「あんたが怪我してないか、俺が見たいだけ。誰にも送らない。終わったら殴っていい」

「殴らない。河津、もうやめて」

 再び廊下に人の気配が戻ってきた。足音に紛れて女子部員と思しき声が聞こえる。全てを意味のある言葉として拾うことができなかったが、文脈のどこかで、狩野、と呼ばれた気がした。

 廊下に楽器と荷物が残っている。ただの素通りならいいが、行方を探されているなら思っているより大事になっていそうだ。様子が変だと思った女子が通りすがりの男性教諭に気安く声をかけているかもしれない。

 同じようなことを考えていたのか、先に立ち上がった河津が錠をスライドしてドアを引っ張った。タイルにうずくまったままの俺の尻がつかえて半分も開かない隙間をすり抜け、足早にトイレを出ていく。

 のろのろとシャツの前立てを掴み、襟元から手の感覚だけでボタンを通していった。掛け違えを心配するなどの思考の余地は残っていない。湿った臀部の不快や、すえた臭いを吸うたびに覚える息苦しさ、薄闇のせいで視界にちりちりと砂嵐が差し込む感覚に軽く眩暈がした。

 遠くに聞こえる河津の声が、廊下で出くわした何者かに対して服を洗って出るからしばらく時間がかかるなどのもっともらしい言い訳をしている。口上に納得したのか、高くて明るいひらひらした声が「じゃーねー」と二、三、連なって聞こえた。ぎっと男子トイレの外扉が開く音とともに、ぱたぱたと乾いた足音が遠のいていく。

 ベニヤのドアが向こう側から軽くノックされて、河津の腕だけがぬっと個室へ入ってきた。

「立てなかったら、掴んで」

 差し伸べられた手と落ち着きを取り戻した深い声を耳にして、忘れていた鼓動がまるで疼くようにどくどくと鳴る。先程までの散々な思いを都合良く忘れて、大きな手に縋りつきたくなる気さえした。

「河津、燈」

 これも、今も本当に、俺の知る河津なのか。名簿から氏名を読み上げるみたいに口に出すと、彼は微かに慄いて「はい」と応えた。

「は、何、返事とかするなよ」

 手を振り払ってのろのろと立ち上がる。下着もスラックスも尻から太腿まで貼りついていて、足を伸ばすだけでも顔をしかめたくなる気持ち悪さだった。せり出たげっぷは吐瀉物の味がする。何も付着していないはずの口元を捲ったシャツの袖でごしごしと拭いた。

「返事は、いいだろ。いつも邪険に名字で呼ばれてる身になってよ」

 ささくれた唇を綿地のシャツから離し、邪険、とおうむ返しにする。伸びていた片手はドアの外へ引っ込められて、上履きのこすれる音が先に外扉の方へ向かった。

 今となっては俺の方が同期に詫び言を催促される側に立たされている。あんなことをされてもなお、その河津の行動に誤りはなかったのだと記憶を塗り替えられてしまいそうなのが不思議でならなかった。このまま俺の肌を暴いた手に甘えて正しいと思うことに従うべきだったのか。あの日に不慣れな電車を乗り継ぎ、畦道を辿って訪れた末の出来事を、どうすればただ悪い夢を見たとだけ思って忘れることができるのだろう。

 押し開けられた扉からぎいと不穏な音が出る。合奏で楽曲の譜読みをする前に行う基礎練習、カデンツの和音では、ホルンはいつも主音の七度上、一見衝突する音の添え役をになっていた。鍵盤楽器では隣どうしの音を同時に弾くことになるので不協和を感じるが、管楽器が音を重ねる時に変動する僅かな高低によって、緻密なパズルをぴたりと嵌めて複雑な重音を成立させることができた。

 不適だという印象と、確かにそこにいていいという物理の正しさが激しくせめぎ合う七度の音は、ホルンの三番手、つまり今の俺の譜面にしばしば割り当てられた。選ばれて任ぜられているのか、厄介ごとを押し付けられているのか、それ自体もよく分からない、本来の和音から遠くに置かれた隅の存在である意味を、ようやく今、少しだけわかった気がした。

「アカリ」

 トイレの外扉を出ようとした背に言葉をかける。声がかすれてほとんど空気を振動させられなかった呼気を鋭敏に拾った河津がばっと向き直った。足を止め、開きかけた扉を呆気なく手放し、微かに濡れた双眸を一心にこちらへ注いでいる。

「あ、あの」

「何、構わず言って」

「背中、も、見てほしい。怪我をしていないか……」

 口に出した途端に一面に後悔が広がった。自分が強請ったことがあまりに浅はかでいたたまれなくなり、ワイシャツの上から襟足を乱暴に掻きむしった。苦しさと熱さのせいで耳が奥からぼうっとして、長いトンネルからずっと抜け出られないような錯誤が聴覚を鈍らせていく。

 沈黙をゆっくり破った返事は力のない小声で「ケーキ、食えなくていい?」と尋ねただけだった。気抜けして啜った鼻は、感傷の粒になり損なったもので濡れている。


(続)

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『瞬きしない目、切り取る音』5/19:文学フリマ東京38 丹路槇 @niro_maki

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