03

 翌日、直した楽器を背負って放課後の部室へ向かう。前日のことによって倦怠感が続き意欲が削がれてしまうことを危惧したが、どうやら自分で思うより図太い性格らしく、一昨日までの自分とまるで変わらないように思えるくらい、体はすんなりと動作した。

 教室を出て、自販機が並ぶ階段脇を通り抜け、いったん校舎の外へ出る。コンクリートが敷かれた簡素な外通路は建て増しされた小さな学舎、通称〝隔離校舎〟から校庭を囲うように造られた部室棟へ続いていた。古くて踏むとがたがたと浮くスノコ板を伝い、プレハブの運動部室のドア前を抜ける。いちばん奥にある大部屋、おそらく古い格技場跡を利用しているのだが、そこが吹奏楽部の部室兼合奏場だった。

 三和土で靴を脱いでいると後ろから他の部員が入ってくる。同じホルンの森戸先輩に追いつかれ、挨拶がてら「昨日は休み、ありがとうございました」と頭を下げると、彼女は落ち着いた笑顔で頷いた。

「狩野の楽器も、調子良くなった? あそこのリペアいいよね、安いし」

 曇りのない言葉にじんと目の奥が霞んだ。先輩が嘘をついたり取り繕ったりしていないのは一目で分かった。やはり俺だけに降りかかった出来事なのだろうか。それとも、これを出来事とも思わないような、利用者とリペアマンの間の暗黙の関係のようなものが当然にあるのか。そうだとして、周知のことを俺ひとり知らないのはなぜだろう。顧問とのやり取りで直接的な表現をされずに終わるのに不自然はないが、風聞や内密事が好きな女子部員らの間ですら、話題にならないことと捉えて良いのだろうか。

 薄く剥げかかった部室の絨毯を渡り、未だ十人近くがごちゃごちゃと居座っている楽器庫に入り込んだ。何代も前の先輩部員によって日曜大工で作られた合板の棚にスクールバッグを放り、肩から下ろしたケースから楽器を取り出す。片手を引っ掛けてチューニング管を抜き差しすると、驚くほど滑らかになっていた。仕事はしっかりしている、と認めると、抱いていたわだかまりのうちひとつがどうでも良くなった心地になる。

 組み立てた楽器を棚の中段に置き、折り畳み式の譜面台を広げていると、退室したクラリネット部員の集団と入れ替わりに、河津が楽器庫へ入ってきた。急いできたのか、首に巻いたタオルで流れ落ちる汗を何度も拭っている。本人も堪忍ならないというふうに顔を顰め「白シャツ無理、着替える、ナオ鍵閉めて」と唸り声を上げた。

 入口付近でお喋りに興じていた木管の同期たちを部室へ出るように促して、少しの間この小部屋の戸を閉めることを適当に声がけして施錠する。密室の圧迫感か、先ほどまでよりさらに室温が上がった気がした。首の後ろにじわりと汗が湧く。組み立て終えた譜面台に楽譜のファイルとチューナーを置いてから手のつけ根で流れた汗を擦り取った。ああまた、目の奥にじわりと鈍痛が澱む。

 河津は慣れた手つきでボタンを弾くように外すとワイシャツをぞんざいに脱ぎ捨て、鞄の底から引っ張り出した赤いTシャツを頭から被った。無理に引き出した拍子に筆箱や電子辞書などがばらばらと床に零れ落ちる。ワイヤレスイヤホンは落下の反動で蓋が開き、中から両耳のパーツが豆みたいに飛び出た。

「あっぶな、辞書の画面、脆いからすぐ割れる」

 絨毯の上に落ちた電子辞書が衝撃でぱかっと開くのを見て、それでもディスプレイに疵がないことを確かめてから思わず声が出る。構ってしまった手前、落ちた物に近い位置にいる俺が先に屈んで鞄の中身を拾い始めた。

 Tシャツに袖を通した河津が後から近くにしゃがんだ。イヤホンを再び容器に入れて、充電のランプが点灯するまでの間、じっと静止する。つられて手の動きを止め、白く発光する豆型の部品に注視した。蓋を閉じると磁力でぴたりと合わさった音がパチンと響く。手にイヤホンケースを握りながら、同期は暑さで苛立つ時と同じ相貌を浮かべた。

「……あんた、昨日帰れたの」

「うん、河津のラッパも具合良くなった?」

 思ったよりもずっとすんなり話ができたことに不覚にも感動した。そうか、こうして普通になっていくのかもしれない。俺がひとより切り替えが下手なだけで、皆上手におのおののスイッチを操り、昨日のようなことはオフの世界へ消去しているのだ。なるほど、そういうことなんだな。納得すれば肩が先ほどよりもずっと軽くなる。

 同期は隣にしゃがんだまま、揃えた爪の先で生え際をがしがしと掻いた。こんなに暑さに焦れ込むところを見たことがなかったので、普段の悠然とした感じとは随分と違うものだなとそっとその挙動を観察する。

「おれの、リペアは出さなかった」

「えっ、なぜ」

 顔を上げると視界の隅に瞬きで動く河津の睫毛が映った。少し俯くと髪染めで埋められていない黒い生え際が見える。立てば俺より上背があるし、座る位置もトランペットはひな壇の最上段だったから、彼のことを見下ろす機会が日頃ほとんどないのだな、と思う。気づいたところでどうにもならないことだけど、やや上から見た河津の顔は、みっちりと生えた形の良い眉と山なりにふっくら盛り上がった頬の形が特長でいいな、とそのまま自然に見入った。

 俺の手から落とし物を受け取った両手は、それを片づける素振りはなく手いたずらばかりしている。

「あのおっさんと少し話して、具合悪いところの直し方聞いて、ああその方法ならおれと一緒です、ってなって、戻ってきたから」

「へえ、そんなことあるの、すごい」

 修理を依頼せず早々にあの作業場を後にする河津の姿が目に浮かぶ。片手にトランペットのケースを提げ、駅までの道程を淡々と歩き、電車がしばらく来ないことを知ってホームのベンチに腰を下ろす。イヤホンで両耳を塞ぎ、コンクールの曲ではなく好きなジャズのトラックをアプリで物色するだろう。

 ラッパ吹きなのに渡辺貞夫が好きなのを前に揶揄うと、ふんと鼻を鳴らして「何が悪い」と居直っていた。なりたいから好きになるのではなく、なれっこないから何度も聴くのだとそれらしいことを言いながら外した自分の片側のイヤホンを俺の耳に押し込んでくる。

 そんな河津だから、リペアマンの方針に盲目に従うのではなく、実に適った意見交換の後にすぐに戻ってくることができたのだろう。なぜだか先に安堵で手の力が抜け、それから自分が惨めに思えて、眼前にある薄く禿げた絨毯に軽く爪を立てた。今になって、今日まで部活を休んでしまえば良かったと思った。分奏もない個人練習だけが活動の曜日、俺が不在のままでもパートの先輩に大きな迷惑がかかることもない。

 楽器庫の戸がこんこんと叩かれる。

「ちょっと、男子もういい?」

 外で女子部員を待たせていたのを忘れていて、慌ててドアへ向かった。中からかけていた鍵を回して開ける。待機していたふたりのトロンボーンパートの先輩が入ってきて、真っ先に河津を指さすと「あは、単純」と嫌味なく笑った。

「アカリちゃん、また赤着てる」

「ほんとだ。赤が似合うって、好きな子に言われたってやつ?」

「うそ、そんな可愛いところあるの? アカリちゃんなのに?」

「なのにとは、何」

 面白がって茶化してくる先輩ふたりを姉妹みたいに仲が良いなとぼんやり眺めていると、なぜか河津が割って入って俺の顔の前に立つと、邪険に払うように左手を振った。

「おれは自分でも赤は似合うと思う」

「ほお、ちょっと強気」

「しかも、この珍妙な名前にも合ってる」

「それを自分で言うかね」

「好きな子がいるのは否定しないところがねえ」

 可愛い、と口々に言いながら、ふたりの細い腕がキルトバッグに入った鍵盤をそれぞれ肩にかけて持って出る。俺が「トロンボーンの教室どこですか」と尋ねると、今日は隔離校舎の二階へ行くと返ってきた。金管楽器の各パートは音量が大きいからそれぞれ干渉しないように練習部屋を分散させるという不言の約束がある。ホルンの先輩が先に向かっているとすれば、本校舎の西側を選んで使っているだろう。

 トロンボーンのふたりを見送ってから立ち上がって譜面台を持つ。鞄の片付けを済ませて楽器ケースのバックルを跳ね上げている河津に「今の、付き合ってるの」などと軽口を言って、楽器を横向きに脇へ挟んだ。ホルンの反った朝顔のラインが背中に当たっているのを確認してから踵を返す。

「それ、抜け駆けするな、みたいに聞こえるけど」

「あー、違う。忘れて。俺そういうのいい」

 迂闊なことを口にしたと後悔して、逃げるように楽器庫を出た。河津の気怠そうな溜息が耳に残る。部室にはまだ練習に出ずにひな壇に腰かけてお喋りする人、演奏以外の雑務に勤しむ人などが何人も残っていた。

「狩野、音出し行く?」

 女子部員たちの朗らかな声に応じて小さく頷く。とんとんとひな壇を降りて先に下駄箱へ向かうその華奢な体躯は、容易に手折れそうなのに楽器を介せば大きな力の原動力になった。自分よりやや小さく、明るくてよく笑う彼女たちのことを、親しみ以外の何かでは考えられないと思っている。付き合いが深くなればそれぞれの魅力が見えることもあるが、それは俺という個人と親密に関わってほしい何かとは思っていなかった。

 前に誰かが言っていたことを不意に思い出す。狩野ってどうしてアカリちゃんや他の男子みたいにあだ名がないのか知ってる? 雰囲気とか、話のやわらかさとか、もうはじめから女子みたいだから、馴染んでるんだよ。私、狩野が生理でお腹痛いって言ったら、たぶん信じちゃう。

 もしも俺が本当に生理という単語を口にした日には一同は悲鳴を上げて逃げ惑うはずなのに、かつてなんとなく言われたたそれは妙な説得力で記憶に残った。そんな今日こそ、鎮痛薬を常備している彼女たちから一錠分けてもらった方がいいのかもしれない。練習に出てからも目の奥がじくじくと疼くのは変わらなかった。緩やかな痛みが続くと思考は清明さを失って徐々に翳っていく。


(続)

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