02

 中へ挿し込んだ鋼の形に管を広げ、U字の直管部分の片側ずつを抜き差しして具合を確かめる。つかえがあればさらにもう一回り大きな芯を、それで管を歪めないようにまっすぐ入れて木鎚で少しずつ打って拡げていった。

 吹きさらしの作業場に微風が通る。風に撫でられてはじめて、自分が顎に水滴が溜まるほど汗をかいているのだと気づいた。

 鞄からフェイスタオルを取り出すついでに、その時ちょうど点灯していた携帯電話を手に取る。折り重なった新着のバーの中に、次にここへ来る河津燈からのメッセージもあった。

《乗り換えは順調。遠いな。そっちはちゃんと着いた?》

 仮入部期間の初日に早々と入部届を出した河津は、俺たちがパートの希望調査票を提出する前から、既にトランペットパートの一員だった。彼も中学からの経験者で、出身校がビックバンドにも熱心だったらしく、ジャズやポップスの演奏が巧い。高音がよく当たるから一年のコンクールから乗り番、いわばレギュラーメンバーで、かつ主旋律を吹くファーストの配置になった。

 アカリという可愛らしい名前のせいで顔を見るまで完全に女子だと思い込んでおり、さらに俺より背が高くて髪を染めていた見た目から、数週間後に自己紹介されるまで別の先輩と取り違えて認識していた。

「狩野がよそよそしいの、そのせいか。おれ、顔こわい方だけど、男に嫌がられるの初めてで、どうしようかと」

 そんな風に頭を掻きながら詫びられたので、そのあと続けて「ナオって呼んでいい?」という申し出を受けるまでのやり取りも自然な成り行きだった。

 メッセージに短く《着いた》とだけ返事する。制服の尻ポケットだと座った時に飛び出た端末を落としそうだったので、口が開いたままの鞄の手前あたりに画面が見える角度で置いた。

 リペアマンがふんふんと鼻歌をうたいながら作業をしている。道具や作業場が粗雑で少し驚いたが、ここには都内の楽器店のような堅苦しさとか居心地の悪さ、端的に敷地が狭いための居場所のなさなどはなかった。河津が来る時までにこの空間に多少打ち解けていれば、そのままふたり分のリペアが終わるまでここで待たせてもらえるかもしれない。どのみち自分の作業が済む時間になれば、その後学校へ戻って部活に参加しろなどという指示はされないだろう。パートの先輩も承知していて、終了時刻に連絡があればそれを顧問に伝えておく、と言ってもらえている。

 鋼の軸がU字管の二本目の直道に入っていく。小さく木槌で打っては、凹んで軌道を妨げているところを少しずつ押し広げて元に戻す作業を進めていた。

「今年の課題曲、難しいでしょう」

 不意に話しかけられて、特に準備もなく「はい」と答える。

「何番選んだの、おたく」

「えっと、一番です。和曲なんですけど」

 そりゃ大変だねえ、とのんびりした声が槌を打つ音の合間に差し込まれた。螺旋を描いたり円の内で緩やかに折り曲げられたりしているホルンという楽器の、複雑な管の機構を何をするでもなく目でなぞる。

 マウスピースから出た呼気は振動を伝え、ちょうど今修理されているチューニング管をぐるりと一周する。そのまま縦列したロータリーへ。ターミナル駅みたいになった四連の、親指側から順々に空気が通過していく。はじめは調を選ぶ切り替え、それから一番、二番、三番とレバーの上下によって分線へ入るか素通りするか、これらの分岐によって音程の高低が変わる。ただ、ホルンは倍音が多いので運指以外にも吹奏する息の速さが音の高低をほとんど決めるといっていい。裏を返せば音を外しやすい楽器で知られている。練習中のミスはある程度お互い様なのだが、合奏中に自分が外した箇所をパート全員で顧問から叱られる時はいたたまれない思いがした。すべてのロータリーを通り終えると管は外周を始める。カタツムリの殻のような輪郭を描いた管は徐々に口径を太くしていき、最後は朝顔の花のように大輪の花が開く。

 ホルンのもうひとつの大きな特徴は、この朝顔に手を突っ込む、とまではいかないが、内壁に手を当てて楽器を支え持って演奏する、ということだった。添えた自分の右手によって音の高さや柔らかさが変わる。実際はホールの壁に角度を決めて音を当てれば綺麗に反響して返ってくる。他の金管楽器は上や前に朝顔が向いていて、客席にそのままボールを放るように音が届く仕組みだったが、ホルンはすぐ後ろの壁にぶつけてから人に聞かせる、その仕組みがややひねくれていて、そして俺にはよく似合いだと思っていた。

 拡げた管の中に外したU字管をぴたりと嵌るまで入れていく。重なったところが滑らかに往復できることを確認してから、リペアマンはまた木槌で次の箇所の修繕にとりかかった。

「難しい曲はね、そりゃもう、基礎に限るよ。基礎練ね」

「はい」

 作業の合間にふと顔を上げ、こちらにゆっくりと微笑む。覗いた歯列が斜めに山谷と折り重なっていて、楽器をやるひとは歯並びが悪いことが多いな、と根拠もなく思った。自分も親に勧められ小児歯科に通っていたが、部活との兼ね合いで処置を後回しにしていたら、歯列矯正に一番いい時期を逃してしまっていた。今でも気になってはいるが、八重歯の尖ったところを直さずにここまできてしまったからもう矯正はしないで成人を迎えそうだ。同じホルンの先輩は、二年で早めに部活を引退してから歯列矯正を始めたらしい。コントラバスや打楽器は関係ないのかもしれないが、あとはそう、河津は、彼の場合はおそらく、生まれつき歯並びが文句なしに綺麗な事例のようだった。

 それで、歯並びの不揃いなリペアマンの上目遣いを見て、俺はその時はじめて少しだけ負の感情を抱いたと思う。視線を合わせると落ち着かなくなり、慌てて作業場の土間になっているところへ視線を泳がせた。練習、そうだ、基礎練の話をしていた。課題曲の難しさを乗り越えるにはやはり鍛錬あるのみ、ということなのかもしれない。

 ソルフェージュは毎日やっています、と答えると、壮年の修繕士はまるで見当違いの回答だったというように短く笑った。気のせいか、微かにばかにしているように聞こえる。聞こえただけでただの思い違いかもしれないのに、本能的にそれが嫌だった。

「もっと根幹のところだよ。お腹に力を入れるトレーニングね」

「腹式ですね」

「そうそう」

 合いの手を入れれば、木槌は再び機嫌良くとんとんと打たれる。ふたつめの管の片側が終わった。次が最後の形成だ。四十分と予告されていた時間よりかなり早い。

 急かすと悪いと思いつつ、進捗の報告という意味で、河津に連絡を入れておくべきだろうかと鞄の中へ手を伸ばした。姿勢はそのままに後ろ手で携帯電話を探ろうとすると、修繕を止めた腕に遮られる。

 違和感や抵抗よりも先に恐怖を覚えたのは、ここが全く見知らぬ土地で、初対面の成人男性と、今はふたりきりでいるということを初めて理解したからだった。逃げたくなっても楽器が質に獲られていて動けない。気楽に顧問の紹介を受けて訪ねたから、今の自分がここへ居ることすら、親には報せていなかった。

「どういう時にお腹にいちばん力が入るか、きみも男だから分かるだろう」

 いいえ、と口で拒んで、咄嗟に笑顔を作ってごまかしてみる。早く終われと祈っても、木槌を持ったまま動かなくなった手はしばらく仕事をしなくなった。

 涼風の吹く工房で、風邪で熱を出した時のような冷や汗をかいている。対峙しているものが大きくなると、静寂に響く呼吸音が湿って耳の中に絡みついた。

 向けられる双眸が鈍く光っている。時折もごもごと動く唇の隙間から黄ばんだ歯が覗いた。口を動かして何か言葉を発すると、唾液がくちゃくちゃと音を立てる。

 言われた通り、滞在時間は四十分を経過している。やがて外から砂利を擦る足音を聞き取ると、これでようやく揶揄に巻かれたとぐろから解かれるのだとじわりと安堵が沁みた。

 俺が来る前に楽器をみてもらっていた女子生徒は無事だったのだろうか。何度も通っていて慣れているということもありうるのか。今のは修理場を使う上での常識? もしくは――。

 軒の向こうからつい先刻の自分がしたのと同じように、河津がひょこりと顔を出した。

「お邪魔します」

 頭を上げた時に目が合うが、不自然に逸らしてしまう。

「次の子ね、はい、楽器こっちに置いて待ってて」

 締まりのない声が背後から聞こえてぞっと悪寒が走った。土間の端にある流しで手を洗っていたリペアマンは、作業台に丸めて置いたままのタオルを適当に掴んで水気を拭い、河津の楽器が置かれた縁台へゆっくりと歩いていく。

 その後についていきながら、彼がぼそっと「連絡」と苛立って呟いた。

「あ、ごめん、通知、聞こえなかったかも……」

「いいけど」

 寒気が過ぎると今度は猛烈に倦怠感が襲った。首も耳もぼうっと熱い。拳を作れば手のひらが滑って粘液に触っているような錯覚に目の奥がちかちかした。河津が来たことでリペアマンのところからホルンの本体がようやく手元に戻ってくる。金メッキの円形に巻かれた管を、その形に合わせて作られたハードケースのクッション材の中へ沈めるだけの動作に手が震えた。

「ナオ、先帰んの」

 きっとその時の河津は、普段と何ひとつ変わらず部活の同期に声をかけただけだったのかもしれない。過去の経験から純粋に、そう問えば俺が河津の用が終わるまで居残ることを予測されたのだろう。一片でも冷静な思考が残っていれば、間違いなく俺はその言葉に応じてその場に残っていた。後から思い返せば容易にそう決断できるが、悪寒に震えた体が本能で遁逃の警鐘を鳴らし続けていたために平生の思考はすっかり失われていた。

「帰る。ごめん、夕方に家の用事があって」

 そう言い捨てて、相手の反応を窺う暇もなくその場から立ち去る。修繕の謝礼を渡し、深々と叩頭して目を合わせないようにして、そのままばっと踵を返した。

 作業場から外へ出ると忘れていた午後の日射に襲われてどっと汗が噴き出る。それがどのくらい熱いと感じているのか、体がいかに疲労していて背負った楽器がどれくらい重たいのか、分かろうとも思わずただ一心に駅へ戻る道を辿った。

 通学で使ういつもの路線に乗り換えて、電車の窓から日没後の風景を見た記憶が断片で残っている。移動時間を埋める他の情報は自分のものではないように抜け落ちてしまっていた。

 ホルンのリペア予約時間から三時間が過ぎた頃、最寄りの駅改札を出る。コンコースの音を耳が知覚して、帰ってきた、という実感にようやく平常を取り戻していった。

 家に帰って制服を脱ぎ捨てると、夕食も摂らずに朝まで昏々と眠った。あの時の河津が送った連絡について返事をしなかったことをなぜ怒っていたのかを確認するべきだと思っていたが、その気力が湧くことはなかった。


(続)

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