サンプル『瞬きしない目、切り取る音』5/19:文学フリマ東京38

丹路槇

01

 木製のしきりに掴まれた頭を勢いよく打ちつけられる。痛みを感じる前に口が反射で「いたい」と言ってしまうと、追い打ちでもう一度目尻を壁面に押しつけられた。割れるような頭痛と下水臭が混じって軽く酔っている。目を擦ろうとして片腕を持ち上げると、反抗と思われたのか、それも手荒く払われた。

「膝ついて座れ。喋るなよ。そのまま口開けろ」

 そう言われた時に既に頭は真っ白だった。背中の後ろでトイレのドアが音を立てて閉まる。個室の外では微かな流水音が、さらに扉の向こうでは廊下を駆ける人の気配がした。誰かに見つかるということよりも、共感ではない別の感情を向けられていることについて、脳が理解することを拒んでいた。

 こちらを見下ろすふたつの目が射抜かれる。口の中にせり上がってくるもので思考が皆まで埋め尽くされていく。


 *

 

 橙に塗られた古いJRの車両に乗っている。たたん、たたんと線路の継ぎ目を越える乾いた音に、電子メトロノームのような普遍ではなく速度の揺らぎを聞いていた。手の中にある端末の電源を入れる。通知が堆積したロック画面の、被さったバナーを追いやってシンプルなデジタル時計を表示させた。平日の午後、学校に残らずひとり電車でどこかへ向かうことが珍しいから、やましいことは何もないのに誰とも連絡を取ってはいけない気がしてしまう。

 緑とトンネルと踏切が延々繰り返される車窓越しの光景をぼんやりと眺めながら、このまま停車駅を過ぎても俺は気づかず終着まで行き過ぎてしまうかもしれないと思った。

 知らない路線の知らない駅の名を部活の顧問に告げられたのは前週のこと。何日の何時に予約をしたから、時間厳守で訪ねるようにと言われている。数日前は先輩が同じところを訪問していて、今日は俺のすぐ後の枠に、同期の河津燈がこちらも顧問の指示を受けていくことになっているらしかった。

 降車駅は改札ではなくICカードのタッチ用のポールが一本立っただけの無人駅だった。タッチした時に残高が二百円以上ある表示を見て、とりあえず帰り道も駅の中へ入ることはできそうであることを確認する。きっぷ売り場の脇にかかった時刻表は想像通りほとんど数字がない。駅舎を出ると自動販売機がひとつと錆びたバス停があるだけだった。紙に出力してきた地図を鞄の外ポケットから取り出す。肩紐を引いてハードケースを背負い直し、特に何も考えず地図上に水色の太線で引かれたルートに沿って歩いた。

 駅前から臨む景色は一面に広がる田園とはるか向こう見える土手、ビルどころかマンションも見当たらず、ただ空が広い。同じ県内にこんなところがあるのだなと感心しながら、いつもよりゆっくり感じる時間の流れの中に足を進める。自然に口から出てくるのはコンクールの課題曲で演奏する自分のパートだった。一曲歌えば約四分、そんな不確かな時間の測り方を頼りに、轍ができた田園の脇道をひたすら進む。

 看板も表札もない古い民家に着いたのは、課題曲を二周きっかり歌い終わった頃だった。駄菓子屋の店先みたいに土間の向こうには縁台と小上がりがある。長い木製の作業台にはたくさんの工具が雑多に置かれていた。

 肘の下まで捲っているシャツを更にたくし上げながら、こんにちは、と声をかける。小上がりの隅に黒い革靴が揃えて置かれているのを見とめ、前の予約者がまだ作業をしてもらっているところなのだと理解した。

「そのへん座って、待っててね」

 少し掠れた男性の声が戻ってくる。肩からハードケースを下ろしておとなしく縁台の端に腰かけた。

 窓辺に吊り下げられた金属管を眺める。同じような角度でU字型に折り曲がったそれは音程を調整するためのチューニング管だ。緑青が生えているものもあった。既に壊れた本体の部品だけ残っているのだろうか。仄かに焦げた匂いがするのは半田ごてを使ったあとだからだろう。ラッカー、シルバー、ニッケルメッキ、洋白仕上げ。並ぶ金属片は陽光を拾ってふんわりと反射している。

 金管楽器は何もしなくても自然ときらきら光ることが魅力のひとつだと思う。現に俺もそうやってぴかぴか光る何かに誘われて小学校のマーチングバンドに入り、中学高校と吹奏楽を続けていた。ここへ持参したのは今春買った所持楽器で、顧問の言葉に従い御茶ノ水の専門店で状態の良い中古品を選んだ。それでもピアノ一台買うのと変わらない値段に、少なからず親に苦労をかけた自覚はある。

 今日ここへ訪れたのは楽器のメンテナンスのためで、御茶ノ水や渋谷の楽器店ではなく辺境にある個人経営のリペアマンを紹介されたのは良心的な価格設定に依るものだろう。

 前の客が小上がりから降りてきて、茶封筒に入れた謝礼をリペアマンに渡している。俺にも軽く会釈をしたひとは、違う学校のセーラー服を着ていた。抱えたハードケースはクラリネットで、店を出た先の道は俺が通ってきたのと逆方向だった。

「はい、次の子ね。東藤先生のところの?」

 はっと顔を上げ慌てて立ち上がる。向かい合うと壮年のリペアマンは俺より頭半分背が低かった。頭頂が少し剥げていて生えているのは殆どが白髪だ。色の褪せたポロシャツを着て、指の先にはヤニが染みたような短い爪がついている。

 なあんとなく顧問と同じ世代に見えたが、綺麗好きの彼とは違いこの修理士は見た目に頓着しない性分なのだろう。机の上に無造作に積まれた名刺の束から一枚を差し出される。作法も分からず受け取って、よろしくお願いします、と頭を下げると、ぽんと軽く背を叩かれた。

「うんうん、ホルンだね。いつ買ったの」

「今年。中古です。前の使用者は音大の院生で」

「へえ、ハンスホイヤーか。こんなの使ってる高校生いないんじゃないの。珍しいねえ、昔はよく見たけれど。どこが具合悪い?」

 手招きに促されて、ハードケースのジッパーを開けて本体を取り出す。ホルンは収納のために管が渦巻き状にまとめられているところと、最後に音を拡声する朝顔の部分が切り離されている型が多い。平置きした本体の上に笠を被せるみたいに朝顔を重ねて収納するので、背負うと亀の甲羅のようになるとよく言われていた。

 朝顔がしまわれたままの分厚い蓋を開いて本体の裏面、いつもは自分の胸の方にある調整管を二本、抜き差ししてみせる。機構が複雑な本体には切り替えロータリーがついており、吹奏した時の空気の軌道がふたつのルートに分かれるしかけになっていた。比較的よく使う方のルートの管がややぎこちなく、時たま使う方の管は更につかえがひどい。

 抜く方はまだいいが押し込む時に強烈な抵抗があるのを何度か動かしてみせる。直りますか、と聞きながら視線を上げると、自分が管を持っている手の上から片手で掴まれ、普段よりかなり乱暴に抜き差しの動作が繰り返された。これくらい強行に動かしてもいいのかという驚きは、唐突に体の一部に触れられた強烈な違和感で曖昧になる。

 リペアマンは何事もない顔をして、よくある使用感から起こる歪みだろうと告げた。

「U字管のここね、掴んじゃったり、管をしまう時に斜めにしちゃったり、まあそれで曲がったりしちゃうよね。自分では分からないんだけど、癖みたいなもんで」

「癖」

「そうそう。新品みたいな真円にはならないけど、中に棒挿して、ちょっと叩くとかすれば、まあ良くなるかな。四十分くらいね」

「はい、お願いします」

 彼が工具を取りに行く間、本体を膝に置いて再び縁台に座って待った。がらがらと重い金属がぶつかる音が聞こえる。木の軸が付けられたもの、剥き出しの鋼の破片だけのもの、廃材と見分けがつかない、酸化して黒ずんだものもあった。背を向けたままの修理工に顧問の名前を出され、今は何処の高校へ赴任しているのだと尋ねられる。自分が通うところを答えると、ふうん、知らないな、とすげなく言われた。数日前にリペアに訪れた先輩にも同じようなことを言ったのではないかと想像する。そういう業界なのか、県下の高校は古くからの名門校を除いてはどんなに直近の大会成績が良くとも無名校と扱われることが多い。

 見繕った工具を持って戻ってきた壮年の男性は、胸元のワイシャツをつまんで軽く仰いでいる俺をちらと見遣ってから、待機していた本体を自分のところへ引き取る。楽器用の潤滑油の痕で汚れたクロスの上から片手で掴むと、調整管を二本抜き取り俺に渡して寄越した。鋼の軸を当てがって、こつこつと外側から木槌で打っていく。


(続)

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