ep.3 抹茶ラテ、おいしい

雲がめちゃくちゃ早く流れているのがムカつく。

電車で我先にと降りていくおじさんがムカつく。

ペットボトルのフタがうまく閉まらなかったのがムカつく。

何一つとして自分のために回ってくれないことが、とてもムカつく。


この世の失恋ソングが、すべて、恋人にフラれた人の話なのが、死にたいくらいにムカつく。


そんなことを考えながら、スクランブル交差点で信号待ちをしていたら、まだ青になっていないのに渡り始めようとしてしまった。


「お姉さんあぶないっ」


腕を強く引っ張られた。

赤信号で一歩踏み出したとき、あ、間違えた、と思ったと同時に、まあそれでもいいかと思った。だから、知らない人に腕を引っ張られたときはまたムカついた。私は死ぬこともできないのか。ただ、なんだか申し訳ないからとりあえず会釈だけしておいた。


「お姉さんさあ」


腕を引っ張ってきた人が話しかけてきた。さっきは気づかなかったけれど、相手は男性だった。男性に「お姉さん」と呼ばれることほど不快なことはない。イヤホンから流れる音楽の音量を最大限にして、きっと傍からはうつろに見える目で、ムカつくほど早く流れる雲を眺めた。耳から脳へ暴力的に流れ込んでくる音楽が、彼女にフラれた男の歌だなんて少しも気づかずに、空を見上げていた。


「ねえねえ」


あまりにもしつこい。自分でも大げさだとおもうくらい乱暴に、耳からイヤホンを抜いた。


「なんですか?」

「お姉さん、」

「あの、そのお姉さんって呼ぶのやめてもらってもいいですか?」

「あ、ごめんなさい、何て呼んだらいいですか」

「そうだな・・・・君とか」

「君」

「そう」

「じゃあ君さ、今死のうとしてたでしょ?」

「いや、してませんけど」


男の子みたいに呼ばれるのが好きだった。そして、きみ、と呼ばせると、たいていの人はタメ口になるのも知っていた。


「だって僕の手を払って舌打ちしてたよ」

「え?」


無意識だった。完全に無意識だった。


「死にたいとは思ってなかったですけど、まあ死んだらそれでもいいかな、くらいには思ってました」

「そう。そりゃ勝手にしたらいいと思うけどさ、とりあえずドトールいかない?」

「は?」

「いいから、ドトール行こ!」


どうしてドトールにこだわるのかわからなかったし、私がドトールを好きなのが見透かされたようで怖かった。本当のところは、かばんにガチャガチャでゲットしたドトールのキーホルダーがついていたからだった。そもそも、強引にどこかに誘おうとする男性に対して怖いと思うべきだったが、わたしはそのサイコリーディングにびびって、ついて行ってしまった。


「アイスラテのSサイズ、店内で。君は?」

「わたし、、、、じゃあ抹茶ラテ、アイスのいちばん大きいやつ。」

店員は「アイスカフェオレですがよろしいでしょうか?」と訂正してきた。

わたしはそれに無性に腹が立って、レジを離れて席を探しに行った。


ワンフロアの大きなドトールは、あまり人がいなかった。

平日の夜、たしかにこんな時間にカフェに来る人はあまりいない。


「ねえ、君、カフェラテとカフェオレは違う飲み物だって知らないでしょ?」


またサイコリーディングが気持ち悪かった。気持ち悪かったが、またびびってうなずいてしまった。

「何か違うんですか?」

「カフェオレはドリップコーヒー、カフェラテはエスプレッソが入ってるの。ドトールのアイスカフェラテはほんとうはカフェオレだったのに、カフェラテって言ってたんだよね」


そこでピンときた。この人もそうだ。


「働いてました?」

「なんでわかったの?」

「本当はカフェオレなのを知ってるから」

「外から見ててもわかるよ」


この人は、どこまで見えているのだろうか。いったい何が、見えているのだろうか。


ストローの紙の袋を破って、緑の抹茶ラテに差した。その瞬間、無性にのどが渇いて、笑ってしまうくらいごくごくと飲んだ。甘くて、おいしいなと思った。おいしいと思えることは、とても幸せだと思った。


「おいしい?」

「はい、とても」

「そりゃあよかった」

「さっきから、」

「ん?」

「さっきからどうしてわたしが考えてることとかわかるんですか?」

「全部出てるからだよ」

「出てるって、どこから」

「体の全部から」

「どんなふうに?」

「交差点に踏み出したこと。ドトールのドリンクのキーホルダーをつけていること。カフェオレと訂正されて怒っちゃったこと。全部、君が思ってることが出た結果じゃない?わかりやすくていいけど」

「けど?」

なんだかまた、とても腹が立って、ストローを口にくわえながら答えた。


「けど、どうして君が死のうとしてたのかはわからない」

「わかってたまるか」

「まあ、抹茶ラテおいしかったならいいか」


たしかにおいしかった。自分はこんなに傷ついて、惨めな思いをしているのに、おいしいと思うのも悔しかった。この世にはもっといろんなことで悩んでいる人がたくさんいるはずなのに、こんなことで悩んでいる自分も悔しいし、腹立たしいと思った。そうしたら、名前も知らない、わたしのことを「君」と呼ぶ人の前で、なぜか泣いてしまった。

「おいしいんです。腹が立つくらい」

「そりゃあよかった。おいしいのはいいことだ」

「おいしいんですよ。好きな人に、フラれちゃったのに」

「失恋かあ。彼氏?彼女?」

「いえ、どちらでもないです。どちらにもなれませんでした。ちなみにまあ、相手は男性ですけど」

「告白したんだ。すごいじゃん」

「すごいかなあ、二十三にもなって」


はっとした。名前も伝えていない相手に、年齢を言ってしまった。なんだか重大な個人情報を伝えてしまったような気がして、冷や汗が出た。


「それって別に年齢じゃなくない?」


気にしていないようだった。この人の目的はいったい何だったんだろう。頭ではそんなことを考えていたけれど、口は止まらなかった。


「知ってます?この世の失恋ソングって、恋人にフラれた人のためにあるんですよ。今まで気にしてなかったから気づかなかったけど、一回も恋に報われたことのない人が聞くような歌、ないんです」

「あ~たしかになあ。たしかにそうかも」

「いままで何万曲、何百万曲?億?の歌が作られてきたっていうのに、私のための歌が一曲もない気がしちゃったんです。そしたら、雲が風に流されてめちゃくちゃ早く動いていることとか、おじさんが人を押しのけて電車を降りることとか、カフェオレとかカフェラテとか、なんか全部にとても腹が立って、というか、ムカついて、」

「それで死んじゃおうと思ったの?」

「まあ」

「止めないよ。そんなありきたりなことはしないし、言わない」

「え?」

「だって止めても死ぬ人は死ぬし。僕は君のこと全然知らないから止める義理もないしね」


正論だった。自分で死ぬ権利を侵害されていい理由なんて、この世にない。でもどこか、死なないでといってほしかった、気も、する。


「ただ、ここで知り合って、おごっちゃった時点で、知り合いではあるから、もし死んでしまったら、僕は悲しい。悲しいだけだけど」

「悲しませちゃいけない?」

「いいや。僕が勝手に悲しいだけ」

「そっか。わかりました。ありがとう」


気づいたら、抹茶ラテはなくなっていて、氷が溶けはじめていた。


氷からとけだした、ほんのり抹茶の味がついた水をすすっていたら、なにもかも、どうでもよくなった。


「じゃあ、ホテル行きませんか?」

「は?」

「ホテル。そこの坂あがったところにいっぱいあるでしょ。今日平日だし、空いてるんじゃないですか」

「君さあ、男と寝たことないでしょ?」

「女ともないですけど」

「やめておいたほうがいい」

「どうして?」

「君は、セックスしたら本当に死んでしまうと思う。それから、死ぬならセックスしてからのほうがいい」

「じゃあ今日して、今日死にます」

「僕じゃなくて。君が本当に好きな人と、」

「急にきれいごと言うじゃないですか」

「きれいごとだと思われてもいい。ぜんぜんいい。でも、生きててよかったと思える夜がきっとあるから、それを知ってからでも遅くない」

「よく言いますよね。生きててよかったと思えることがきっとあるとかなんとか。これから起こるいいことに対する期待値と、死んだら必ず終わりが訪れるという確実性のバランスが悪すぎるんですよ。あたしは、未来に期待できるほどおめでたくないです。」

「本当に勝手にしたらいいと思うけど、生きててよかったと思える夜は、絶対にあるから。」

「うるさいなあ、もういいです。ごちそうさまでした」

「まって」

「なに」

「死なないでよ」

「・・・・うるさい」


あの人の目的はいったいなんだったんだろうか。

あの人はどうしてわたしの腕を引っ張ったのだろうか。

どうして、あんなこというのだろうか。

頭の中で「どうして」があふれて、何も考えつかなくなったころ、わたしは家の前に立っていた。そして、お腹がすいたことに気がついた。


(noteより転載 オリジナル:2022年1月11日投稿)

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