短編集 shibuya.
やまこし
ep.1クイーン・オブ・サマー
十月。だんだん寒くなってきて、夜が早くやってくるようになった気がするころ。二人の服装がモコモコとしてくるころ。今年も、遺漏なく冬がやってくるらしい。その気配を感じると、僕は寂しくなるし、デートに行く足も重くなる。
「あのね、冬眠しようと思うの」
ほらきた。
「いつから?」
「んー、明日くらいかな」
「わかった」
僕はいつも、そう言うことしかできない。彼女と付き合い始めてから四回目の冬が来る。
僕らが出会ったのは、三年前の夏、道玄坂にあるカフェだった。僕はそこで仕事をしていて、彼女は友達と遊んでいた。彼女がこぼしてしまったドリンクが、僕の服に少しだけかかった。ドリンクをかけられた僕は何も気にしなかったけれど、彼女はとても気にしてクリーニング代を出すと言って聞かなかった。
「普段現金を持ち歩かないんだ。ペイペイで五百円だけちょうだい。」
クリーニング代には到底及ばないけれど、ペイペイで送金するためには電話番号を交換する必要がある。これは僕が合コンで女の子の電話番号をごっそりもらう常套手段だった。個人情報をいただくので、お金はあまりもらわないようにしよう、と思った。彼女は僕の目をじっと見て、全てを見透かしたように
「電話番号がほしいなら、そうと言ってください。」
と言った。そして僕に五千円札を握らせて、ラインのQRコードを見せてきた。
僕は怖かった。普段から女性関係はゆるくて、いろんな人に迷惑をかけてきた過去まで見られた気がした。それなのに連絡先を交換してきたのはなぜだろう。瞬時にいろいろなことを計算したけれど、まあ面白いかな、と結局得意の打算が勝ってしまった。
次に会うまでは早かった。七年間土の中で耐えてきたセミのように、彼女は夏の間大騒ぎした。たくさん会ったし、いろいろなところに行った。最初のデートで彼女は大胆にもホテルに誘ってきた。僕はびっくりして、少し古めかしいことを言ってしまった。
「女性がホテルに誘うなんて、珍しいね」
「女性からホテルに誘っちゃいけない法律なんてあるの?」
「そりゃあないけど」
「ならいいじゃない。夏しかできないから」
「夏しかできない?」
「そう。わたし長生きするセミみたいなもんなのよ」
彼女はケタケタ笑いながらラブホテルの入り口をくぐっていった。
その言葉がずっと引っかかっていた。
「夏しかできないから」
今までいろいろな事情を抱えた人たちと寝てきた。女の子だけじゃない。ナンパをするのは女の子だけだけれど、声をかけてきた男性と寝たこともある。しかし、「夏しかできない」とはなんなのか。
心にちょっとした引っ掛かりを残したまま、僕たちはデートを重ねた。まるで僕と会うのは性的な目的なのではないのか、と思うくらい、僕らは毎回セックスをした。少し懐疑的な気持ちになった頃には、季節は夏から秋に変わっていた。
ある日、彼女は神妙な面持ちで話を切り出した。
「あのね、付き合い始める前に本当は言っておかなきゃいけなかったんだけど」
「何?」
怖かった。病気か?なんだ?
「わたし、明日から冬眠するから」
数ヶ月前に聞いた「夏しかできない」という言葉と、彼女が今発した言葉がつながった。目の前で火花が飛び散った気分だった。
「本当に?」
「うん、本当。明日くらいから、まああったかくなるまで、お家からほとんど出ない生活になるの。仕事も家でできるものに切り替えるんだ」
大学生の時、冬季性のうつ病に罹ってから、どうしても冬が苦手だという。冬は日照時間が少なく、日光に浴びることによって出るホルモンが不足することにより、うつを発症する人が多いらしい。彼女の場合、寝ること、食べること、そして性行為をすることの三つの欲求のゲージが壊れてしまうのだという。
「だからね、会ってもあなたを傷つけるだけになってしまう。だから冬の間は会えないんだ。ごめんね。その代わり・・・・」
と、見せてきたスマホの画面は、デリヘルのホームページだった。
「いや、何これ?」
「あなたが遊び歩いているのは、最初に会った時から気づいてたんだ。突然会えなくなるって言ったら、あなた変質者にでもなっちゃうかな、と思って。ここね、わたしの名前で割引になるから。あ、ペイペイで補助金送金しようか?」
舐められたもんだと思った。
彼女が社会人一年目の冬、いけるかと思って冬も夏と変わらず働いてみたらやはりダメで、ゲージが壊れた結果、仕事をやめてデリヘルを始めたらしい。しかし、食べていないし寝てもいないから体力もなく、長く続かなかった。ただ、運がいいことに、デリヘルの先輩で心理学などを学んだ人がいて、その人にそういう人でも長く続けられそうな仕事を紹介してもらって今に至るそうだ。この割引制度も、その先輩が作ってくれた制度らしい。
「君は、嫌じゃないの?」
「何が?」
「君が冬眠している間、僕が知らない人と寝ているのが」
「嫌じゃないよ。だって仕方ないじゃない。それがわたしが持って生まれてきた特性だから、それと付き合うしかないの」
「僕は君とセックスするために付き合っているわけじゃない。だからこんなものいらないよ」
「そう?本当に?それは結構、悲しいな」
「どうして?」
「わたしにとって、あなたとのセックスは、まあ、公約数のうちのひとつみたいなものだと思っていたから。ここの女の子たちと寝ても、置き換わりはしないだろうけど、わたしの体が恋しいという証明に、冬の間もたくさんセックスしてほしい」
意味がわからなかった。混乱した。冬の間も待っていてほしい、とか、わたしはただの性欲処理機じゃない!とかそういう言葉を期待していたのに、彼女が持ってきた理論はパッと見たところめちゃくちゃだった。しかし、冷静になればなるほど、ちょっとわかってくる気もした。一方で、自分が動けない間も浮気をしていい、と言われていることに浮ついているだけのような気もした。
僕の頭は混乱したまま、彼女は冬眠してしまった。彼女との初めての冬。僕は一度もデリヘルを利用しなかった。渋谷で偶然ナンパされた十九歳の男の子と一度だけセックスをした。金曜でどこも混んでいる上に、三軒も断られた。こういう生活をしているくせに、いまだに男二人で入れるホテルと入れないホテルを覚えることができない。そんなことは覚えられないくせに、最後に会った彼女のことはやたらと覚えていて、なんだか胸が苦しかった。
冬の間、僕は愛とか性とかを一生懸命考えてしまった。中二病じゃん、と思いながらも、それはやめられなかった。
クリスマスはテレビ通話をつないで、ささやかに祝った。確かに彼女は痩せていて、でも薄着をしていて、あまり健康そうではなかった。ほしいものを聞いたら「カイロ五箱」というので、早速アマゾンを経由して送った。冬眠中の彼女の姿を見たのは、クリスマスの一回だけだった。
数日後、カイロのお礼に、と五本のアダルトビデオが送られてきた。全然僕の趣味じゃなかったので、未開封のまま、いまだに本棚に納めてある。
彼女のいない、灰色の数ヶ月がすぎた。彼女にすごく会いたいとか、どうしても女の子と遊びたい、とかそういうのは一切なかったが、なんだか春が待ち遠しかった。
その年は四月までなんだか寒くて、彼女はなかなか目覚めなかった。
連絡があったのは五月一日。世間がゴールデンウィークモードになった頃だった。
「目覚めました。明日、いつものカフェで会えますか?」
心が躍った。付き合っている人に対して、こんなふうに思ったのは初めてだった。いつも、恋人のことを考えるときは、恋人の裸を考えていた。でも、彼女は違った。彼女に会いたい、と思った。
数ヶ月ぶりに姿を見たが、前の年と大して変わらないように見えた。
「久しぶり」
「久しぶりだね。」
「元気だった?」
「冬は元気じゃないから冬眠してるんでしょ」
「そうだった。」
「そういうあなたは、女遊びをしなかったじゃない」
「やっぱり、君のことを考えてしまって、そういうことはできなかった」
「意外と真面目な倫理の下で生きてるのね。ちょっと嬉しいかな」
「そう?」
「うん。前の彼はね、嬉々としてデリヘル使ってた。この子と寝たとか、あの子はどうだったとか、いちいち報告してくれて。それはそれで嬉しかったけど、ちょっと複雑だった」
僕は、僕だけが複雑な環境に置かれているのだと思っていた。僕は彼女が好きだし、彼女とのセックスも好きだし、でも平気で男とは寝るし、性欲だってたまるし、でも彼女は動けないし、僕には何もできないし、でも彼女のことは好きだし、でもセックスはしたかった。とても複雑だと思った。こんな歳になってから、自分の様々な欲求と戦うことになるなんて、思ってもみなかった。
でも、それはただ被害者ヅラをしているだけだった。
彼女も彼女なりに、複雑の中にいた。
それを聞いて、その時初めて僕についてちゃんと話した。
「知らないと思うけど、僕は冬の間一度だけ、男性と寝たよ」
「そう」
「驚かないの?」
「いや、別に。渋谷は同性で入れるところ少ないでしょう」
面食らった。複雑だと思っていたのは僕だけだった。僕が心から愛していた人は、何もかもを凌駕する愛を持っている人だと知った。
「ごめんね」
「どのような項目に対して?」
「うーん・・・・デリヘルの割引を使わなかったことに対して?」
「そうね」
僕は「付き合う」という概念とそれに伴う文化から自由でいると思っていた。しかし、彼女が提示してきたのは、僕が考えていたものを超越していた。
その年の夏も、セミが大暴れするように、彼女ははしゃぎまくった。会うたびセックスをしたし、いろいろな遊びをした。
冬眠宣告のデートがまたやってきた。僕は去年断ったデリヘルのホームページをもう一度見せてもらった。
「おすすめの子はいる?」
「この、ねねちゃんって子。ものすごくかわいいし、礼儀正しいし、わたしと同い年なの。入店も同じような時期で。だから、よかったら指名してほしい」
彼女が冬眠してから二週間後、僕はねねちゃんとホテルにいた。デリヘル嬢は、基本的にこちらの事情は何も聞かない。ただ、ねねちゃんは僕に興味津々で、どうして許された浮気をしているのか、ということを何度も聞いてきた。
「どうして、も何も、ここに“僕たち”という関係があるだけだから」
僕は本気でそう思っていた。僕たち、という関係性が、他の人たちの尺度で図られることが何よりも嫌だった。さすがのねねちゃんも引き下がった。あまりにもセンチメンタルな回答なのはわかっていたが、それ以外に言葉が見つからなかった。僕らの中の、最大公約数がこれなのだ。
それから何度か夏と冬がきた。はしゃぐ夏と、姿を見ない冬を繰り返した。それが僕の体にも、心にも馴染んだ。何も嫌ではなくなった。今年も「冬眠宣告」を受けて、ちゃんと受け入れられている自分がいる。
しかし、今年の彼女は、少し違った。
「それでね。」
「うん」
「冬眠してる時、あなたがそばにいたらどうなるか、少し気になった」
「ん?」
「誰かがご飯を作ってくれたらちゃんと食べるのかな、とか。誰かが隣にいてくれたら、夜に怯えなくて済むのかな、とか。だから、」
「だから?」
「一緒に住んでもらえませんか?もちろん、嫌になったらすぐ出て行っていいから」
「珍しいね、女性の方から同棲に誘ってくるの」
「女性が誘っちゃいけない法律なんてあるの?」
彼女が主役の季節は、もうすぐ終わる。
でも、またすぐに主役の座を取り返しにくる。
夏が来なかったことがないように。冬が終わらなかったことがないように。
(noteより転載 オリジナル:2022年1月11日)
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