ep.6 明けない夜は長いだけ

ああ、生理がきた。生理になったな、と思う瞬間が、この世で一番嫌いだ。今日来るのはわかっていたのだけれど、心を整えきれないまま今月の生理初日を迎えてしまった。


「ちょっとトイレ」

「おう。」


居酒屋のトイレの床はなぜかやたらとベタベタしている。どうしてなんだろう。お酒をこぼした上を歩いた靴でトイレに入るからだろうか。ベタベタするのは気に食わないけれど、「居酒屋のトイレ」という存在は嫌いじゃない。あんまり男女で分かれて設置されていないからだ。こういう時でも迷うことがないのはいい。


低用量ピルを服用しているから、今日生理が来ることはわかっていた。でもどうしてもアオイに会いたかった。このままだと潰れてしまうと思った。この後の時間をどうしようかと考えながら、ナプキンを当てる。


「あ、レバーの塩頼んじゃった、いつも塩だったよな?」

「うん、塩がいい、ありがとう。」

「どした?具合悪い?」

「あ、うん、ごめん、生理になっちゃった。」

「そっか、じゃあなおさらレバーだな。」


アオイと会うようになってから、もう3年くらい経つ。この人のすごいところは、3年間全然変わらない、というところだ。自分は何もかも変わりまくっているというのに。


注文した焼き鳥を全て平らげて、タッチパネルに表示された割り勘の金額を支払う。百円単位でざっくりと。でも飲んだ酒の量に関係なく、割り勘する。これも変わらないルールだ。


「どうするよ、この後。まだ電車あるけど?」

「嫌じゃなければホテル行きたいな、ごめん」

「なんで謝るんだ、いいよ、行こう。」


ホテルに向かう道すがら、アオイがつぶやいた。

「かわいそうに、生理を迎え撃つ気分じゃなかっただろうに。」

「よくわかったね。」

「わかるよ、その無骨なピアスしてる時は大体そういう気分じゃない。」

「正解。全然ダメ。女性ホルモン足りてないよ。」

「推しの主演映画のビデオとか借りていく?」

「大丈夫、あんたのペニスでどうにかする。」

「困ったなあ・・・」

「さして困ってないくせに」


自分の体に納得がいかないというか、なんか違うな、と最初に思ったのがいつだったかは、もう忘れた。ランドセルは暗い色を意図的に選んだり、わざと男の子と遊ぼうとしたりした。そのくせプリクラとかシールとか交換日記とかには一通り手を出した。生理が来るようになったら、生理のたびにお腹が痛くなるのが痛くなるのだけが不満だった。やたらと機嫌が悪かったのが生理のせいだと気づいたのは、ずっと後だった。


進学するたびに変化する制服、会話、人間関係に揉まれながら「なんか違う」という思いだけがずっと強くなっていった。なんか違う、と思いながら、いろいろな服や髪型や、言葉遣いや、趣味を試してみた。そのうち、納得するものを探すことに疲れてしまった。タンスはいろいろなテイストの服や、アクセサリーやグッズで溢れかえった。まあ、それもそれで悪くない、と思った。


二つだけ確かなことがわかった。

自分は女性の体を持っているということ。

そして、女性器と男性器の接合に快感を感じるということ。

この快感だけが、自分を自分に繋ぎ止めるための鎖だった。


そういうことの全部を「わかった」とも言わずただ認めてくれている存在がアオイだった。


アオイには彼女がいる。もしかしたら彼氏もいるかもしれない。彼女は一度だけ紹介された。自分とは彼氏や彼女という契約こそ結んでいないが、定期的にデートをしたり、ご飯を食べたり、寝たりしている。この人は彼女です、と紹介するには憚られるが、友達とは言いづらいかな、とアオイは彼女に自分を紹介した。彼女は、そうなのね、と上品に笑った。最初はとても戸惑った。アオイは、「俺たちがよけりゃいいんだよ」と歯を見せて笑った。その顔はとてもかわいかった。彼はそういう人だ。


「ちょっと、この辺一周してからがいい」

「いいよ、猥談でもしてテンション上げる?」

「違う、この時期の渋谷が好きなの。」

「ほう、どんなところが?」

「なんか、泥みたいなところ。」

「どこが泥なんだよ。」

「みんな目の前のことに必死すぎて、全然豊かじゃないところ。」

「はあ・・・・」

「ドロドロで、ネチョネチョしてる。人生みたい。終わらない沼って感じ。」

「夜の渋谷は危険だから、早くホテルに入った方がいい」

「男といるから大丈夫だよ」

「違う、渋谷の夜は、明けない感じがするんだ。」

「やっぱり人生みたいだね」

「人生が積み重なってできた街には違いないからな。」


缶チューハイを一本開けながら、渋谷の街をうろついた。そしていつものホテルに入った。


シャワーを浴びて、もう一度服を着た。ベッドに寝転んでスマホをみていると、アオイもシャワーを浴びて、パンツ一丁で出てきた。


「女性ホルモンはでたか?」

「でない、全然。」

「そうか、そんなこと言ってると腹痛くなるぞ」

「痛いけど酒飲んじゃったから薬飲みたくないんだよ・・・」

「全部わかってたくせに飲みやがって・・・・」

「もうほんとわかんないんだよ、どうしたらいいのか」


実際、わからなかった。

毎日のように暴走する、自分の中にある男とか女とかという概念。そんなことはどうでもいいと思う理性。確かにある欲望と、自分を確かめるために欲しい快感。それは自分を自分に繋ぎ止めてくれるけれど、同時に女性という記号の中にも閉じ込める。全部の波に飲み込まれそうになる。


「それって、わからないといけないのかな?」

「え?」

「わかんないままで、わかんないものボックスみたいなとこに入れて置けないの?」

「は?なにそれ」

「ほら、片付けするときは『いらない』『いる』『保留』に分けるっていうじゃん。そうやって、一旦『わかんない』の箱に入れとけよ」

「うーん・・・・」

「まあいいや、俺はそうやっていろんなことをやり過ごしてる。」


アオイは優しい目で、私の目をのぞき込んできた。


「キスしてもいい?」

「いいよ。」


アオイの言う「無骨なピアス」を外して、一枚一枚服を脱いだ。

テキトーに選んできてしまった下着を憎んだ。


「そういう時、下着もテキトーになるんだな。」


鼻で笑う時にも、なぜか愛を感じてしまう。そこに評価はなく、ただ事実だけを述べるその姿勢が好きだった。


そうか、自分は、アオイのことが好きなのか?


「人生は夜だよ。明けるという保証のない夜。」

「なあ、明けない夜はないって、出典知ってるか?」


なにをするでもなく、手を繋いで、ほとんど全裸でベッドに並んで、アオイはふと問うてきた。


「え、知らない、哲学者とか?」

「シェイクスピアだよ。The night is long that never finds the day

 マクベスだ。」

「明日を見つけられない夜は長い・・・・」

「夜が明けないことはないなんて、そんな無責任なことは言ってないんだ。」


明日を見つけられない夜は長い


それはただの事実だった。まるで、アオイのようだった。

励まさない。保証もしない。責任も持たない。理解しきろうともしない。そこにあるものを、そこにあるものとして認める。


自分はここにいて、体があって、今はただ気持ちが良くて、ちょっとお腹が痛くて、広い意味でアオイのことが好きで、夜は長くて、泥は気持ちが悪くて、それで良いと思った。


「明けない夜は・・・・長いだけ・・・・」

「そう。ただ長いだけ。長いだけでも十分危ないけどね。」

「長いんだ・・・・」

「でも、渋谷は夜の方がいい。だから夜は長い方が良くない?」

「そうかも・・・・」


空いている方の手で、少しだけカーテンをめくってみた。

空が白みはじめていた。


「ねえ、朝だ」


アオイは、眠っていた。

セックスしないのにここまで連れてきてしまって悪いことをしたな、と思いかけて、やめた。アオイがそこで眠っているという事実だけで良いと思った。


聞こえるはずのない、街の音が聞こえはじめた気がした。


街はやかましい。

うるさいなあ、放っておいてくれよ。


そう思って手を強く握ってみた。

寝ているはずのアオイが、手を握り返してきた。


とりあえず今は、眠ることにした。


(noteより転載 オリジナル:2022年9月1日投稿)

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