色即是空

猫海士ゲル

わたくしの親友のことを皆さまにお話します

あの日、白川しらかわ家で何が起こったのか。真実を知っている人は少のう御座います。

わたくしも、あの現場に居合わせていなければ信じられなかったでしょう。


色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき

絣模様の着物に海老茶色の女袴。革製の西洋ブーツ。

帝都女学院の制服姿で凜々しく立つみっちゃん……塚本美津江さんは、一本の万年筆を取り出すと漆黒の中空に舞い踊る真っ白い原稿用紙に書き綴ります。


彼女はわたくしの級友であり命の恩人であります。

彼女の持つ万年筆は『如来姫にょらいひ』という名でこの世に三本しか存在しないペンに御座います。

その姿を初めて見たときは神々しくも恐ろしい雰囲気に飲まれました。


──我とちぎるか!


魑魅魍魎が荒れ狂う混沌に倒れたわたくしを救うべく、美津江さんは如来姫と契約しました。その日から彼女は陰陽師おんみょうじとして悪霊と戦う運命を背負ったので御座います。


白川家からの依頼もそんな彼女の霊力に縋るものでした。


「苦しければそれを捨てよ、悲しければそれも捨てよ。俗界に執着するな。一切のカルマを捨て楽になれば、やがては銀河の一滴として悠久の刻を謳歌出来ようぞ。それこそが輪廻転生りんねてんせいの真実なり!」


大帝が崩御され年号が大正と変わった日本。

海外から押し寄せる西洋文明は鹿鳴館という象徴とともに人々の暮らしも変えました。


もっとも、わたくしが物心ついた頃には伯爵家の令嬢として暮らしておりました。

周囲を大人たちに囲まれ世間知らずに育ってきたのであります。

そこへ穴をあけたのは同じ華族でありながらも奔放に振る舞う美津江さんでした。


彼女の家は男爵家であり、また高級軍人の令嬢でもありました。

十四歳という若年でありながら、こっそりミルクホールで談笑を楽しむ生活も知りました。


そんなある日のこと、河原でモノノケに襲われてしまったのです。

わたくしを救うべく美津江さんは、三千大千世界さんぜんだいせんせかいより現れた如来姫と契りモノノケを成仏させました。


それで益々、みっちゃんのファンになったのであります。

むろんその話は皆に隠していたのですが不思議なもので、知る人ぞ知る、天才陰陽師の噂は人づてに浸透していきました。


白川家もそんな彼女の噂を聞きつけ、縋る思いで依頼をしてきたのでありましょう。

市松屋という団子屋で美津江さんを待っていたのは幼い女の子でした。黒目は大きく、おかっぱで、下女げじょとは思えない絹の着物を羽織っていました。


「ご主人様に頂いた一張羅です」


わたくしが「お優しいご主人様ですね」と関心したのに対して、美津江さんは厳しい目を向けました。思えばあの瞬間、事の真相を把握していたのかもしれません。

その洞察力が如来姫によるものなのか、軍人の家系に生まれた者が本能的に持っているものなのかは、わたくしにはわかりません。

けれど美津江さんの感は正しかったのです。


白川の主人は御年八十になります。痩せた躰ながら目だけはギョロリ大きく、美津江さんとわたくし双方を嘗め回すように視線を這わせてきました。


わたくしが嫌悪感に身を凝らせていると美津江さんが強い口調で叱責しました。

「こちらは伊集院佐智子嬢ですわよ、ご主人。そのような下卑た態度はおやめなさい」

怖いもの知らずとは美津江さんのような人を言うのでしょう。


小娘に𠮟られた主人は顔を真っ赤にして口元を震わせます。

けれど「……いじゅういん?」とわたくしの苗字をあらためて咀嚼そしゃくするとハッ、と真顔になりました。


「伯爵家の令嬢です。白川の名を傷つけたくはないでしょう」

美津江さんの追い込みに主人は頭をさげました。


「これはご無礼致した。わしは白川家当主の伊左衛門いざえもんです」

先程までの態度と打って変わり紳士に豹変するご主人。美津江さんも作り笑顔で「お話を伺いましょう」と除霊の話に移りました。


座敷に居座る黒い影。

美津江さんが如来姫を手にすると、万年筆であるはずのそれが「ククッ」と嗤う。しっとりした大人の声。

「我は三千大千世界に漂う意志。我は人の手により創られし傀儡くぐつ


如来姫の口上に座敷の影が揺らぎます。そして、突如として襲い掛かってきました。


「お嬢、来るよ」


「わかっているわ、姫」


ふたりの意志はぴったりでした。少し嫉妬するくらいに。


「我が主よ。冥府魔道にむけて書け。願いを鬼神に、想いは魍魎に、そのための筆なら今、ここにある」


──くうくうなり。


この世一切の森羅万象はくうなり。執着する自我は愚かなり。見えるモノはいろなり、聞こえるモノは幻なり。人は人でなく、魚は魚でなく、鳥は鳥でない。こだわりを捨て自由になれ。さすれば銀河の滴の一滴となりえし。


天からバラバラと音をたてて降り注ぐのは無数の原稿用紙。深淵に染まる床を白く染め上げながらモノノケを包み込んでいきます。

美津江さんは一心不乱に言葉を綴りました。もはやモノノケに勝ち目はない……そう安堵した次の瞬間、影は原稿用紙を浸食し、原稿用紙ごと美津江さんへ向けて雪崩のごとく襲い掛かったのです。


「お嬢、離れろ!」

初めてみた如来姫の焦り。


美津江さんは自ら生み出した原稿用紙の束に両脚を取られそのまま倒れ込みました。


「みっちゃんッ!」

わたしは救いだそうと駆け出しましたが如来姫から止められます。


「こっちへ来るんじゃないッ!」


「でも、みっちゃんが」


──この世はすべて色なりッ


美津江さんの右手は塞がっていません。文字は書けるのです。


「見えるものは全ていろ。目に映るものは全ていろ。実体を伴うように感じるのは錯覚であり実体は存在しない。すべては幻なり」

ブッダが残したとされる『色即是空しきそくぜくう』の解説を書き連ねる美津江さん。


「あなたの悲しみ、苦しみ、わかっています。でもね、それは実体無きものへの執着に他ならない。そんな有りもしない色への執着はお捨てなさい」


影へ優しく語りかけます。

一粒の涙が渾然一体となった原稿用紙へ落ちる。途端、光が射し込みました。

影が姿を消す──美津江さんは如来姫を手に般若心境の一説を原稿用紙に綴ります。


「さようなら」

誰かが……知らない声は女性でした。

透き通るような美しい声。

少し寂しさを湛えた声。


静寂のあと「どんっ」という音とともに座敷ごと火柱があがりました。


「みっちゃん!」

驚いて声をあげる。炎を背後に帝都女学院の制服に身を包む陰陽師は驚愕するわたくしを抱きしめると颯爽と部屋を後にしたのでした。


「なんてことをしてくれた!」

燃えかすとなった座敷で白川伊左衛門は激高しておりました。それは当然でしょう。座敷はもはや使い物にならず、修繕するのに沢山のお金が必要になりそうです。


けれど美津江さんは悪びれる様子もなく、堂々と当主の眼前に立つや「ぱーんっ!」と頬を叩いたのです。


「な、なにを!?」


「今回の騒動。ご当主は胸に手をあててお考えなさい」


「き、きさま。いくら華族かぞく令嬢とはいえ、こちらも政治家の一人二人知り合いにいる。ここまでの侮辱は許さんぞ」


「ならば、ご自分がやってきた女への侮辱──女を玩具のごとく使い捨てる趣味も、世間へ広める覚悟がおありなのですね」

美津江さんの説教に白川家の当主はそのまま項垂れ、言い返すことはしなくなりました。


「どういうことですの?」

帰り道に寄ったミルクホールで美津江さんへ尋ねました。

「すべて色ぼけジジイの悪行が原因よ」


その三日後、白川家の当主は突然死しました。

死因は老衰……と、いうことになっているそうです。

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