第5話 事実にしちゃえば?

 電車に揺られて帰路に着く。時刻は22時を回っていた。今日もタヌキ野郎のせいで残業だと心の中で毒を吐きながら、千翔は人混みに押されるように電車を降りた。

 夏を予感させる蒸し暑さにスーツの襟を弛めてパタパタと風を送る。焼け石に水な気もするが、何もしないよりは幾分かマシに思える。

 千翔の職場はオフィスカジュアルを推奨し服装にはある程度の自由を与えられているが、取材となれば話は変わってくる。

 特に今日の取材相手はテレビでもよく見かける政治家だったから、先輩の付き添いだけとは言え、気を抜いた身なりで相手に不快感を与えては自分の評価だけでなく会社の沽券に関わってしまう。

 そんな緊張感から解放され、ややふらついた足取りで薄暗い路地を抜けてコンビニの前を通り、やっとこさアパートまでたどり着いた。

 と、そこである違和感を抱いた。デジャブとでも言うべきか。


(何で電気が点いてんだ?)


 あの時と同じ疑問を浮かべる。つまりはその答えも同じということだ。つい10日ほど前にも同じ光景を見た記憶が蘇った。

 同じ光景。同じ靴。同じ笑い声。導かれる答えはひとつたった。

 今度はなんの躊躇もなく部屋へと上がり込む。


「音羽」

「わお、びっくりした。おかえり、先輩」

「やっぱりそうは見えないけどな。ただいま」


 表情ひとつ崩さず驚きを口にする音羽に肩を竦め、寝室に荷物を置きスーツをハンガーに吊るしてからリビングに戻る。

 音羽は缶ビール片手にお笑い番組を見ながらけらけらと笑っていた。背の低いテーブルにはおつまみであろう駄菓子が散乱している。


「お前、お笑い番組とか見るんだな」

「見るよ、結構。ユーモアがある私にピッタリでしょ?」

「文脈から読み取れ。意外なんだよ」


 ユーモアという凡そ音羽に似つかわしくない言葉を鼻で笑い飛ばすと、「えー」と不満げな声を漏らす。

 決して話し相手として面白くないと言っているわけではないが、ユーモアのセンスがあるかと問われると疑問に思ってしまう。時々突拍子もないことを言ったり、無表情でおかしな行動をすることもあり、電波系と呼ぶ方が正しい気もしている。


 千翔がそんな失礼なことを考えているとは露知らず、気づけば音羽はテレビに視線を戻していた。どっと笑い声が聞こえると同時に音羽があははっと声を漏らす。

 仕事柄テレビはよく見る方だが、千翔が好むのはクイズ番組やドキュメンタリー等知識を吸収できるものが多い。お笑いやバラエティー番組が流れているのは稀だ。

 物珍しい光景を横目にキッチンへと足を運び冷蔵庫を開けた。こんなこともあろうかとビールの用意は万全だ。

 銀色のラベルの缶をひとつ手に取ってその場でプルタブを引く。プシュッと小気味よい音を堪能して、ごくりと一口。喉を通る炭酸と独特な喉越しに疲れも流し込んでぷはっと息を吐く。


「え、もしかして1人で飲んでるの? 先輩と乾杯したかったのに」


 ひょこっと顔を出した音羽が缶ビール片手に苦言を呈する。一区切りがついたのか、漫才の笑いを余韻に司会者が面白おかしく感想を述べていた。

 乾杯も何も先に飲んでるだろ、と言いたかったが、正論を口にしたとて音羽が納得するはずもない。

 それに、乾杯したかったと素直に言ってくれる音羽の気持ちは嬉しい。どうやってこの部屋に入ったのかはやはり疑問ではあるが、彼女なりに待っていてくれたのだろう。

 嬉しいような恥ずかしいような気持ちを誤魔化すように千翔は鼻を鳴らす。


「なんだ、掛けてるつもりか?」

「え、かける?」

「え? ほら、先輩と乾杯って……」


 ぽけーっとしている音羽にそう説明すると、彼女は少し考えた後に「あ」と間の抜けた声を漏らす。


「ごめん、偶然。そんなつもりなかった。言われてみたらそうかも」

「いやもういいよ。なんかすまん」


 話を合わせてみようとしてもこれだ。前回はしょうもないダジャレで喜んでいたから今回も同じかと思いきや千翔の早とちり。本当に音羽との会話は苦労する。

 どうにかこの微妙な空気を払拭しようと、千翔は頭を搔いて手元のビールに目をやった。


「とりあえず乾杯するか」



 とても真剣な目で、時折へにゃりと目を細めながらテレビに釘付けになっている音羽の横顔を肴にビールを流し込む。

 可愛い女性の隣で呷る酒。字面は完璧だが、如何せん相手はあの音羽だ。


(ほんと、黙ってりゃ可愛いんだけどな)


 男性としての欲望を一切抱かないのは何故だろうか。不思議なこともあるものだ。

 そんな考え事をしていると、音羽が視線に気付いた。特に嫌がる様子もなく、こてんと首を傾げる。可愛い……んだけどなぁ。


「どうしたの、先輩? そんなに熱い眼差し送ってきちゃって」

「冷めた眼差しな」

「えー。私に見蕩れてる目だったよ。野獣の眼光だった。襲われちゃうかと思った」


 前回は「心の準備が〜」とか女の子みたいなことを言っていたくせに、そう言う音羽は全く怯える様子もない。それどころか胸元を隠して「先輩のえっち!」などと戯言を吐いている。

 言われのない冤罪に頭を抱えて千翔はため息をついた。


「襲わねえよ。つか、お前何でここに居るんだよ」


 長らく抱いていた疑問をようやく口にする。アホなことを言う音羽を咎めるにはちょうどいいタイミングだと思った。

 が、聞き方が悪かったらしく音羽は口を尖らせる。


「え、酷くない? 先輩が来ていいって言ったのに」

「どうやってこの部屋に入ったのかって聞いてんだ」


 そう補足すると音羽は千翔の意図を理解したらしく「そういうことね」と手を合わせた。


「先輩の妻って言ったら入れてくれた。大家さんが」

「色々と言いたいことがあるんだが」


 疑問を解消したはずが更なる問題がどっと押し寄せる。どこから捌けばいいんだとさらに頭を悩ませる。


「大家さんには後で不審者を勝手に入れるなって言うとして」

「不審じゃないでしょ。こんなに可愛いんだから」

「自己肯定感青天井かよ。不審かどうかと顔は関係ないんだよな」

「可愛いってところは否定はしないんだ?」

「……」


 否定しにくい音羽の問いに無言で返す。沈黙は肯定と同義ではあるが、面と向かって頷くのも癪だ。

 まあそこはいい──いやよくはないけどその前の部分に比べたら些事だとひとまず次の問題へ。


「それより、妻ってなんだ妻って。そんな事実はどこにもない」

「え、でも大家さん喜んでたよ。先輩はいつも死んだ顔してるけど幸せになれて良かったって」

「ぬか喜びさせるなよ。本当のこと言ったら大家さん悲しむだろ」

「言わなきゃバレないよ」

「何で言わない選択肢があると思ってんだ?」


 どの道大家とは一度話す必要がありそうだ。誤解を解くこともそうだが、死んだ顔をしていると言ったことも撤回させねばならない。

 思っていた以上に面倒なことになっていた現実を直視して、千翔は何度目かわからないため息を漏らした。


「大丈夫? 先輩、顔色悪いよ」

「誰のせいだと思ってんだ」

「妖怪のせいなのね、そうなのね」

「まあ妖怪みたいなもんか」


 いつの間にか部屋に住み着いた座敷わらしだと思えば可愛いものだ。こちらは幸運どころか不幸をもたらす分余程タチが悪いが。


「人を妖怪呼ばわりは酷くない?」

「自覚はあるんだな」

「悪いことしたかもとは思ってる」


 音羽はバツが悪そうに眉尻を下げると「ごめんね?」と付け足す。こうして素直に反省されると責めている自分が悪い気さえしてくるのだからさらにタチが悪い。

 音羽に悪気がないことは重々承知している。彼女が千翔を頼ることに思うところがないこともない。


「別に怒ってない。ただ、これ以上他の人は巻き込まないでくれ。後始末が大変になる」

「もういっそ結婚して事実にしちゃえば? そしたら嘘じゃなくなるよ」

「冗談だろ。結婚相手くらいよく考えろよ」


 千翔は軽く流してキッチンを後にする。残された音羽が悲しげに目を細めているとも知らずに。

 寝室のタンスを漁り目的のものを見つけた頃には、音羽はいつものなんとも言えない顔でビールに口をつけていた。


「ほら、これ貸してやるよ」


 それを放り投げると、音羽は慌ててキャッチする。突然のことにビールが少しこぼれ、床にぽたぽたと雫が落ちる。


「ちょっと、危ないよ。ビールこぼしちゃった」

「あ、悪い。タオル出すわ」


 千翔が再び寝室に戻っている間に音羽は手元に収まったそれを確認する。

 それは鍵だった。リングもキーホルダーもなく一見なんの鍵なのかわからないが、察しの悪い音羽もすぐに理解する。


「合鍵……?」

「ここに来た時に誰も居ないと待ちぼうけくらうだろ。俺も仕事で何時に帰るかわからないし、大家さんにこれ以上変なことを吹き込まれても面倒だしな」


 タオルを持った千翔が少し早口で捲し立てながら床にこぼれた水滴を拭き取る。

 どうせ音羽以外に誰が来るわけでもないのだから渡していても問題ない。それに、このまま放っておいて周囲の住民にまで良からぬ噂が流れても面倒だという苦肉の策だった。

 しかし音羽は千翔の心情など知る由もなく、猫のように目を丸くする。


「え、これってそういうことじゃん」

「違えよ、貸してやるだけだ。毎回大家さんに迷惑かけるわけにもいかないだろ」

「私はいつでもオッケーだよ。入籍はいつにする?」

「だから違うっての。話が飛躍しすぎだ」

「先輩ってば、ツンデレなんだから」

「前言撤回だ。鍵返せ」


 そう手を伸ばすと音羽は鍵を大事そうに握り締めて「やーだ」と背中を向ける。調子に乗せたことを僅かながら後悔する。

 半ば呆れつつ彼女に手を伸ばす。が、微かに見える彼女の横顔に千翔は思わず手を引っ込めた。


(なんでそんなに嬉しそうなんだよ)


 珍しく破顔している彼女の表情に自分の顔も赤らんでいくのを感じる。

 熱を冷ますように千翔はくびぐびとビールを呷った。

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家に帰ると二つ下の後輩が我が物顔で俺のビールを飲んでいる生活 宗真匠 @somasho

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