第2話 ビール様、ご馳走様

「なんかごめん。大事に取ってたなんて知らなかった」

「いや、いい。気にしないでくれ……」

「この世の終わりみたいな顔で言われても」


 仕事に疲れて家に帰ると、楽しみに取っておいた最後のビールの無惨な姿を目撃した。事実、千翔にとってそれはこの世の終わりのような気分だった。

 サブスクで映画を見ながら呷る酒。1日で唯一のオアシスとも呼べるひと時。それが今、ガラガラと音を立てて崩れ去った。

 同時に後悔した。多少値が張ろうと、コンビニでストックを買っておくべきだったと。

 思いもしなかったのだ。まさか大学時代の後輩が勝手に部屋に上がり込もうとは。これまた勝手に他人のビールを飲んでいようとは。

 客観的に見ても千翔に非はなく100:0で音羽が悪いのだが、絶望の淵に立たされた千翔には怒る気力すらなかった。

 何より、疲弊しきった千翔相手でも音羽の暴走は止まらない。


「ほんとごめん。お詫びに今から10箱くらい仕入れてくる」


 などと言い家を飛び出そうとする音羽を食い止める。


「ちょっと待て。そんなに買ってどうする気だ」

「ちょっくら缶ビールタワーでも作ろうかなって」

「どこのクラブだ。そんなに要らん」


 買いに行こうという心意気は嬉しいが、加減を知らない音羽に心配が勝る。

 本数にして240本。そんなにストックするのは店舗か業者くらいだ。倉庫でもなければ一般家庭では置き場に困るし、飲みきる前に賞味期限が切れかねない。

 しかし、常識ではありえないことでも音羽ならやりかねない。ここで彼女の暴走を阻止しなければ、30分後には目の前に缶ビールタワーが完成するだろう。

 どうにか手を引き腕を引き、缶ビールタワーなる暴挙を食い止める。

 音羽も考え直してくれたのか、玄関へ向かう足を止めてその場にへたり込む。

 しゅんと口角と眉を下げるその表情は、本心から落ち込んでいる様子が伝わってくる。


「ごめんね。まさか先輩がそんなに大事にしてたなんて知らなかったから……どうしよ」


 おかしな言動が目立つ音羽がここまでしょんぼりしているのも珍しい。何だかこちらが悪い気さえしてくる。

 千翔も後輩にここまで謝られて許す心を持たないほど小さな器の持ち主ではない。

 どうしても飲みたければコンビニまで戻ればいいだけだ。たまには休肝日があってもいい。今日は酒と縁がなかった。そうポジティブに捉えておく。

 結果はどうあれ、音羽が何も考えず卓上のスルメを貪り、お供に偶然残っていたビールを空けたことは想像に難くない。

 悪意はない。悪気はないのだ。反省もしていることだし、これ以上責める理由はどこにもない。

 元より怒っているわけではなく、ただ楽しみを奪われて落ち込んでいただけなのだから、音羽にこんな顔をさせたことに申し訳なさが勝る。

 まあ、人ん家の冷蔵庫を勝手に開けるのは如何なものかと思うが。家に入るのは言わずもがなだ。


「お前の気持ちはわかった。もう気にすんな」

「先輩……」


 精一杯の強がりではあったが、これ以上音羽を落ち込ませまいと慰める。

 音羽も落ち着いてくれたようで、ニコリと……いや、何故か心配そうに眉を八の字に下げる。


「あんまり優しすぎると変な人に騙されるよ?」

「おう、反省してないなお前」


 前言撤回だ。反省しているかは疑わしい。

 だんだん思い出してきた。音羽はこういうやつなのだと。

 こうして話すのはおよそ1年ぶりになるが、ほとほと呆れると言うか、マイペースを極めすぎて感情が追いつかないと言うか。振り回されるこちらの身にもなってほしいと何度願ったことか。

 家に帰ったのに疲れは溜まる一方だ。溜息をつく千翔に音羽は小さく首を振る。


「反省してるよ、ものすごく。せっかく会えたのに、先輩に悪いことしちゃったし」


 急にしおらしくなる音羽を前に言葉を詰まらせる。彼女が急におかしなことを言うからかもしれない。

 せっかく会えた。彼女は確かにそう言った。

 会いに来た理由も未だ定かではないが、千翔に会いたいという思いがあったことは確かなようだ。

 大学で2年近い付き合いがあったとはいえ、そんなに好かれるような理由があっただろうかと首を傾げる。


 それなりに話す機会はあったが、好意を持たれるような出来事はなかったように思う。千翔の用事に付き合わせては自由奔放な音羽に振り回された記憶しかない。

 大学時代で最も一緒に居た異性として音羽の名を挙げることはあれど、その逆は無いようにも思う。

 不思議ちゃんではあるが美人でスタイルも良く、誰にでも気さくで天真爛漫な明るい性格だとキャンパスでも評判だった。

 ……音羽を知る者として言わせてもらえば、後者2つは異議を申し立てたいものだが。

 自由で不思議な魅力を持つ音羽はそれでも人気があった。よく人と話す姿を見かけては、会話が成り立っているのか疑問に思ったものだ。

 一方で千翔は表情には出ないくせに喜怒哀楽ははっきりしており、よく余計なことを口走っては人が離れていった。

 似ているようで全く異なる2人。それが大学時代の評価だったし、千翔自身もそう思っていた。

 そんな音羽がまさか自分に会いに来ようとは。一体どういう心境の変化だろうか?


「先輩、どうしたの? 急に黙って。やっぱり怒ってる?」


 変に考え込んだせいで音羽に心配される。音羽は何を気にする様子でもなく、いたずらをした子供のようにちょっぴり怯えていた。

 意味ありげなセリフにドキリとしたが、彼女の様子を見ていてようやく理解した。

 相手はあの音羽だ。偏に会いたかったと言っても、恋だ好意だといった他意はないのだろう。

 何か用があって、言葉通りの意味で会いに来ただけ。それが真実なのだ、と。

 妙な勘違いをした恥ずかしさを振り払うように首を振る。


「いや、怒ってない」

「先輩って表情が変わらないからわかりにくいよね」


 何気ない言葉に突然ぐさりと刺された。

 感情表現が苦手なのは自覚しているところだが、こうもはっきりと言われると普通に傷つく。


「まあ、なんだ。美味かったか、ビールは」

「んー……」


 音羽は歯切れの悪い返事をすると、少し考える素振りを見せる。

 かと思えば急にトコトコとリビングの方へ向かう。

 空っぽの缶ビールを机に置き、崇めるように膝を着く。


「大変美味しゅうございました。ビール様、ご馳走様」

「俺に言え、俺に」

「伝わった? 私の反省と感謝」


 ドヤ顔でふふんと鼻を鳴らす音羽。今の話聞いてなかったのか。感謝する相手はビールじゃないんだよ。


「微妙だな。20点」

「やったー、満点」

「何でだよ。100点がマックスに決まってるだろ」

「でも語呂は良かったでしょ。ビール様、ご馳走様って」

「反省で芸術点を求めるな」


 くだらない問答。一体何の話をしているのかと馬鹿馬鹿しくなる。

 しかし、そんな馬鹿馬鹿しい会話に千翔は笑を零していた。

 音羽は変なやつだが、悪いやつじゃない。大学時代もこうして馬鹿な話をしていた。

 千翔はこの時間が嫌いじゃなかった。気疲れが絶えない人間関係の中にあって、音羽と話す時間は体が軽くなるような気がしたからだ。

 音羽もそうだったのかもしれない。久しぶりに話してみてそう思えた。

 気がつけば、仄かにアルコールの匂いが漂うワンルームは笑い声に包まれていた。


「久しぶりに見たかも。先輩が笑ってるところ」

「ほっとけ」


 千翔は自嘲気味に鼻を鳴らすが悪い気はしなかった。

 余計な一言がなければ可愛げもあるんだけどな、とは思いつつ。


「買いに行くか、ビール。朝日奈も飲み直すか?」

「飲む。何箱買う?」

「タワーは諦めろ」


 明かりが減った住宅街を2人で引き返していく。1人で静かに晩酌するのも悪くないが、こんな時間もまた一興だ。

 ぼーっと空を見上げて歩く音羽を横目に千翔は考える。


(何か大事なことを忘れてるような……)


「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」

「嘘つけ。思いっきり曇ってるだろ」


 隣にある疑問の正体に気づくこともなく、まあいいかとコンビニまでの道のりをのんびりと歩いた。

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