家に帰ると二つ下の後輩が我が物顔で俺のビールを飲んでいる生活
宗真匠
第1話 お邪魔してます、先輩
「おかえり、先輩。今日も残業?」
「まあな」
「社会人は大変そうだね。ビール冷えてるけど、飲む?」
「それ、俺のやつな。飲むけど」
家に帰ると大学時代の後輩が飲みかけの缶ビールを片手に出迎える。
恋愛関係はない。体の関係なんて以ての外。大学時代にサークルが一緒だっただけの繋がりしかないただの後輩だ。
そいつはふらついた足取りでキッチンへ向かうと、
「さ、乾杯しよ」
後輩はそう言って、乾杯することもなく飲みかけのビールを我が物顔で飲み干した。
その日も2時間の残業の末に業務を終え、オフィス前で先輩たちと別れ帰路に着いた。
社会人1年目にして目の当たりにする社会の荒波。残業は当たり前で、入社半年経った今、定時で帰宅出来た回数は片手で数えられる程度しかない。
雑誌ライターである千翔の仕事は主に担当テーマの取材と情報収集。そして雑誌に載せる記事の作成。
挙げれば少なく見えるが、テーマは読者が食いつきそうな題材が大小様々候補にあがるし、情報を集めて面白みに欠ければ練り直すこともある。中にはデマの噂ってこともしばしば。
取材は取材でアポイントが取れなかったり、細かく時間を指定されたりと振り回されてばかりだ。
もっとも、ライターが苦労するのはそれ以前の話である。
デスクワークで固まった体を軽くほぐしながら電車を待つ。
毎日くたびれた顔でゾンビのように足を引きずりながらもこの仕事を続けているのは、仕事にやりがいを感じていることと、職場の人間関係が良好であるおかげだ。
が、それはそれとして。
「あのタヌキ野郎。いつかあの腹でサンバ演奏してやる」
残業の主な原因となっている
電車に揺られ数駅。ビル街から景色は一変し、低い家々が立ち並ぶ住宅街へ。都心に近いと言えど、少し離れてしまえば色とりどりのネオンもくらくらしそうな酒の匂いもないただの町だ。
ビジネススーツに身を包んだサラリーマンたちを横目に改札をくぐる。少し歩けば人通りも疎らになり、あっという間に車の通りもない路地に出た。
時刻は21時過ぎ。まだまだ起きている人も多いようで、閉められたカーテン越しに幾つもの光が溢れている。
黙々と自宅へ急ぐ中、一際明るいコンビニの前で立ち止まる。飛び交う虫をぼんやりと眺めながら、ふと不安がもやもやと湧き上がる。
(そういや、ビール……最後の1本だったよな)
くたびれた社会人である千翔の唯一の楽しみ。それが酒だ。
仕事の辛さもタヌキ野郎へのストレスもこれ1本で全て帳消し。社会人の心のオアシスとも呼べる魔法のドリンクだ。
毎日欠かさずビールで晩酌をする千翔は、必ず冷蔵庫の在庫を把握している。
今日で最後の1本。明日は休みだからその時に箱買いしておくか、とコンビニをスルーして薄暗い通りを抜ける。
一人暮らしとはいえ、物価の高い首都圏に住む千翔はお金に余裕のある生活を送っているわけではない。急ぎでないならコンビニでの買い物は避けたいものだ。
それが後悔に繋がるとも知らず、千翔は帰りを急いだ。
駅から徒歩15分の距離。学生時代こそ歩くことは苦にならなかったが、社会人になった途端にその時間の重みを知る。
疲れ切った体に鞭を打ち、ようやっとたどり着いたマイホーム。半ば息を切らしながらアパートの一室へと向かう。
ガチャリと鍵を回し、いやに重い扉を開ける。その瞬間、千翔はピタリと動きを止めた。
廊下が伸びるその先。普段千翔が1日の大部分を過ごしているリビングから明かりが漏れていたからだ。
千翔は音を立てないようそっと玄関の扉を閉めた。
(うーん? おかしい。何で電気が点いてんだ。俺の部屋……だよな?)
203号室。平凡な二階建てアパートの一室。目視で確認してみても千翔の部屋で間違いない。
きっと電気を点けたまま家を出てしまったのだろう。いや、今日は天気が良かったから朝から電気を点けることはないはずだ。いやいや、そうでなければこの状況に説明がつかない。
ぐるぐると回る思考。あらゆる可能性を考えてスマホを取り出してはポケットに仕舞う。
玄関の外で頭を抱えて数秒。出した結論は、
(まあ、今朝も疲れてたし。点けっぱなしってこともあるか)
と自分の記憶を疑うことにした。疲れた脳では情報がまとめ切れず、考えることを諦めたとも言える。
念の為ゆっくりと扉を開けて中を確認する。やはり電気は点いている。
靴を脱ぐ。そこに自分のものではない靴がある。見るからに女性もののスニーカーだ。
どこか見覚えがある気がするその靴に首を傾げる。最早疑うまでもなく、リビングに誰かが居るのは明らかだ。
(これは警察を呼ぶべきか……)
どう見ても不法侵入。現行犯逮捕だ。
しかし、相手が誰か特定できないままでは警察に余計な労力を課すことになる。もしも母親だったら恥ずかしいことこの上ない。
静かなリビングからテレビの音が聞こえてくる。何とも呑気な犯人だ。よくもまあ勝手に上がり込んでおいてリラックスできたものだと関心すらする。
果たしてどうしたものかと考え込んでいると、テレビからドッと笑い声が聞こえてきた。それに合わせて、リビングに居るであろう犯人の笑い声も。
決して大きな声ではなく、控えめに笑うその女性の声にふとある人物が思い浮かんだ。
これまで女性関係に縁がなかった千翔にとって、異性の知人というだけで候補はかなり絞られる。
その中でも他人の部屋に勝手に入るという暴挙に出る人物となれば、思い当たる犯人は1人しかいなかった。
千翔は大きく溜息をついて臆することなくズカズカと廊下を進み、扉を勢いよく開け放つ。
その音に驚いてこちらを見た人物と千翔が想像していた人物の顔が一致する。
「わお、びっくりした」
「そうは見えないけどな」
「ほんとだって。あ、お邪魔してます、先輩」
「本当に邪魔なんだが。何してんだ、朝日奈」
おかしな他人でなかったことに安堵半分、おかしな知人であったことに辟易半分で不法侵入の犯人──朝日奈音羽へ問いかける。
「何って訊かれても……見ての通り、かな。先輩の部屋、広くていいね」
「くつろいでることは見てわかるんだよな」
そうじゃなくて、と何故音羽がここに居るのか、その経緯と理由の説明を求める。
音羽は決してからかっているのではない。千翔もそれをわかっているから頭ごなしに怒ったりはしない。
やはり音羽は本当にたった今千翔の問いの本質を理解したらしく、「なるほど」と手を叩く。
「話すと長くなるけどいい?」
「放り出されたくなかったら話しとけ。ちゃんと聞くから」
「これからお聞かせしますは私が生を受けし頃の」
「何で落語調なんだよ。あとそれ、ほぼいらない話だろ」
久々に顔を合わせたのに変わらないこの調子。出会った頃から振り回されてばかりだったが、相も変わらず不思議なやつだ。変人と言っても差し支えない。
「先輩が聞くって言ったのに」と文句を垂れながらビールを呷る音羽。違和感を覚えながらもキッチンへ向かう。
音羽とはそれなりに付き合いの長い千翔にとって、彼女の不思議な調子に合わせるのは慣れたものだ。こういうやつだったなぁと懐かしむにも時間はかからなかった。
気になることは多々あれど、音羽の予想だにしない行動には彼女なりの考えがあってのものだと理解している。
まだ終電にも間に合うだろうし、彼女の処遇は話を聞いてからでも遅くないと判断した。
最悪タクシーで帰らせりゃいい。ビールでも飲みながら小噺に付き合うとしよう。
(果たして夜明けまでに話が終わるのだろうか……)
と、一抹の不安を覚えつつ冷蔵庫を開ける。
が、そこにビールの姿はない。いつもビールを冷やしているはずのポケットは空っぽだ。
間違えて野菜室に入れたのだろうかと開けてはみたが、やはりビールのビの字も見当たらない。
記憶をたどり、直近の違和感で思考を止める。嫌な予感がしつつキッチンから顔を覗かせた。
「お前、もしかしてそれ」
「あ、これ? 残ってたから美味しくいただいてる」
まさかとは思ったが、最悪な予感が的中してしまったらしい。
あっけらかんと答える音羽に千翔は膝から崩れ落ちた。
「こんな仕打ちがあるかよぉ……」
どんな理由でもさっさと追い出そう。そう心に誓った千翔だった。
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