第4話 バリキャリ上司の澄晴さん
不法侵入事件が発生してから1週間が経った。あれから音羽は一切音沙汰なく、千翔は普段通りの生活を送っていた。
元々連絡先は知っていてもこまめに連絡を取る間柄ではないし、音羽が家に来るのは姉の彼氏が来た時だけという話だったから、千翔もそこまで気にしていなかった。
結局あの日は一晩だけ共に過ごすことになったが、酔いが回っていたためか詳細な記憶はない。音羽を自分のベッドに寝かせ、千翔は別室で雑魚寝したところまでは微かに記憶がある。手は出していないと断言していい。
予想だにしなかった音羽の来訪は住居侵入に窃盗と前科二犯の働きっぷりではあったが、通報はしないでおいた。特に大きな被害もなく知人を犯罪者にしてしまうのは気が引けたからだ。
唯一気になることがあるとすれば、
(あいつ、どうやって部屋に入ったんだろうな)
その侵入手段くらいのものだ。
予定があるとかなんとかで、起きてすぐに帰ってしまったため聞くタイミングを逃してしまった。
どこで入手したか合鍵を持っているなら没収しなければならないし、ピッキングなんぞしようものなら本当に前科持ちになる前に止めてやらねばなるまい。
とはいえわざわざ連絡するのもなぁ、次来た時に聞けばいいかと待っていた結果がこれだ。
「…………か」
どれほどの頻度で彼氏を呼ぶかなんて聞かなかったし、元々頻度はあまり高くないのかもしれない。姉が気を遣って外泊しているのかも。
或いは、あの音羽のことだ。案外3人で上手くやっている可能性もある。
「……いるのか」
ともあれ、あまりこちらが気にしすぎるのも良くない。これではまるで音羽が来なくて寂しいみたいじゃないか。
断じてそんなことはない。確かにあの日はいつもとは違う楽しさがあったが、毎日音羽の相手をしていては心のオアシスどころか気苦労で干からびてしまいそうだ。
(放っておいても勝手に来るだろ。一旦音羽のことは忘れて……)
と、目の前の業務に取り掛かろうとした矢先、言い知れぬ寒気を感じた。
オフィス中の視線が千翔に集まっていた。正確にはその背後に向けられていた。
恐る恐る後ろを振り返る。心霊映画なんかでよくあるシーンだ。いや、心霊ならどれほど良かったことか。
そこには鬼のような形相で千翔を見下ろす……否、本物の鬼の姿があった。
「聞いているのか、夜宮?」
やべ、と思ったのも束の間。パコーンと気持ちの良い音がオフィスにこだました。
「私が話しかけているのにシカトするとは偉くなったものだな、ええ?」
「ほんと、すみませんでした」
とペコペコ頭を下げて一服。吐いた煙がもくもくと換気扇に吸い込まれていく。
折檻されるかと思いきや、連行された先は喫煙所。本気で怒られている様子はなく、「お前も吸え」と言われるがまま煙草に火をつけていた。
千翔の所属する部署の編集担当を務める
切れ長の目に高い鼻、整った顔立ちに良く似合う黒のショートヘア。まだあどけなさが残る音羽とは違う大人の女性の美しさを醸し出す女性だ。
「夜宮がぼーっとしているのも珍しい。何か悩み事か?」
澄晴は俗に言うバリキャリで、齢28でありながら複数の担当を担う、千翔の上司にあたる人物だ。入社から半年と少し、千翔も仕事を教わったり食事に連れて行ってもらったりと何かと世話になっている。
彼女の問いに千翔は逡巡する。仕事のことであればこれまでも何度か相談を持ちかけたこともあるが、プライベートの話を職場の上司にしてもいいものなのか。
彼女ならばどんな相談でも邪険にせず親身に聞いてくれるとは思う。しかし、憧れの上司たる澄晴に相談するほどの話でもない。
(歳下の異性に振り回されてるとか知られたくないしな)
少しの沈黙を置いてそう結論づけた千翔は軽く首を振った。
「いえ、ちょっと寝不足で……戻ったらしっかり仕事します」
「なんだ。お前のプライベートでも聞けると思ったんだがな」
「俺のプライベートですか?」
澄晴が自分のプライベートに興味を持つとは思わず、彼女の言葉を繰り返す。
澄晴もまた千翔の反応が意外だったようで、ぱちぱちと目を丸くする。
「おかしなことでも言ったか?」
「あ、いえ。ただ、澄晴さんってもっと仕事第一!みたいな人かと思ってたんで」
「おっと、そう思われているのは心外だな」
澄晴はそう言って紫煙を吐くも気分を害した様子はない。恐らくこれまでも似たようなことを言われた経験があるのだろう。自嘲するようにくくっと喉を鳴らした。
「まあ、夜宮の言う通り仕事第一なのは間違っていないかもな。だけど、私だって人間なんだ。自分の時間だって大事だし、こうして煙を吸いながら他愛ない話だってする。それに、仕事で付き合っていく上で相手の為人を知るのは案外大事なことだぞ」
「なるほど……それは一理ありますね」
仕事だけの付き合いだとしても相手の性格や得手不得手を知っておくことは協力して仕事を遂行する上で重要なプロセスだ。現に千翔も澄晴の新たな一面を見てさらに彼女に対する好感度を上げていた。
彼女が若くしてチーフ職となっているのも単に仕事ができるからだけでなく、こうした小さなコミュニケーションを積み重ねてきたからなのかもしれない。
それはそれとして、音羽のことをここで話せるか、となると別の話にはなるが。決して知られて困る話ではないけれど、積極的に話したいことでもない。
澄晴も千翔が何かを隠していることは察していたものの、彼が何も切り出さないことから深く踏み込むべきではないと区切りをつけ、「それで」と話題を切り替える。
「夜更かしをするほど面白いことがあったのか? 私には趣味がないから少し気になるところだな」
「そうですね。俺は基本サブスクで映画を見てます」
「映画か。良い趣味だな。私も映画は好きだよ」
「マジすか。こう言うと失礼かもしれないですけど、ちょっと意外ですね。もっとリアリストなのかと」
千翔たちの仕事は現実を記事にする雑誌ライターだ。流行。時事。政治や経済。芸能、スポーツ、エトセトラ。題材は多くあれど、自分が見たリアルを発信するのが彼らの仕事である。
特に澄晴は誠実さとリアリティに重きを置いており、取材相手のプライバシーや人と人との繋がりを尊重し、嘘偽りない事実を記事として書くよう日々部下に言い聞かせている。
だからこそ、そのほとんどがフィクションで構成されている映画を彼女が好むことに驚きがあった。
しかし澄晴はあっけらかんとした表情で「確かに失礼だ」と口角を上げる。
「仕事は仕事。私も恋愛映画でときめいたり感動映画で涙を流したりするものだよ」
「そのチョイスも想像の斜め上なんですけど」
「ふふ、上であるだけ良しとしようか」
いつも粛々と仕事を進める彼女からは全く想像できないレパートリーだ。顔を赤らめたり表情を崩して泣いている姿は想像できない。
「私としては夜宮が夜更かしするほど没頭した映画に興味があるな」
「没頭……と言うよりは、同じ監督の映画を見直してたんですよ」
「へえ。その監督が好きなのか?」
「特別好きってわけじゃないんですけど、今度友人が勧めてくれた映画を見に行こうと思ってまして、その予習みたいなものです」
音羽に勧められた『信長異世界譚』。織田信長が異世界に転生して天下統一を果たそうとするクセのあるストーリーだ。
あらすじだけなら間違いなく人目を惹くが、それだけで映画の面白さは語れない。そういう映画はごまんとある。
だから千翔は予習として同じ映画監督の過去作を片っ端から見ていった。
映画はストーリーが違えど監督によって描写や作品の雰囲気が似るものだ。感動ものやコメディー、シリアスな作品などジャンルによって「この監督の映画を見れば間違いない」と言える人が少なからずいる。
千翔はいつも見たことのない映画を見る際には監督から漁っていくことが多かった。映画館に行ってお金を払ってまで残念な思いをしたくないという過去の経験から得た、悪い言い方をすれば駄作対策だ。
千翔が夜更かしをするに至った経緯を話すと、澄晴は「なるほど」と頷く。
「それで、その映画は面白そうなのか?」
最近名前を見るようになった映画監督。作品数も多くなく、数日で全てを見終えた結果はと言うと……
「期待はできると思いましたね」
「悪くない評価、と見ていいのか?」
「はい。澄晴さんにおすすめするかは実際に俺の目で確かめた後になるかとは思いますけど」
手放しで人に勧めたい映画ではないが、千翔はけらけら笑って見られるだろうという評価だ。これまでの作品もコメディー色が強かったし、今回もそうだと見て間違いないだろう。
果たして澄晴がコメディーも好むのかは疑問だが、面白ければ映画好きのよしみとして紹介するのもやぶさかではない。
しかし、澄晴は何が気に食わなかったか、煙草を口から離してじっと目を細めた。
「私と一緒に見に行く選択はないのか?」
「え?」
これまた千翔の頭にはなかった意外な言葉だ。言われてみれば、2人は上司と部下であると同時に今この場では映画好きの仲間という関係性も持ち合わせている。
だが、当然ながら上司と部下という関係性が崩れるはずもないわけで。入社半年の千翔にとっては勇気のいる選択だ。
そうでなくとも千翔は澄晴を誘うという選択肢を端から持ち合わせていなかった。
「澄晴さんが映画に付き合ってくれるのはありがたい話ですけど、せっかく澄晴さんと映画館に行けるなら、もっと間違いなく信頼できる監督の映画がいいですね。ジャンルも恋愛ものか感動もので。一緒に行ってがっかりさせたくないですからね」
映画好きとして一緒に見に行く相手には楽しんでほしい。それが千翔の答えだ。
相手が澄晴でなくとも千翔は同じ答えを出していた。同じ感動を、同じ笑顔を、同じ気持ちを共有できるのが映画の一番の良さだと考えているからだ。
というのは表向きで、単純に異性関係に疎い千翔にとって澄晴はあまりに高嶺の花が過ぎるというのが本音ではあるが、元々表情の変化に乏しい千翔の本心が澄晴に悟られることはない。
彼女は千翔の言葉に感心した様子を示した。
「そういうことなら今回は見送らせてもらおうかな。面白い映画があればぜひ誘ってほしい。夜宮の友人ともおすすめの映画の話をしてみたいものだ」
「いやぁ……今回のもそうですけど、彼女の好みはクセが強いんで、だいぶ好き嫌いが別れると思いますよ」
未だに何を考えているのかわからない音羽のことだ。おすすめの映画と言われてB級映画を紹介する程度のことは想像に難くない。最悪他人の上司にZ級映画を紹介するまである。
謎のドヤ顔でZ級映画タイトルを列挙する音羽にゾッと背筋を凍らせる千翔を他所に、澄晴はふふーんと鼻を鳴らした。
「なるほど。夜宮が隠していたのはその女の子のことだったか」
「えっ……?」
記憶をたどってみるも全く覚えがない。これまでどうにか音羽の存在を隠そうとしていたのに、そんなにあっさりと吐き出してしまったことに驚きが隠せない。
「い、言いました? そんなこと」
「今言っていただろう? その友人のことを『彼女』と。夜宮の様子を見るにその子が悩みの種だったんだろう? 思わぬ所で私の疑問が解決してしまったな」
特に気にした様子もなかったが、ずっと千翔の隠し事が気になっていたのだろう。憑き物が落ちたようにスッキリとした表情の澄晴に千翔は煙草をぽとりと落とした。
「さ、策士だ……」
「バカを言わないでくれ。夜宮が勝手に言ったことだ。せっかく私が触れずに流してやったというのに」
「じゃあ今のミスも流してくださいよ」
「私の話を聞いていなかった罰だ」
うがああと頭を抱える千翔の姿に澄晴は顔を綻ばせる。
(その反応がまさに図星と言っているようなものなんだけど……ま、面白いからいいか)
いつも仕事には真面目に取り組みながらも仏頂面なせいでその人柄がわからなかったが、千翔は思いの外面白いやつだと澄晴は評価を改める。
意図せぬところで墓穴を掘り好感度を上げる千翔は、頭を抱えるばかりで澄晴の楽しげな表情など知る由もなかった。
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