モノクロームに色は匂へど

陽澄すずめ

コンクリートと沈丁花

 色には匂いがある。

 ずっと記憶に染み付いて離れない匂いが。


 まだ私が小学生で、家族揃ってあの街に住んでいた時のこと。毎年春になると、決まって花見に訪れる場所があった。

 大きな工場の建つ、川沿いの桜並木。

 その川へは、工場から鈍色の排水が勢いよく流れ込み、ゴウゴウと大きな音を立てていた。


「ここがお父さんの会社だよ。コンクリートを作ってるんだ」


 もう顔も思い出せないその人は、誇らしげにそう言っていたと思う。


 川べりは花見客で賑わっていた。私たち家族もそこへ加わるのが通例だった。薄汚れたブルーシートの上に集う、お父さんの会社の人たちの輪へと。

 知らない男の人、知らない女の人。知らないビールの空き缶の山に、知らないお弁当。お父さんも知らない人みたいな顔をしていた。顔も思い出せないのに、そのことだけは憶えている。よそよそしく笑うお母さんの隣で、私はじっと息をひそめていた。

 みんな楽しそうだった。誰も工場排水の音なんか気にしていないようだった。見事に咲いた桜の花だって、本当のところ誰も気にしていないに違いなかった。


 お手洗いを借りるのに、喧騒を離れてほっとした。

 工場の門の前にある植え込みでは、沈丁花じんちょうげの白い花がいくつか地に落ちて、強い香りを放っていた。コンクリートの匂いだ、と思った。



 この世に変わらないものなんてない。

 それは救いだと信じたかった。



 ザアザア降りしきる雨が、タクシーの窓硝子を叩く。その向こう側に、結局慣れることのなかった『実家』の近所の景色が霞む。

 ここへ来るのも久しぶりだった。山をいくつも越えてこなければならないから。


 後部座席に隣り合わせた、ぴしりとスーツを着た彼が問う。


「もうすぐ?」

「そうだよ」


 車内を満たす緊張がまた少し膨らんで、私の上にのしかかった。


 ——あんたは暴力を振るわない人を選びなさい。お酒をあんまり呑む人も、ちょっとねぇ。


 ちゃんと選べているはず。私は間違えていないはず。

 深呼吸の音が耳に触れる。彼の生真面目な横顔に、私は笑みを作る。


「大丈夫だよ」


 言い聞かせる。いったい誰に。


 精算を終えてタクシーを降りる時、彼が差しかけてくれた傘の上を、雨が激しく殴り付ける。

 母方の苗字の表札がかかった家の前の側溝では、ゴウゴウと音を立てて泥水が流れている。

 懐かしい匂いが鼻先を掠める。間近に寄るまで気づかなかった、庭の鉢植えの白い花。


 傘という仮初の屋根の下、彼がほっと頬を綻ばせる。


「沈丁花か。いい匂いだね」


 あぁ。

 コンクリートの匂いだ。


 どこか浅い夢に浮かされた声を、醒めた頭で片づける。

 この世界には、白と、鈍色しかなかった。ひとときの居場所になるかどうかの、その二色。

 私が足を止めた理由を、彼は知ることもないだろう。



—了—

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