モノクローム

青空野光

午後11時45分

 間もなく今日から明日へと日付が変わる。

 そんな真夜中に40リットルのゴミ袋を両の手に携えた僕はといえば、自宅から徒歩五分の場所にあるごみ置き場へと歩いて向かっていた。

 この地域は月曜と木曜が燃えるゴミの日で、基本的には当日の朝七時から九時の間に収集場所に出さなければいけない。

 だが、僕のように変則的なシフトで労働している一部の住人に関しては、前日の夜間に持ち込むことが例外的に認められていた。


 まだ五月も始まったばかりだというのに、道端のくさむらからは早くも夏の虫たちの鳴き声が聞こえる。

 これが小学生の時分であれば、懐中電灯と虫取り網を片手に鈴虫やら蟋蟀こおろぎを捕獲せしめんと草をかき分けていたことだろう。

 が、もう随分と昔に子供を卒業していた僕にとって、かつてその茶色い虫たちに向けられていた興味は完全に失われてしまっていた。


 やがて住宅が軒を連ねる区画から少し離れた場所にあるゴミ集積場に到着し、手にしていたゴミ袋を一旦地面に置いてから緑色のネットを捲り上げると、既に五つばかりのゴミ袋が乱雑に捨て置かれていた。

 どうやら先客がいたようだ。

 暗がりに目を凝らして観察するとそれらの袋は記名すらされておらず、底の方には赤黒い汚汁までが溜まっている。

 この分では回収されずに放置されること請け合いだが、言うまでもなくそれは僕の知ったところではない。

 その無法者が出したゴミ袋の上に自身の持ち込んだ袋を並べて置くと、腰を屈めて再びネットに手を掛けた。

 と、その時だった。


「こんばんは」


 突如として背後から声を掛けられた僕は、まるで食パンがトースターから飛び上がるかのように立ち上がると、声が聞こえた真後ろの方向に勢いよく首を振る。

 そこには見覚えのない若い女性が立っていた。

 年の頃なら二十歳前半と思しきその女性の姿を目にしたその時、脳から発せられた得も言われぬ違和感に思わず身構えてしまう。

 だが、次の瞬間には胸のあたりまであげていた腕をそっと下ろすと、女性に向かい合い会釈とともに挨拶を返した。

「こんばんは」

 季節的にやや早いように思える真っ白なワンピースと、腰近くまである長い黒髪が印象的だった。

 女性はほんの僅かに首を揺らしてから唐突に僕の足元を指差し、少女のように薄い唇を再び開いた。

「触ってもいいですか?」

「へ?」

 女性の白魚のような指が向けられたその場所に視線を落とすと、いつの間にやってきたのか三毛猫が腹を天に向けて地面に横たわっていた。

 それは半年ほど前から此処らへんに住み着いている地域猫で、実のところ僕も彼女に会うことを週二回の楽しみにしていたりした。

「あ、どうぞ。と言っても僕の家の猫じゃないですけど」

 三歩ほど横にずれ場所を開ける。

「ありがとうございます」

 女性はそう言うと猫の前まで歩み寄り、おもむろに腰を下ろして猫の腹をなで始めた。

「猫、お好きなんですか?」

 そんなことを聞いて何になるのだろう。

 そう思いつつの問い掛けだったが、彼女は思いの他に楽しげに返答をしてくれた。

「はい。マンション住まいだったので飼ってはいないんですけど。あの、この子って名前はあるんですか?」

「さあ? でも近所の子どもたちは『ミケタ』って呼んでいるみたいですよ」

 メス猫なのに。

「ミケタちゃん」

 名を呼ばれた三毛猫は目を細めると、小さく「にゃあ」と鳴いてから再び腹を見せて寝転がる。

「かわいいですね。うちのコにしたいくらいです」


 嬉しそうな表情を浮かべながら、とても手慣れた様子で猫の頭を撫でる彼女を少し離れた場所で見ていた僕だったが、そろそろ家に戻らなければ仕事に遅れてしまう。

 それにこんな暗がりで見も知らぬ男が近くにいては、彼女とて気持ちがいいわけがないだろう。

「あの。僕はこれで」

「あ、はい。ありがとうございました」

 感謝されるようなことは何一つした覚えはなかったが、うら若く見目も好い女性にそう言われて悪い気がするわけがなかった。

「それじゃ失礼します」

「あ。私、来週もこの子に会いにくるので、もしその時にまた会えたら……」

 それは普通に考えれば社交辞令のようなものなのだろうが、僕はまるで面接を受けに来た学生のように神妙な面持ちでこう答えた。

「――ええ、また来週」

 僕という人間はなんて浅はかで単純なのだろう。


 ※ ※ ※


 夜勤明けの眠たい目を擦りながら自転車で帰宅すると、家の玄関の前に見知らぬ男性が二人立っているのが見えた。

 短髪でポロシャツにチノパンの彼らはこちらの姿を認めると一礼し、僕も慌てて先方に倣い頭を下げる。

「こんにちは。突然ですいませんが川西翔吾かわにししょうごさんでいらっしゃいますか?」

 男は物言いこそ丁寧だったが、その眼光の鋭さからセールスや宗教の類ではないことはすぐにわかった。

「はい……僕ですけど。あの、僕になにか?」

「私は◯◯警察署の捜査一課の堀内ほりうちと申します。昨夜ですけど、あちらにあるゴミの収集場所に行かれましたか?」

 男が指差す方向に自然と目が行き、次の瞬間には昨夜あったことを思い出した。

「はい。確かにゴミを出しに行きましたけど。それがなにか?」

「実は昨日そこのゴミ捨て場に遺体が遺棄されていまして」

 男はそう言うとショルダーバッグから二枚の紙――写真を取り出した。

 それは四十前後と思しき知らない男と、二十代前半くらいの知っている女性のものであった。

「この二人に見覚えは?」

「……いえ。あの、どういった?」

「尋ねておいて申し訳ないのですが、詳しくはお話出来ないんです。ただ、あなたが出されたゴミ袋が遺体の部位が入った袋の上にあったのでお話をお伺いしたくて」


 結局そのあと仕事終わりの貴重な時間を三十分も奪われた上に、ゴミ捨て場まで連れて行かれてよくわからない写真を何枚か撮らされてしまった。

 もっともそれが彼らの仕事なのだから、善良な市民である僕は協力を惜しむつもりもければ文句を言うつもりもない。

 少し離れた場所で一言も口を開かずにいた年配の刑事は、きっと僕が嘘をついていることを見抜いていたのだろう。

 彼らは「何か思い出したことがあったら電話してください」とだけ言い、太陽が頭の天辺に差し掛かる頃になってようやく開放されるに至った。


 部屋に戻るとすぐにテレビをつけ、普段はほとんど見ないニュース番組を片っ端から視聴する。

 先ほど見せられた写真の男は所謂ストーカーというやつで、被害にあった女性は今年の春に大学を卒業したばかりだったそうだ。

 容疑者である男の行方はわかっていないらしい。

 若くして命を奪われた彼女の写真を改めて見て、ひとつだけだが気付いたことがあった。

 それは昨夜あの場所で彼女を目にした瞬間に覚えた違和感の正体だった。

 そうだ、彼女には色がなかったのだ。

 長い黒髪に透き通るような白い肌と、やはり真っ白なワンピース。

 まるで古い時代の遺影のような白と黒。

 彼女を構成していたのは、そのたった二色だけだった。


 ※ ※ ※


 翌週の水曜の朝になり、スマホに留守録メッセージが入っていた。

 その相手はこの前の刑事で、内容はといえば犯人が無事逮捕されたとのことだった。

 それを手放しに良かったと言っていいのかは僕にはわからない。

 ただ、これで今週も安心して深夜のゴミ捨て場に行くことができる。

 先週、彼女は別れ際に「また」と言っていた。

 僕はまた彼女と会えるのだろうか。

 そう言えばまだ名前すら名乗っていなかった。

 もっとも僕は彼女の名も属性も知っているのだから、あとは自分が名乗ればそれで済むことだ。

 そうと決まれば今日は早く寝て、いつもより少しだけ早くゴミを出しに行こう。

 いや、その前に花束でも買いに行こう。

 ベタに薔薇にするか、それともやはり菊のほうがいいのだろうか?

 それだけが問題だ。

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