それは春めくブラックブラウン

月見 夕

重ねる色と重なる手

 すぽん、と間抜けな音を立てて、私の卒業証書は姿を現した。

 先生は最後のホームルームで「限りない未来への片道切符」だなんて寒いこと言ってたけど、こんなもん職員室のコピー機でまとめて印刷したんだろうし、大した思い入れはなかった。


 もう面倒な校則に唇を尖らせることもない。大して仲良くないクラスメイトと毎日同じ方を向いて授業を受ける必要もない。うっすら繋がった友達とも、それこそさっき卒アルに「別々の大学に行っても絶対絶対遊ぼうね!」なんて書いて寄越したサヨだってもう会うことはなさそうだし、一月後に大学の正門を潜れば私の事なんて一瞬で忘れてしまうんだろう。

 中学卒業のときだってそんなだったから、人との出会いと別れなんて多分いつもそう。


 最後になるだろう帰り道の空に、牧歌的ないわし雲が浮いている。特段センチメンタルに浸るでもなくぼーっとそれを眺め、くしゃみをひとつした。花粉も親元から旅立って私の元に辿り着いたのかもしれない。永遠に引きこもっていてほしい。

 それにしても自由だ。大学入学までの約二十日間、私は無職でもなければ女子高生でもない宙ぶらりんの身分に甘んじることになる。

 自由はいい。自分のことはぜんぶ、自分で決めていいんだから。軽い足取りで昨日の雨の水溜まりを避けた。


 さて何をしよう。入学と同時にイメチェンする人々は「大学デビュー」とかって周りから声を掛けられるんだと親戚のお兄ちゃんが言ってたけど、こうして春休みに入ったらその気持ちが分かる。暇だ。見た目を丹念にいじれるくらい暇なのだ。私は。

 クローゼットのもさい上着はこの際ぜんぶ処分してしまおうか。中学の頃からずっと履いてるデニムだって、いい加減買い換えてもいいはずだ。

 大学生ってどんな格好して通学するんだろう。よく見るウーバーイーツと防災リュックの間くらいの四角くてデカい鞄でも買ってみようか。

 あ、髪染めてみるとか。校則がないなら好きに染め放題だ。何ならピアスも開ける? 何だか楽しくなってきた。

 春めく陽気にあてられて、私は上機嫌でサロン予約アプリを開いた。


 数日後、私はいつもより数段お洒落な美容室の前に立っていた。予約してしまったのだ、このクソお洒落美容室「フランネル」に。

 インスタの検索で出てきたここは名のある美容師が揃う名店らしく、ストーリーには毎日可愛く仕上げられた女の子たちが上がっていた。

 シャンプーカットカラーぜんぶ合わせると私の三ヶ月分のお小遣いが吹き飛ぶような、私にとってはかなり背伸びしたお店だった。けど、私もあんな風に可愛くなれたら……と勢いで予約を入れてしまったのだ。

 様子を伺うように、ガラス越しに店内を覗く。中は清潔感溢れる白い色調で整えられ、壁にはパンパスグラスのスワッグなんて飾られていた。ヤバい。いつも行ってる千円カットでは見られない細部にまで宿るお洒落さに、足が竦んでしまう。どうしよう。

「いらっしゃいませ、ご予約の方ですか」

 爽やかな挨拶に肩を震わせ、上げかけた悲鳴を飲み込んだ。振り向けば店の前を掃く若い男性がこちらに微笑みかけている。

 この人を、私は知ってる。ストーリーで度々上がっていた顔だ。フランネルのメンバーの中でも随一のカリスマスタイリスト・礼哉れいやさんだ。

 三十代半ばだという(プロフで見た)彼はちょっとツダケンに似てて、飾らないのに眩しい笑顔は直視するのが憚られるほどだった。

 ビジュアルはもちろん腕に関しても一流で、大変な人気であるので予約できるのが奇跡と評判だった。が、本当に何らかの奇跡が起こったようで、本日午前十時半から十三時半までは私の髪に向き合ってくれるという、天国のような、ある意味緊張しすぎて地獄のような状況にいま、なっている。


 流れるように応対され、私は気づけば鏡の前に座っていた。伸び放題の黒髪で化粧を知らない仏頂面の女がこちらを見ている。洗練された店内にいま最も相応しくない人間だ。水面を這う油並に浮きまくってる。

 礼哉さんは数冊の雑誌と温かい紅茶を持ってそばに立った。何だか良い匂いがするのは、アールグレイのせいだけじゃないだろう。

「初めまして。本日担当します、礼哉です。よろしくお願いいたします」

 紅茶を置き恭しく頭を下げる礼哉さん。

 それがとても様になっていて、思わず鏡越しに見とれてしまう。

「カラーとカットとのことで……どんな感じにしましょうか」

「あの、私……髪染めるのとか初めてで、全然分かんなくて」

「おや、記念すべき人生初カラー。僕で良かったんですか」

 身綺麗にすることにただ無頓着であっただけなのに、礼哉さんはまるで初染髪が大切な瞬間であるように扱ってくれる。「良いんです良いんです、もうぜんぶ貴方の裁量で良いのでお願いします」とどもりながら答えるのを、彼は丁寧に頷いて受け止めた。

「では、とびっきり可愛くしますね。僕にお任せ下さい」

 鏡越しにそう笑う礼哉さん。破壊力半端ない。顔と声が良すぎて目も耳も潰してしまいたいほどだ。もうここまでのやり取りで料金を使い果たしたのではないだろうか。

 そんな私の想いなど露知らず、彼は手櫛で私の髪を梳き上げ、感触を確かめるようにうんうんと小さく頷いていた。いまきっと、礼哉さんの頭の中に私の未来予想図が詰まっているのだろう。先生、限りない未来への片道切符はここにありました。


 手慣れた所作により洗髪、染髪、散髪を終え――夢のような三時間はあっという間に過ぎ去っていった。礼哉さんの真剣な顔と手つきを見つめるのに精一杯で、自分の変貌ぶりはほぼ気にしていなかった。もう目が幸せすぎる。

 仕上げのスタイリング剤がよく分からず首を捻っていると、代わりにヘアオイルとやらを馴染ませてくれた。柑橘系オイルの甘い香りが心地よく鼻に届く頃に、礼哉さんはさあ、と手を打って鏡越しに笑顔を向けた。

「完成です。如何でしょう」

「わぁ……」

 私、いま誕生した。

 礼哉さんの手によって、私はたったいま二度目の産声を上げた。

 そこにはもはや来た時とは別人が座っていた。肩口あたりに伸びていた黒髪は軽めのショートボブにまとめられ、透明感を内包したダークチョコレートのような絶妙な色合いに染め上げられている。モデルさんだ。カットモデルさんと首をすげ替えられたみたいだった。

「初めてのカラーで急に明るくしすぎちゃうと、自分の認識が追いつかなくなって「これじゃないな」ってなることもあるし、髪へのダメージも大きくなるので……元の綺麗な黒色はあえて抜かず色を重ね、大人しくも春らしい明るさを目指しました」

「すごい……黒の上に色を重ねるなんてできるんですね。ちゃんと染まってる……ちなみにこれって何色ですか」

 私はおずおずと鏡の中の礼哉さんを見上げた。

 彼はカラーリングをする際その色に独自の名前をつけ、インスタで「礼哉オリジナルカラー」として紹介するのだ。

 フォロワーは独特の色味をネームセンスごと愛している。よって、まだ紹介されていない名前の色で染めてもらうことはこの上ない幸せとなるのである。フォロー歴の浅いにわかの私も、インスタを読み漁っているせいかちょっと憧れていたのだ。

 礼哉さんは少し考える風に顎に手を当て、そして思いついたように口を開いた。

「春めくブラックブラウン……ですね。気に入って頂けて嬉しいです」

 春めく、ブラックブラウン……なんてビターで、スイートなワードセンスだろう。季節感を醸し、そこはかとなく大人っぽさも漂っている。私の髪は、いまこの瞬間誰よりも可愛い自信があった(顔は度外視で)。


 夢心地で会計を済ませ、財布に計り知れないダメージを負うもまったく気にならず、私はフランネルを後にした。

 染めてもらったばかりの髪が風にそよいで、自然と笑みがこぼれてしまう。嘘だ。笑みとか綺麗なやつじゃなくて「デュフ」みたいに気持ち悪くにやけていた。

 店を振り返れば数十メートル向こうの礼哉さんと目が合って、深々と頭を下げていた。なんて丁寧な接遇だろう。これは帰ってからグーグルマップやらサロン予約アプリやらあちこちで最高評価の星を投げつけて回るしかないな。

 超絶上機嫌の私はそう心に決めて帰路に着いた。


 その夜、礼哉さんのインスタで私のカラーが紹介されてやいないかとそわそわしていたけれど、よく考えたら私の施術後に写真撮ってなかったな、と思い出した。勝手に期待してアホか私。

 それでも初めて私に色を乗せた人が礼哉さんという事実が嬉しすぎて、スマホを抱えたままベッドにダイブした。推しがいるってこんな気持ちなのかな。高くても通おう、あの店。

 バイト始めなきゃな。次に礼哉さんに会えるのはいつだろう。どれくらい伸びたらまた染めてもらえるかな。なかなか予約取れないから、もういまのうちに次の予約を入れておこうかな。

 インスタのアイコンで微笑む礼哉さんをうっとり見つめ、私はそのまま幸せな眠りについた。


 明くる日の朝、私は再びフランネルの近くを訪れていた。昨日切ってもらったばかりなのに。

 まだ店はオープンしていない。準備中でもいいから、通りすがりを装って一目でも礼哉さんの姿を拝めないかと思ったのだ。うん。我ながらだいぶ気持ち悪い。

 でももうどうしようもない。多分この気持ちは恋だ。私はもう礼哉さんに染められてしまったのだ。初めての染髪を捧げた相手に、他の女の子よりも特別だと認識してほしいと思うのは我儘だろうか。

 そんな劣情にも似た粘度の高い感情を持て余し、反対車線の美容室をそっと横目で見た。

 昨日訪れた店内は薄暗く――それでも数人が開店準備に忙しなく歩き回っているのが見て取れた。

 あ、あれかも。礼哉さん、今日は首元広めのボーダーシャツを着こなしている。何着ても似合うなあ。私服かな。ラフな格好だから休日感が出てて、家族とかにしか見せない特別な感じがしていて、何だか得した気分。

 ほとんどストーカーみたいなじっとりした目線で、四車線道路越しに礼哉さんを観察する。

 いいな、今日は何人の女の子に魔法をかけるんだろう。昨日新規で訪れただけの私が店の前を通ったら、礼哉さんは気づいてくれるかな。微笑んで……くれるかな。

 次に信号が青になったら渡ろうと、黄色い押しボタンをぽちりと押したその時。

 ガラスの向こうの礼哉さんは同僚と思しき若い女の子の手に大きな手のひらを重ね――その頬を引き寄せてキスをした。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。けれどそれはどう見ても、そして悔しいほどにとても絵になる口付けだった。

 ああ、そうか、そういうこと……


 ぴっぽ、ぴっぽ、と音を立てて私のために青になった信号を渡ることができないまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。生温い風が、ブラックブラウンの髪束をさらう。

 春は無情にも過ぎ去って行った。

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それは春めくブラックブラウン 月見 夕 @tsukimi0518

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