カツカレー大盛り。
壱ノ瀬和実
カツカレー大盛り。
不安よりは、希望の方が大きかったように思う。
就職活動にあまり難儀せず、希望通りの会社に入ることができたときには、ようやく人生のスタートラインに立てたと思った。
自分の力でお金を稼ぐことができて、好きなことにお金を使える。多趣味な私にとって、大人になりたいと思うのにこれ以上の理由は必要なかった。
今ではどうだろう。
自宅と会社の往復に、休日はただ眠るだけ。大好きだった連続ドラマはハードディスクに溜まる一方、レンタカーを借りてドライブをするのも随分としてなくて、買って一年しか経っていない一眼カメラには交換レンズが買い足されることはなかった。
経済的な余裕だけはできた。使わないのだから当然だ。お金というのは使えるから意味があるのだと気付いたのは、最近になってからだった。
「生きる為に働いているはずなのに、働くために生きているみたい」
SNSにそう呟くと、いいねが一つだけついた。
コンビニで温めてもらった弁当は、食べる頃には冷たくなっていた。塩分が濃いはずのおかずもどこか味気ない。
「これで良いのかな」
他人と比べて、特段多忙な仕事ということはないだろう。残業はあるが毎日二時間程度、デスクワークを激務だとは思わないし、人間関係も、悩むほど深く付き合ってはいない。
ただ社会人でいるということに疲れたのだ。
毎朝同じ時間に起きて、同じ時間に家を出る。そんなのは学生時代と変わらない。大人たちの当たり前に、私が慣れていないだけ。
明日の休みはどうしよう。
家を出るのは億劫だが、このまま何もしない自分でいることに、迷いがないわけではなかった。
気付くと、部屋の明かりは太陽光に負けていた。
閉めきっていなかったカーテンの隙間から入り込む眩しさが、朝の訪れを報せてくれたみたいだった。
ベッドに入ることすらしなかった昨日の私のおかげで、今日の私の身体はがちがちに凝り固まっている。寝汗も掻いていた。なんだか不快。背伸びをして、シャワーを浴びた。
休日の朝ってこんな感じだったっけ、と思いながら、自然と出掛ける支度をしていることに気付いた。最近休日に家を出ることがなかったのは、起きるのが遅かったからなんだと思った。
特に着飾ることもなく、メイクもほどほどに、ただ散歩をするくらいのつもりで外に出た。
近くの公園で親子連れが遊んでいる。すぐ横を小学生が自転車で走り抜けて、工事現場では掘削音が響き、日の当たるアスファルトでは猫がだらりと眠っている。
いつも歩いている道だった。いつもは気付かない景色だった。
何気なく書店に入って背表紙を眺め、併設されたカフェでコーヒーを飲み、おみやげにクッキーを買う。
何をするでもないけれど、何もしないよりは何かをしていた。
これを充実感というなら、これも悪くないと思える。
昼になって、そろそろ空腹を満たしたくなった頃。何気なく通った道に、随分と年季の入った定食屋があった。
巡り合わせのような気がして、考える間もなくその店に入る。こぢんまりした店内はお世辞にも綺麗とは言えず、客の姿も多くはない。
店には夫婦と思しき老人が二人。
「いらっしゃい。どうぞお好きな席へ」
あまり愛想はなかったが、不思議と不快感もなかった。
隅の席は埋まっていて、私は真ん中の席に座った。椅子はがたついている。机は、少し汚い。
壁には手書きのメニューが貼られていた。本日のおすすめ鯖味噌定食。と書かれていたが、そんな気分じゃない。
店内を見回すと、昼から日本酒を煽る老人がいる。カツ丼を頬張りながら新聞を読むサラリーマンがいる。カレーうどんを器用に啜る主婦がいる。
大人なら、それっぽく「とりあえずビール」なんて言えたら格好も付くんだろうけど。
「背伸びって、大人なのかな」なんて思ったりもして。
なってみたかった大人。
理想と現実。
あまり辛辣でもないけれど、決して甘くはない世界。
疲弊していく心。
なりきれない、大人。
「おばちゃん、お会計」サラリーマンが爪楊枝を加えながら店を出て行く。
片付けをするおばちゃんに、私は声を掛けた。
「注文良いですか」
「はい」おばちゃんは片付けもそこそこにこちらを向いて、メモを取り出す。
私は大人だ。大人の当たり前に慣れていない、まだまだ子供な大人。
だから、無理に背伸びもしないでおこうと思う。
今日という日に抱いた、何てことのない何かをしている充実感に、嘘をつかないために。
「カツカレーを一つ。あと飲み物は、コーラで」
ごく普通の大人としての日々に、今日くらいは反旗を翻して、大人らしくないことをしよう。
いつか抱いた理想とは随分と違うけれど、こんな毎日の中でいつか馴染んで行けたなら、それでいいのかもしれない。
とりあえず今は、自分のペースで。
「あ、おばちゃん。カレー、やっぱり大盛り!」
カツカレー大盛り。 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
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