第87話まだ見ぬ蒸気の国

「——こうして人間の青年は便所臭え魔族の手から逃れることができました、とさ。めでたしめでたし! ははっ、我ながら笑いどころたっぷりの喜劇だったな!」


 霧に覆われた荒れ地に、外道の声が響く。聞き心地のよい声色の中には、悍ましいほどの暴力が蠢くが――それを聞ける者はそう多くない。


「で。そこんとこの感想はどうよ、カルラお姉ちゃん?」


 《演技》スキルの抜けたシャロンの問いに、彼女の足元で身動きの取れない形で横たわるカルラは……押しつぶされそうな敵意と悪意に歯向かうように、その眼光を鋭くしたまま睨み返す。


「腐れ外道が……!」


 やや、彼女の声が籠っているように聞こえるのは、その顔面に付けられたマスクのせいだろう。顔全体を覆い、眼球を防護するレンズと異様な突起物が口部に備えられたそれは――どう見ても、防毒を目的としたマスクであった。


「いくらなんでも腐れ外道ってのは傷付くぜ。こっちは親切心でこれまでの喜劇を読み聞かせてやったってのによ。んー、もしかしてオチが気に食わなかったか? そりゃそうだよなァ。ここに1匹、薄汚え魔族が生き延びているんだもんなァ?」


 さして傷付いた様子もなく、シャロンは身を屈めてカルラのマスクに手を伸ばす。


「分かるぜ、寝る前は悪者が全員ぶっ殺される御伽話を聞かなきゃ夢見も悪くなるってもんだ。だからよォ、テメェらが脅かしている非力な人々の安眠のために死んでみるか? おい」


 そう言って、かちりと。カルラの装備していた防毒マスクをシャロンは遠慮することなく、その顔面から外してみせた。


「が、はッ……!? あ、がッ……、かひゅぅッ!?」


「おー、効く効く。さすがは蒸気大都市の悪名高い毒霧だ。話に聞いてはいたが、ここまで魔族にも効果覿面とはな。テメェは人間と違って簡単に死なねえとはいえ……死ぬほど苦しいだろ?」


 蒸気大都市国家エセル。ヴァシオン聖国のはるか西方に陸続きで存在する、奇妙な毒の霧に覆われた国である。


 今、シャロンとカルラがいるのは、ヴァシオン聖国の国境を越えて、蒸気大都市エセルに踏み込んだ――生命的な意味でも政治的な意味でも非常に危険な位置であった。


 本来、シャロンとカルラがいなければならないはずのガレリオ魔法学園は、はるか地平線の彼方にある。一朝一夕で行けるような移動距離ではない。《至るための旅路》を使うにしても、シャロンはこの場に一度来ていなければならないはずだ――毒霧を吸い込んだことによる激痛に苦しみながらも、カルラはその疑問を解決すべく、周囲に目をやった。


「どう、やって……!?」


「おん? どうやってここに辿り着けたかって? そりゃあお前、夜の自由時間を使ったに決まってんだろ。こう、モニカの《戦車の凱旋》を使って《至るための旅路》のファストトラベル地点を数珠繋ぎにな。いやあ、長かったぜ。毎晩毎晩、アイツがガス欠を起こすまで深夜のツーリングをするのはよォ」


 種を明かせば、簡単な話であった。ようは、毎晩モニカが自主練習と偽っていたものは、すべて蒸気大都市エセルへの道を作るための布石であったのだ。シャロンを後部座席に乗せ、300キロほどの道のりをフルスロットルで駆け抜けてから《至るための旅路》で何事も無かったように寮へ戻り、翌日は600キロ地点まで、翌々日は900キロ……と。本来であれば丁寧に進まねばならない道のりを(そもそも偽りの章では登場すらしなかった場所を)、シャロンとモニカは力技だけで解決していたのだ。


「俺が黙ってここに逃げ込んだら、また勇者の亡霊探しは振り出しに戻っちまうなァ? 当然、俺を目障りだと考えるヴァシオン教の連中も手が出せねえ! おいおい、どうしちまったんだ? そんなに鼻息を荒くしてよォ。ここの空気はそんなに美味いか?」


 シャロンにとって、それは確定した未来図である。だが、カルラにとってそれは——否、魔族にとってみれば。


 勇者の亡霊に費やした犠牲、その全てを無意味にすることと同義であった。


「逃げ、る、つもり、か……ッ!」


「当然だろ。俺はいつだって逃げも隠れも選択肢にいれてんだよ。言いたきゃ気の済むまで卑怯者とでも恥知らずとでも罵ってくれていいぜ? そういう聞き心地のいい矜持を口にする連中をよォ——」


 喘ぎ、口の端から血の混じった泡を吹くカルラの胸に、シャロンは足を乗せて遠慮なく体重を乗せていく。


「こうやって踏みつけるのが楽しくてしょうがねえんだ。無力で生意気な子どもを200回も蹴ってくれたカルラお姉ちゃんなら、理解してくれるよね?」


「あ……かはッ!?」


「一呼吸するたびに身体の内側から針を刺されるような痛みが襲うらしいなァ? 。まあ、俺の分まで楽しんでくれよ」


 毒霧の中で、シャロンのニヤけた面は曝け出されていた。間違いなく、シャロンは呼吸の中でこの毒霧吸い込んでいるばずなのに。


 防毒マスク抜きで、活動が可能。この事実は、カルラに大きな絶望を与えた。


(駄目、だ……! この悪魔を、蒸気大都市に逃しては……ッ!)


 毒霧が効かないという体質は、それだけでこの土地の恩恵を一身に受けることを意味する。また、協力関係にあるヴァシオン教の支援も受けられないだろう。なによりも、この毒霧で特筆すべき点は——!


「神聖兵装を……ッ! どうして使えるのよ……ッ!?」


「ああ、それ。お前ら魔族や人間は神聖兵装が使えないのが普通らしいな。だったらこう考えようぜ? ってな」


 この毒を有した霧の効果は、人体への影響だけではない。


 神聖兵装、および魔力の行使を必要とする行動を阻害するという、厄介極まりないものがあるのだが——どういうわけか、シャロンはその毒性も、魔力の阻害も受けることなく平然としていたのだ。


 その証拠に、シャロンの手には《隠者の角灯》が握られており、先ほどからカルラの身体の自由を奪っているのだから。


(いくら……いくら、紅魔臣でも……ッ!)


 魔装を使えず、万全の体調でないまま、この悪魔と対峙した場合——勝てる、だろうか。激痛のさなか、カルラの思考は覆せない恐怖の解答を導いてしまう。


「お前、なんか……ッ! お前なんか、紅魔臣の手にかかればッ!」


「ほー。殺せるってか? そいつは楽しみだな! あの腑抜けといかれたシスコンがどんな手段で殺しに来るのか教えてくれよ! ま、腑抜けの方は大したこと無さそうだがなァ」


 紅魔臣に目を付けられる。それは、人間の身であれば恐怖し、首を垂れて服従を誓い、命と子々孫々の安寧を得るために、人類を裏切る手先になるはずなのに。


「そうビビるなって。俺がエセルを観光するのはだいぶ先の話だ。今は神聖な学舎で教師と生徒ごっこをするクソカスどもを嬲り殺しにしたい気分なんでな!」


 このシャロン・ベルナは、嬉々としてその状況を歓迎していた。


「次は……そうだな。お前の大好きなバニスで遊んでみるとしようか」


 毒の霧に意識を奪われる中で、カルラの耳に響いたのは、敬愛し、恋慕を寄せた者への殺害予告であった。




※作者からのお知らせ!


近況ノートの方に本作の質問コーナーを作ってみました。多少のネタバレを許せる方のみ、ご活用くださいませ……!

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【書籍化決定!】無双ゲーに転生したと思ったら、どうやらここはハードな鬱ゲーだったらしい 久路途緑 @kurotomidori

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