第86話そして罰は下された

 花火を打ち尽くされた夜空は、つい先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。見上げれば夜空の星々も綺麗だろうに、観客はそんなものに興味などないのか、早々に展望台を降りていた。


 放置されたシャロンは——いた。どうやら人の多さに疲れたのか、日中にはしゃいだツケが来たのか、ベンチの上で眠りこけている。……見たところ、物を盗まれたり暴力を受けたりはしていないようだ。ここ聖都ロンドメルは昼間の一件を除けば、治安のいい都市だが……幼女一人を夜の街に放置するのはいささか、いや、かなりマズい。これがシャロンを溺愛している女子どもにバレたらなんと言われるやら。


「おい——」


 ボロボロの身体を引きずりながら、俺はとりあえずシャロンを起こそうと手を伸ばした。


「んっ……」


 それが良くなかった。

 

 かくん、とシャロンの寝返りで額にあったお面がすっぽりと、彼女の小さな顔を覆うように落ちてくる。


「……ッ!?」


 そう——あのアルタリオンと、同じ仮面が。


 シャロンの枝毛一つない、流れる水のような銀髪が月に照らされ。先ほどのアルタリオンを名乗る化け物も、ちょうどシャロンのような白髪と見紛うような長い銀髪であった。


 そして、奴の身の丈は子どもほどの身長だった。……これも、シャロンと同程度だったような気がする。


 嫌な符合であった。しかし、シャロンと奴の共通項は身長と銀髪であることくらいだ。シャロンがあんな口汚く、そして喧嘩殺法の奥義を扱うなど……俺には想像すらできなかった。


 だが、無関係ということもないだろう。イフは「シャロンに近づくな」と警告してきたこと。シャロン自身が知らなくとも、何かしらの繋がりはあるはずだ。


(そう。そのはずだ——)


 ここで考えるのをやめておけ。疲れて寝落ちした子どもの肩をゆすって起こす。それだけでいい。短くも、そこそこ濃いめの人生経験の中で培われた勘が、不自然なタイミングで不気味な警鐘を鳴らす。


 「ヴァン、お前は格下を過小評価するきらいがある」——どうして、ここでロイ先輩の忠告を思い出したのか。


 そして。どうして俺の右手は、シャロンの肩ではなく、あの悍ましいアルタリオンの仮面に触れているのか。


(俺は……シャロンを過小評価しているのか?)


 たとえば、靴下を用いて行った正確な投石。たとえば、豆粒ほどの大きさの人影を見つけられる視力。7歳児の身体能力としてみれば驚異的だが、あのアルタリオンならば息をするようにやってのけるはずだ。


 ……別人だ、と否定する材料はいくらでもあるのに、どうしても確認せずにはいられない。


 あのとき、アルタリオンは気付いていなかっただろうが。俺の《星の矢》は奴の仮面にたった一撃、掠ることに成功していた。


 だから、もしも。もしも、この仮面にあの一撃によって刻まれた傷があれば——!


(確たる証拠にはならないが……ッ!)


 たまたま同じ場所に同じような傷ができた可能性も、それこそアルタリオンがシャロンと己の仮面を取り替えた可能性だってある。


 だが、それでも。物的証拠としては、大きな物であることに違いはない。


 そっと、眠るシャロンから不気味な仮面を取り外そうと——決して、後ろめたい理由などないというのに——細心の注意を払って、俺はその疑念に手を伸ばした。




「あっは。バレちゃったァ?」




 まるで、俺の疑念を見抜いていたかのように。剥がれた仮面の下から、妖しく光る金色の瞳が俺を見つめていた。


「うぉわっ、お前……ッ!?」


「えへ、驚いた? もちろん、最初から起きてたよ。あとちょーっと、帰ってくるのが遅かったら寝てたかもだけどね!」


 心臓が縮み上がった、とは口が裂けても言えない。なにせ寝たふりという、怒ることさえ大人気なく思えてしまうような、子どもの可愛い悪戯だったのだから。

 

「うぉわっ、だってー。ふふ、お兄ちゃんって意外にビビり? こんなに悪戯のし甲斐があったなんてね」


「……馬鹿、そんなんじゃねえよ。ちょっとばかり、タイミングが悪かっただけだ」


 心臓の音が緩やかになるのを待ってから、ふう、と一息吐く。本当にタイミングだけが最悪だったが……思いの外早く、俺の心臓は復帰してくれた。


 シャロンがいつもの調子で喋ってくれているのもそうだが。なによりも、俺の手の上にある、アルタリオンの不気味な仮面に件の傷はことが大きかった。


 シャロンは、やはりあの場で俺とイフを襲撃した悪鬼外道ではなかったのだ。そのひとまずの結論に、身体と心がいつもの調子を取り戻してくれたようだった。


「お兄ちゃんはいっつもタイミングが悪いよね。女の子と花火を見ようとしているタイミングで、別の女の子を追いかけるなんてさ」


「煽ったのはお前だろ……。そもそも、俺とイフは——」


 付き合ってすらいない、友人未満の関係であったことを思い出した俺の口は、そこで言葉を区切り、そして訂正する。


「俺が恋愛的な意味で好きだったのはイフだぞ。恋愛の優先順位で考えれば、そりゃあ花火を一緒に見るならイフになるだろ!?」


「そうだねえ。子どもをこんなに長く人混みに置いて行くくらいだもんねえ?」


「それに関しては本当にすまないと思っているけどな! いや、こんなに時間が掛かるはずじゃ無かったんだよ!」


「ふぅん? なにがあったの?」


 痛いところを突いてくるシャロンに、俺は言い訳がましく言葉を続けようとしたが、何気ないシャロンの疑問に言葉が止まった。


「なにって、そりゃあ……子どもには言えないことだよ」


 便利な呪文であった。子どもの頃、大人から幾度となく聞かされた「子どもには言えないこと」。それがなにを指していたかは、今となっては分からないが……この場合、シャロンに話せば彼女に余計な恐怖を抱かせてしまう気がしたのだ。


 そもそも、だ。学園に魔族が潜んでいて、イフはその魔族の一人で。勇者の亡霊がお前の周囲に出現するから、魔族がお前のことも狙っているぞ——などと言えるものか。というか、言われても信じられまい。俺だって、他人から言われただけでは聞く耳すら持たなかっただろう。


「出た出た、子どもに言えない話。私、知ってるよ。そういうのって、だいたいえっちぃな話なんでしょ?」


 冷めたような視線を寄越しながら、シャロンはその可愛らしい口からとんでもないことを言いやがった。


「誤魔化したことは認めるが、話を変な方向に飛躍させるんじゃねえよ! 察しろとまでは言わねえけど、この俺の姿を見て桃色な展開があったと思うか!?」


「ないね」


「……まあ、ないんだけどな」


 即答されるのは、それはそれで心外である。我ながら気難しい男心だ。


「あれだけ変なことに首を突っ込まないって言っていたのに、そんなにボロボロになっちゃうなんてさ。どうせヴァンお兄ちゃんのことだから馬にでも蹴られたんでしょ」


「そんなところだよ。とにかく、お前を放置したのは全部俺の責任だ。そんで、イフのことも彼氏連中のことも、これっきりだ。シャロン、お前が気にすることはねえよ」


「ふぅん。フラれたんだ」


「……なんでそう思うんだよ」


「んー。女の勘?」


「ははは、ガキが女の勘か。笑わせるぜ、十年早いな!」


「あ、そう。じゃあ外れちゃった?」


「大当たりだよ、ちくしょう……」


 的中も的中、ど真ん中である。怖すぎるだろ、女の勘ってやつはよ……!


 惚れた相手が実は魔族でした、なんて笑い話にもならない失恋エピソードをシャロンに聞かせるわけにもいかず。俺はアルタリオンの仮面をシャロンに返しながら、彼女をベンチから立ち上がらせた。


「ま、大丈夫だよ! ヴァンお兄ちゃんはまだ若いし、生きていればイフお姉ちゃん以上にいい人が見つかるかもよ?」


「7歳児に若さで慰められる俺の気持ちも考えようぜ? なあ……!」


 ……これがイフの死と、俺の大規模な魔獣掃討作戦、そしてシャロンが大量の魔族に襲われる前に交わした、俺とシャロンのなんでもない会話であった。



 ヴィクトリア・ドルトーナの殺害とシャロン・ベルナを囮とした、彼女に憑く亡霊の討伐作戦——それは、つつがなく決行された。


 ヴィクトリア率いるシャロン、モニカ、そしてカルラの四人は、一人を除いてこの作戦の真意を伝えられていない。


 カルラと別れたヴィクトリアとシャロンには、総勢50名の魔装を持った魔族が襲う手筈になっていた。……そう、50名だ。私が《恋人の盟約》で操っていた、たった3人という質も数も劣っていた手駒とはわけが違う。


 一抹の不安があるとすれば……勇者の亡霊とされる人間の容姿が、シャロン・ベルナの目撃談と異なる点。


(シャロンはと言っていたけれど……)


 戦勝祭のあの日、アルタリオンと名乗った勇者の亡霊は……小さな子どもほどの背丈しか無かったのだ。


 無論、この重大な事実は紅魔臣に報告するべきだ。


(だけど……その事実を報告すると、ヴァンに私たちの秘密がバレたことも話さなければならなくなる……)


 ヴァン・ハンター。私を魔族と知りながら、今日この日までまったく行動しなかった人間の男。それが臆病ゆえなのか、それともなにか計算があってのことなのか。


(まさか、私にまだ恋をしているの? そんなわけ、ないよね)


 私に迷いがないと言えば嘘になる。このまま勇者の亡霊に関する人相を告げれば、ヴァンも殺されてしまう。勇者の亡霊が紅魔臣にどのように殺されようと構いはしないけれど……。


(どうせ、今日の作戦で勇者の亡霊の正体は嫌でも分かるわけだし。男の子一人くらい助けても、いいよね)


 恋をしたわけじゃないと、自分に言い聞かせても。ヴァンを振ってしまったあの日、小さな棘が魔核に刺さったような痛みの理由を知るまでは。


 ヴァンは、どうやら勇者の亡霊と目される人物を誘き出すために、大規模な魔獣の群れを追い立てる猟犬の任を与えられているらしい。勇者の亡霊は魔族や魔獣に反応して行動していると紅魔臣は睨んでいることから、次善の策として用意されたものだ。


 ……それに関しては私も同意見であった。なにせ、あのアルタリオンに扮した亡霊は、どのような手段を用いたのかは知らないが、私の正体を看破していたのだから。


 ならば、その目算は高い――が。本命は、シャロン・ベルナだ。

 

 カルラの報告から、シャロンと亡霊の関係は疑いようのないものであった。しかし、奴の口振りは「シャロンを人質にでもしてみろ」と言わんばかりのものであった。当初、そのような見え見えの挑発に紅魔臣は乗るつもりなど毛頭なかったようだが……じわじわと、学園内で私たちを蝕むように流された「魔族が学園に潜んでいる」という噂から、行動を迫られたことが、今回の作戦の発端である。


 そして、その作戦は順調であった。――少なくとも、ヴィクトリアの両腕が斬り落とされるまでは。


「……目が、潰されたわ」


 ぽつり、と。エルシャ様の言葉が響いたのと同時に。ヴィクトリアとシャロンの様子を映していた、魔獣の視界を投影していた巨大な5つの魔法鏡に亀裂が走った。


 それに呼応するように、ヴィクトリアとシャロンを見守っていた私を含めた学生魔族にも緊張が生まれた。エルシャ様とバニス様がなにか話しているが、それさえも耳に入らなくなってしまうほどの、静かな、しかし確かな緊張であった。


 まさか、50もの魔装と魔族をものともしないのか――いくらなんでも、それは考えられない。この場の誰もがそう考えていたが、私だけは違った。


(……あれが、本気じゃないとしたら。……考えたくは、ないけれど……ッ!)


 考えたくはない事実だが、しかし考えずにはいられなかった。


 おそらく、勇者の亡霊は――紅魔臣をもはるかに超えた戦闘能力を持つのではないか、という事実だ。


 三時間。その緊張は三時間続き、そして、それは唐突に終わりを告げた。


 


 突如、《至るための旅路》が私の眼前で開かれたのだ。


 


「は……?」


 突然の出来事で、思わず私は言葉を失った。なにせ、そこから転がり出てきたのは、魔族ならば誰もが知る、真っ赤な石だったからだ。


 ……魔族に対して最も残忍な手段で魔核が取り出されたことは、容易に想像がついた。


「ノー、ドス?」


 ノードス。バニス様が呟いた、その名は……この作戦における処理部隊を率いていた者の名前だった。


 つまり、この魔核はノードスそのもの、ということになる。……こんな姿になっても、魔族は死なない。息、ではなく、魔力による最低限の――本当に、本当に最低限の――延命こそしているが。今すぐにでも回復魔法を掛けなければ、ものの数秒で、その命の炎が燃え尽きるのを、私は確信してしまった。


(……ッ!)


 助けなければ。それは、決して尊い慈悲の心から来るものではない。


 私には、勇者の亡霊の目撃情報が彼の口から引き出さねばならない事情があった。


 なぜなら――きっと、私は恋をしているのだから。


「待ちなさいッ! 回復魔法をかけては――!」


 エルシャ様の制止さえ聞く暇はない。今、この瞬間にも、ノードスの命は尽きかけている。


 私は、躊躇うことなくノードスの魔核に


「逃げろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」


 まるで、それがなにかの合図であったかのように。ノードスの魔核は、その身のすべての魔力を振るわせて、最期の絶叫を放った。


 そして、それは単純な警告であると同時に。


 不可避の光を、この地下聖堂に放つ前兆であった。


 ノードスの魔核より、銀色の光が溢れ出す。それは、その色は……まるで、あの少女の髪の色に似ていて。


 全身を焼く銀の光を浴びながら、私の思考は最後の最後でようやく、愚かにも気付いてしまう。


(そう、だ……! 看破スキルを欺くほどの演技スキルが、勇者の亡霊に備わっていた……! そして、シャロンが口にしたエルシャ様への報告がそもそも欺瞞であったのなら……!)


 シャロン・ベルナが。


 シャロン・ベルナこそが――――――――。

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