離さないでね、お父さん

朝飯抜太郎

離さないでね、お父さん

「絶対離さないでね! 絶対だよ」

「わかった」

「絶対だからね」

 念を押す少女の目は真剣だ。後ろで自転車を支える中年の男性も彼女の目を見て真剣な表情で言った。

「絶対離さないと誓う」

「よろしい。じゃあ、行くよ」

 少女が前を向き、ふらふらと自転車を前に進めた。男性がそれを支え、後ろをついていく。

 やがて、ゲートを抜けると、さっきまで遠くに聞こえてきた歓声とアナウンスが、二人を包んだ。

「さあ! 全選手がスタジアムに姿を見せました! 皆さま、大変お待たせいたしました。第七十二回キチキチ補助輪外したて自転車レース開幕です!」

 一層、大きな歓声がうねりを上げて、スタジアムを揺るがす。


 キチキチ補助輪外したて自転車レースとは、自転車に乗る「ライダー」と、自転車の荷台を後ろから支えながら走る「サポーター」の二人一組の選手が、一周800mのコースを自転車で二周するレースである。シンプルながら、二人の技術を合わせた自由な戦型が人気のスポーツである。

 ここ頸椎薔薇競輪場は、地方ではあるが日本でも屈指の長いコースが人気であり、特にキチキチ杯と呼ばれる本賞レースは、賞金も高く、歴史も長く、選手やファンからも一目置かれる。

「レースから見上げる客席はまた違うな……」

「気圧されないでね。『お父さん』」

 歓声や怒号が響く中、少女―神宮寺アカネは微塵も気圧された様子はない。『お父さん』と呼ばれた中年男性―漆原賢治は、微笑んだつもりだが、ひきつった笑顔となっていた。

 ちなみに『お父さん』とはサポーターの通称である。

「心配することはないわ。あなたが離さなければ、私達の勝ちよ」

 アカネは薄く笑う。

 選手たちが横一列に並んだ。

 運命の号砲が鳴り、レースが始まった。



 号砲に遅れて、風とガシャガシャという金属音が一緒になった轟音が、スタート地点を中心に発生した。そして、音と一緒に選手たちや自転車が辺りに飛び散っていた。中心にいるのは、3メートルはあろうかという体躯の『サポーター』。特質である異常筋力により、自らの自転車を振り回して周囲の自転車を、文字通りなぎ倒していた。十数名を除き、その台風により、リタイアとなった。

「あ、あれはいったい」

 漆原は前を向いたまま呟いた。

「ぶっ壊し組ね。走るのを放棄して、ぶっ壊すことを至上命題とするタイプの選手」

「反則では? それか誰かに頼まれて……?」

「自分達が勝つことも考えてる。コースは二周回る。つまり、周回してきた選手を全て倒せば、自分が優勝というわけ」

「そ、そんなバカな」

 漆原は走りながら怖気を感じる。二周目、あの中に突っ込むのだ。

 すると、何かに気づいたアカネが鋭く叫んだ。

「まずいッ! 走りながら、地面から30度まで傾いて!」

「は、はいッ!」

 自転車を地面から30度まで傾ける。落車や転倒は、即失格だ。漆原は両手に満身の力を込める。

 スィン。

 その漆原の頭の上を、何か硬いものが通り過ぎた。そのあとからものすごい風が来る。風にあおられる形で、角度が戻る。

「い、今のは」

「後ろを見て見なさい」

 振り向いた漆原の後ろ、真っ二つにされた自転車や、客席の壁が吹き飛ぶのが見えた。一組の選手を除いて。

 その選手は自転車に乗りながら、両手を離し、抜き去った刀を鞘に戻していた。

 異常剣力の特質を持つ選手だ。

 もっと後ろで、あの異常筋力の男が上半身から血を吹き出して倒れるのが見える。

「こんなの、む、無理だ」

 漆原は叫んだ。

「ここまでで十分よ」

「えっ」

 その声をそこに残し、アカネと漆原の自転車はフィールドを飛ぶ。ドンっという炸裂音が何度か響く。アカネの足が地面を蹴る音だ。その度に、自転車は獲物に飛び掛かる猛獣のように、あるいは戦車から発射された砲弾のように、地面から地面へと飛ぶ。賢治の足は完全に宙に浮いている。脚が地面につくことはなく、地面に水平になったままだ。

 異常脚力。それが神宮寺アカネの特質。力の時間制限によりスタートからは力を発揮できない。またサポーターが手を放しても失格となる。

 砲弾のような自転車は、残りの選手を抜き去り、ゴールを駆け抜けて止まった。

 同時に漆原の足が地面につく。

「あ……はっはぁ」

 時間にして十数秒だったが、漆原にとって果てしなく長い時間だった。震える両手を見て、涙がこぼれた。

「離さなかったね。お父さん。偉い」

 荒い息をつきながら、神宮寺アカネは笑った。



「じゃあ、これが報酬ね」

 神宮寺アカネは、分厚い封筒から、半分を抜き出して、ランドセルに入れ、残りを漆原に渡した。もう息は落ち着いている。

「じゃあね」

 そう言って控室を出ようとした神宮寺アカネに、漆原は意を決したように声をかけた。

「あ、あの」

「何?」

「また、使っていただけますか?」

 神宮寺アカネは漆原を見て、微笑んだ。

「もちろん」

 そして漆原に背を向ける。

 小さく、「今度は離さないでね」と言ったのは、漆原には聞こえなかった。



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