某月某日

 お洒落シティ代官山の地を踏んだ。

 いえ、ありますよ、踏んだことは。ありますけれど。私のような武蔵野生まれ武蔵野育ち、人見知りお洒落音痴は滅多に行く場所でもないのです。

 今回は代官山蔦屋書店で行われた「SFカーニバル」という催しで、大好きな作家さんのスペシャルカードというレアアイテムを入手したかったのでお邪魔してきました。

 カードの配布時間は一日に三回が予定されており、私はもちろん、一番早い時間帯を選んで向かいました。だって人が少ないだろうから。そして午後になって人出が増える前に撤収したいから。

 イベントは薄曇りの空の下、用意されたいくつかのブースで開催されていました。作家さんによるサイン会のブースと、出版社さんによる書籍やグッズ販売のブース、そしてスペシャルカード配布用のブース。そう、サイン会。サイン会があったんです。もちろん、その列に並ぶことも少しだけ考えてみました。これまた大好きな作家さんが、自分の目の前で自分の為にサインを書いて下さり、しかもその間にお話が出来る……なんて素晴らしい、夢のような時間じゃないですか。うん、無理です。私のようなものが立つ位置として近すぎるんですよ、距離が。という訳でその案は却下して、おとなしくカード配布の列に並んでいたのですが。

 並んでいる間きょろきょろしていると、会場の敷地内を胸にネームプレートを下げた方々が行き交う姿が目に入りました。何気なく目をやると……あれ? あのお名前ってイベントのサイトで目にした某作家さんのお名前……。ん? あっちの男性のお名前も某作家さん……。ん? ん??? 空間がおかしい。小説家さんが会場内をうろついているなんて聞いてない。距離がバグっている。無理です!! 無理です!!!

 大好きな作家さんのスペシャルカードを入手する頃には私の神経は擦り減り、欲しかったアンソロ本とジャケ買いしたご本をレジに持っていくと速やかに書店を後にしました。

 電車に乗る前にコーヒーでも飲んで帰ろうと思い、駅前にあったブルーボトルに入りました。

「ブレンドのオ・レをお願いします」「キャンペーン期間中なのでミルクはオーツミルクに変えても良いですか?」「あ、はい」「こちらキャぺーンご参加のステッカーをどうぞ」「あ、どうも」とやり取りして、席に着くと窓辺のカウンターに座る人物が目に入りました。……知ってる、あの姿……どこかで……。と考えることしばし。わかりました、以前観たことのある舞台俳優さんです。ひえ。俳優さんが舞台じゃないところにいる。おかしい。距離が。バグっている。有名人のサファリ・パークなのか、代官山は。

 完全に焦ったまま、コーヒーの味もよく分からず、とにかく早く飲み干してここを出たい。でもブルーボトルってカップのふちギリギリまでコーヒーを提供してくれるお店なので(店内飲食用の陶器のカップ)、しかもややパンチの強い豆だったらしくなかなか飲み干せない。

 さっき購入した本を取り出して開く。少女小説家によるSFアンソロジー「少女小説とSF」。執筆陣がなんとも豪華。若木未生さん、ひかわ玲子さん、榎木洋子さん、新井素子さん、などなど……あら、前田珠子さんはご参加されていないのか。この辺りの作家さんの作品は中高生の私が図書館でホクホクしながらお借りしていた覚えがあります。懐かしい……。

 本を読む時、本の向こうに広がる世界の中にその半身を置き、もう半身は申し訳程度に世界の縁に引っ掛けたまま存在している……そんなバリアにもシールドにも似たものに、保護されるような感覚になるものです。本は味方。本は友達。無限に拡張できる世界であり、しかし、どこか他所他所しい隣人。


 夕飯の買い物を少ししながら帰宅して、キッチンで作ったサッポロ一番みそラーメンに生卵を落としたのを啜りながら「はー、落ち着く」と心の底から声が出て、まさおが当たり前でしょとでも言いたげに寝転がったまま尻尾をパタリと振りました。

 まさおくん、まさおくん。このくたびれた飼い主に今日こそお腹を吸わせてはくれまいか。警戒心の強さ、けれど、好奇心の強さも兼ね備えている愛らしい生命体よ。なんとも不器用で世界との距離を計りかねている飼い主に、自由に生きるコツを伝授してはくれまいか。

 箸を置いてにじり寄ると、当然の如く危険を察知して起き上がるまさお。伸びをして隣の部屋へと移動する足取りには何の迷いもありません。猫のような軽やかさを身につけたいなぁと思いつつ、後ろ姿を見送りました。

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