すみれ色に光る家

秋中琢兎

すみれ色に光る家

 もう今となればジョナサン・クレインの名を公衆の面前で口にしても、嫌悪の眼で見られることも無ければ、それを咎める人たちもいない。結局人間というのは、思い出すだけでも呪われそうな悍ましい事がいくら起きようが、次第にその記憶からは色が薄れ、白と黒すらも曖昧になっていく。ましてや他の関心ある出来事が起きてしまえば直ぐに自分にとって不要ないしは不都合な記憶というものは、ことごとく脳から排除される。これは決して悪いことではなく、むしろ太古より人間に備わった正気を守るため備わっている防衛本能とも言えるであろう。


 ただし、人間の記憶と違い、家や土地といったものはいくら記憶からは排除されようが、物理的には存在し続け建物が地震などで崩壊しようが、土地そのものが消えるわけではない。


 アーカムの人々が記憶から排除したその場所は、死神にも忘れられ時間という概念すら、無縁墓地に眠る屍のように朽ち果て、日に焼けた古い家のその窓辺には、灰色の塵が高く積り、奇妙なことに蜘蛛や鼠すらも居なくなってしまったのである。また建物に使われた木材でさえ、生まれ故郷である自然へ戻ろうともせず、ただそこに佇むだけだった。


 その記憶から消えた古い家はかつて、黄金色の小麦畑に囲まれており、それらが春のそよ風と共にワルツを踊り、幸せを歌う鳥たちが居心地の良さからか、よく屋根の下に巣をつくっていた。


 その家に住んでいたのは、フランスから移住してきたジョナサン・クレインとその妻エレーヌという人柄の良い若い夫婦だった。ジョナサンはその地に伝わる伝承を深く掘り下げ、研究するといった民俗学者であり若くして彼が書いた論文「アメリカとフランスの民俗学的共通点」が、その世界の著名人から高い評価を受けるほどに優秀だった。またその妻エレーヌも優しく隣人からも好かれ次第に彼らの周りにはいつも笑顔と人が集まってきた。もちろん彼らの娘であるエライザが生まれた時などは、ほとんどの住人が彼女を抱いたほどだ。


 だがある時、妻エレーヌが夫と娘を残し結核によってこの世を去った。生来病弱だったエレーヌの病気は進行も早く、吐血し医者に見せたときにはもう遅く、その数時間後には亡くなった。ジョナサンはそれ以降、人と関わることをやめ、娘のエライザと共に家に閉じこもるようになった。


 ジョナサンやエライザを心配した住人は確かにいたが、時折彼の自宅から漏れる奇妙なすみれ色の光に怖気だし、わざわざ訪れるものも話に出すものすら居なくなった。


 あの、アーカム全体に嵐のような風が吹きすさび、やけに野犬が吠えていた日。

 恐ろしいことが起こった。


 ボストンから派遣され、巡回中だった新人警官が目撃したのは、彼の自宅の窓から煌々と漏れ出したすみれ色の激しい光だった。不審に思った彼はその家へと訪れたが、彼はそこで悍ましい音を聴いた。まるで洞窟の中で銅鑼を叩いたかのような反響し、低く唸る音が家の中から絶えず聞こえたのだ。またジョナサンの自宅の周りは、まるで空気の密度を極限まで高めたかのように息がうまく出来ず、激しい不快感と頭痛を引き起こさせた。


 警官が玄関扉を開けたときには、その不快な音はさらに酷いものとなり、そこで初めて彼は「おーんおーん」という頭蓋の中で脳をかき乱されるようなその音が、人間の声である事に気が付いた。また非ユークリッド幾何学と西洋黒魔術を混ぜたかのような奇妙な図形が、壁や床一面にぬらぬらとした粘性のすみれ色の液体で書かれており、不思議なことに家の中にあった塵や小石などが宙に浮かんでいた。


 世界が非現実的に見えるほどの光景と、目を覆うほど輝くすみれ色に満ちていた家の中で、さらに警官を恐怖させたのは、床に刻まれた奇妙な図形の中心に小さな赤子のようなものが置かれていたのを見つけた時だった。

 どんなに大声で呼びかけても家主であろう男は床に座り込んだまま、両手で奇妙な印を結び縦に揺れながら、奇妙な図形の中心に向かい「おーんおーん」と声を発していた。


 警官が拳銃を取り出し、警告しても男はくぐもった笑い声を喉の奥からただ漏らすだけで、その後警官が行った警告の発砲をも無視し再び「おーんおーん」と詠唱を続けた。


 突如、その名状しがたき詠唱に呼応するかの如く地面が震え始め、勢いはついに最高潮に達した。すると奇妙な幾何学模様の中心から、赤子を媒介に―蛹から蝶が生まれるがごとく―形容しがたい蠢くものが現れた。


 その蠢くものは、まるで馬と人間の赤子を溶かし関節や生体機能などを無視して融合させたようなグロテスクな姿だった。それが男から未だ発し続けられる不気味な不協和音と共に蠢き、一度聞けば正気を失うような粘性の音を立てながら創造主である神を冒涜するかのように醜くも生を受けようとしていた。


 そして蠢き続ける化け物が、しわがれた魔女のようなくぐもった声かつフランス訛りの英語で男の名を発したのを聞いたとき、警官はあまりのおぞましさに家から飛び出してしまった。


 警官が応援を呼び、ふたたび戻ってきたときには、辺りに炎が見当たらないのにも関わらずジョナサンの家とその半径1㎞ほどは空襲にあったかのように焼け焦げており煙と共に、肉が腐敗したときに発せられるような生暖かい酸味のある異臭を放っていた。


 だが現場にはすでに家主のジョナサンはおらず、代わりにがらんどうの蛹のようになった娘エライザだったであろう肉塊と、この世のものとは到底思えない異形の頭蓋骨と大腿骨またその他内臓が発見されただけであった。

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すみれ色に光る家 秋中琢兎 @akinaka_takuto

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