はなさないで

@yanenite_yoru

第1話

 ずるっと手から滑り落ちてしまいそうで、離してはいけないと強く握り直した。

 ここで手を離したらもう取り返しがつかなくなってしまう。

 沢山の人が群れになっている。あたりは騒然として、様々な叫び声が交差している。


「離さないで」

 雑音の中ではっきりと聞こえた彼女の叫び声に力強く「分かってる」と返す。俺たちは崖っぷちにいるんだからここで諦めることなど絶対にできない。

 彼女は悲痛な面持ちでこちらを見つめている。この海の中に落とす訳にはいかない。


 額から汗が流れる。全身に鳥肌が立つ。汗で滑って落としそうになった。

 寂しい食卓が頭に思い浮かんでしまう。

 最も安定して掴めている感覚がある。引き上げるなら今に違いない。ぐっと手に力を込めた。このタイミングを逃す訳にはいかない。


 そしてしっかりと掴んだまま、左手に持っている袋へ勢いよく手を突っ込んだ。

「よし!」

 ビニール袋の中にごろごろと栗が入る。ずっしりとした重みを感じる。ワゴンの周りに集まっている他の客たちも歓喜あるいは無念の声を上げている。一面に広がる栗の海に多くの人が手を突っ込んでいる。後ろで自分の番を待つ人達も応援や急かす言葉を叫んでいる。

 彼女も袋を見て「結構いいんじゃないかな」と目を輝かせている。ちょうどいいタイミングで声をかけてくれた彼女に感謝する。


 今日はスーパーマーケットの掴み放題セールの日で、誰でも一度だけ挑戦できる。片手で掴み、落とさずに袋に入れられた商品は破格で買えるのだ。

 筋が千切れそうなほどできるだけ大きく手を広げて、一つでも多くの商品を得ようと客たちは躍起になっている。

 依然として経済的な崖っぷちには立たされているものの、これも今日の晩御飯で腹を満たす足しにはなるだろう。たらこ数粒で茶碗を空っぽにするような、ほとんど何もない食卓を前にしなくて済む。

 しばらく極度の緊張状態にあり力が入りすぎたあまり右手にはまだ脱力感が残るが、かえってうまくいった喜びをひしひしと感じられた。

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