母校を爆破したい僕のこと

陽澄すずめ

母校を爆破したい僕のこと

 赤い風船が青い空へと吸い込まれていく。それが僕の人生で最も古い記憶だ。

 ほんの少し、指先を緩めるだけで良かった。幼い僕がしたのはそれだけだ。それだけだったのに。紐から手を離したらどうなるか、想像しなかったわけではなかったけれど。

 あの風船は、二度と手の届かないところに行ってしまった。

 両親が僕のために買ってくれたという意味において唯一無二の個体であった風船は、それにも関わらず決して僕の手元には戻らないものとなってしまったのだ。



 ところで、母校に爆弾を仕掛けた。

 僕は母校の裏手にある川べりに腰を下ろしていた。ぼやけた白壁の校舎を、錆びついたフェンス越しに透かし見る。

 予告状も何も出していなかった。それは単に母校を傷付けるためだけの爆弾だった。


 僕の母校は国内でも有名な美術科の高校だ。

 地元中学から推薦をもらって入学した僕が、それまで持っていた過剰なほどの自信を見る影もなく打ち砕かれるのに、大した時間はかからなかった。自分は特別でも何でもない凡百の存在なのだと、いま思えば至極当然であり、当時の僕にとっては残酷極まりない事実を眼前に突き付けられたのだ。

 そこから奮起できれば良かったけれど、僕にはその力すらなかった。

 推薦をくれた中学の恩師を恨んだ。お前には才能があるはずだと背中を押してくれた両親を恨んだ。周りに煽てられさえしなければ、わざわざ惨めな思いをすることもなかったのに、と。

 何者にもなれないと悟った僕は、今、三流大学で心理学を学んでいる。絵筆など二度と握らないと心に決めていた。

 美術とは無関係の道を選んだ自分は、さぞ母校の名を穢したに違いない。胸がすく思いだった。ざまあみろ、と。どんな形であれ傷を残してやった、と。それだけが己の存在証明だった。


 ただ、卒業間際に後輩から贈られた言葉だけが、僕の胸で燻り続けていた。


「先輩の絵がすごく好きです」


 僕とは比べ物にならないほど優秀な後輩だった。有名なコンクールでいくつも賞を獲り、美術雑誌の取材も受けていた。そんな後輩が、僕などの絵を好きだと言った。

 ひどい屈辱を感じた。上から見下して、憐憫の情で以てその言葉を口にしたに違いない。

 臓腑が煮えくり返ったが、同級生や先生方の手前どう答えることもできなかった。とんだ卒業祝いだった。


 先日、同級生たちと共に後輩を見舞う機会があった。長年続いているくだらない慣習だ。

 断っても良かったが、他の奴らが落ちこぼれの僕を腫れ物扱いするのが見たくて、順風満帆に輝かしい道を進む恵まれた奴らの作る空気を台無しにしたくて、ただそれだけのために参加した。

 

 そこで、例の後輩から追撃を受けた。

 僕の姿を見るなり、後輩はパッと笑顔になった。


「先輩! 来てくださったんですね!」


 勘に障るほどの華やいだ声だった。僕の助言の欲しい者など一人もいないだろうと、そう思っていたのに、彼女だけは積極的に僕に話しかけてきた。

 あまつさえ「先輩のあの絵の雰囲気に憧れて、真似てみたんです」などと、コンクールでは箸にも棒にも掛からなかった絵のことを言ってくる。トロフィー常連の彼女が、だ。


 彼女の言う僕の『あの絵』とは、青い空に赤い風船が浮かぶ、何の面白みもないものだった。


 彼女の描いている絵は、僕のものより数段出来が良かった。だが彼女の口調から、その言葉に嘘偽りのないことは確かなようだった。


 だから僕は、爆弾を仕掛けることに決めたのだ。


 ちょっとネットを漁れば、爆弾の作り方はすぐに出てきた。材料を集めて、解説通りに組み立てる。あまりに簡単だった。あの不遇の日々に比べたら。

 母校へは、先日の訪問の際に忘れ物をしたと告げたら何ひとつ疑われることなく侵入できた。注意するほどの人物ではないと思われていることが、気に喰わなくて愉快だった。

 そうしてまんまと目的の位置に手作りの爆弾を設置した。あの、後輩が好きだと言った、僕の駄作が置かれた棚に。それがつい三日前の話だ。



 いま僕はスマホを片手に、どうにも動けずにいた。画面のボタンをタップすれば、仕掛けた爆弾が起動する仕組みだ。

 ほんの一度、これを押すだけでいい。結果どうなるか、十分すぎるほどの想像をしていた。

 今日は創立記念日で休校なので、生徒はいない。教師も数えるほどしかおらず、爆弾は職員室から最も遠い第二美術室の準備室の棚の裏。これが木っ端微塵になったところで、怪我人が出るはずもない。

 せいぜい、間抜けな教師がようやく僕という不審人物の存在に思い当たり、警察が僕を逮捕しにくるのが関の山だ。また母校の名前に傷が付く。僕が母校に傷を付ける。あの後輩はどんな顔をするだろう。

 それで良かった。そうなれば良いと思っていた。


 だけど。

 あと五分経ったら。三分経ったら。あのスズメがこちらに来たら。車が三台通ったら。意味もなくタイムリミットを引き延ばしたところで、どうにも踏み切れない。

 川にかかった橋を五台目の自転車が通過したところで、やっとボタンに指を伸ばしかける。


 不意に、土手の下の小さな遊歩道を一組の母子がゆったりとした足取りで歩いていくのが目に入った。

 その幼子の手の先で、赤い色の風船が揺れる。かつて僕の失ったのと同じ。

 ずきりと、忘れたはずの傷が疼いた。同時に、美術準備室の古びた棚に——自分の描いたあの絵の間近に——爆弾を仕掛けた瞬間のことを思い出した。

 知らないふりをしていただけで、二つの傷はとても近いところにあった。風船のことも、不注意ではなく故意だったのだ。


 突然つむじ風がびゅうと吹きつけた。あっ、と小さな声を聞いた時には、風船は子供の手を離れていた。

 視界の中でも不自然に主張する赤は、風に乗って僕の方へと飛んでくる。顔にぶつかるのを防ごうと翳した手に、細い紐が絡んだのはどんな運命の悪戯か。


「ありがとうございます!」


 母親が土手を上がってくる。僕は曖昧に笑んで、赤い風船を返した。それはそのまま、元の持ち主の手へと戻る。


「ほら、もう離しちゃ駄目だよ。お兄さんにありがとうは?」

「ありがとー!」


 舌足らずなお礼を受けて、僕はますます身動きが取れなくなった。無理やり作った笑顔はさぞかし下手くそだっただろうと思う。


『離しちゃ駄目だよ』


 在りし日の僕自身の記憶に重なる声。

 母子と赤い風船の姿が見えなくなってから、僕は起爆スイッチの画面を消した。


 ……罵ってくれたら良かったのに。

 誰も彼も、僕をなじってくれたら良かったのに。

 見放してくれていい。僕だってほとほと自分にガッカリしている。慰めないでほしい。僕の良いところなんて探さないでほしい。

 絵を描くのが好きだった。だけどそこから道は伸びていなかった。代わりなんていない。僕の代わりなんていないのに。

 愚かで無価値な僕を肯定しないでほしい。おかげでどこにも行けやしない。

 手放したくてもできなくて、こんなに無様で捻くれた方法を選んでしまうほどに。


 あぁ、でも。

 幸か不幸か、繋ぎ止めてしまった。

 僕を正しく否定できるのは、きっと他でもない、僕自身だけなのだ。

 誰に見放されたとて、自分で手放す選択をするのは。


 僕はスマホをポケットに仕舞い、立ち上がった。

 見上げた青い空には、赤い風船の残像がくっきりと焦げ付いていた。



—了—

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