カーテンコール ――向日葵のバトン――

 兄夫婦は神社での神前式、のち移動して食事会。姉夫婦は教会での挙式のみ。朱莉あかり柊吾しゅうごは、専門式場内での教会式に、披露宴ほど固くない祝宴。


 本日の主役、はる結衣ゆいは。

 呆れるというか、感心するというか。片時もじっとしていない新郎新婦を、樹生たつきはふたりらしいと思う。


 晴天に恵まれた五月の良き日。


 森の教会なんて表現が似合うチャペルで挙式、隠れ家みたいな小さなゲストハウスで食事会。両家親族といつもの高校同級生組に、職場関係者が少数招かれている。


 食事会場を、主役ふたりが酒瓶片手にずっと歩き回る。スタッフに混じって料理をサーブする。挙式の間はボリュームあるウェディングドレスで裾を引きずっていた結衣だが、すとんとしたくるぶし丈ドレスに衣装替えしている。機動力重視の花嫁だ。


「朱莉、大丈夫? お腹張ってない? 休める部屋も用意してるから」

「全然平気だって。それより、結衣も食べて」

「ちょこちょこ食べてるよー」

「ほら、ゆいこ。あーんして。餌付けしてやろう」

「えー、織音おとちゃん優しい」


 何年経っても彼女らの親密さは変わらない。けれど、それぞれの状況は変化していく。同級生が新たな命を宿しているというのは、不思議なものだ。


「樹生、飲む?」


 背後から悠が声をかけてきた。


「いや、もう充分」

「そっか。楽しめてる? 三原さんと中庭とか散歩してくれていいし」


 長年の友人だ。樹生がこういう席を苦手とすることを、悠はよくわかっている。親子や家族の繋がりを強烈に浴びるようで、息苦しくなることがあるのだ。


 けれど、今日はいい。


「楽しいよ。気ぃ遣っとるんやなくて」


 織音が席を立って、朱莉の後ろで結衣と肩を抱き合う。柊吾がスマホを向けて、三人を写真に収める。長い付き合いで珍しくもない光景が、眩しく見える。


「こういうの、ええなぁて思うわ」


 すると、悠が瓶をテーブルに置いて手招きしてきた。席を離れ、ともに壁際へ。サプライズスピーチでも頼まれるのではと警戒すると、悠はことさら声を潜めた。


「ブーケは、重い?」


 ぽん、と。

 背中を叩かれた気がした。


「今日のブーケと同じ花で作った、小さいやつ。やっぱり家で飾ろうって、結衣さんはぎりぎりで諦めちゃったんだけど」


 さり気なく目をやれば、楽しげな織音が朱莉の腹部をなでている。大きくなれとか、いっぱい遊んでやるとか声をかけているのだろう。姉、都美みやびの妊娠中も織音はそうしていた。


 甥の浩晴こうせいがそんな織音のことを「おいちゃんのおよめしゃ」と呼んだ。そのたび、織音は「違うよー、織音ちゃんだ!」と笑いながら訂正してきた。いまやすっかり「織音さまー」だ。


「感謝の気持ちだから、演出とか無しで、裏で渡すつもりで。それでも重かったら」

「いや」


 悠の気遣いを半ばで止める。


「渡したげて。兄貴のときも姉貴のときも。織音、受け取らんかったんや」


 席に戻った悠が結衣に耳打ちする。ぱっと笑顔を咲かせた結衣が、今度は織音の耳元でこそこそと。幸せをリレーしているようだと思っていたら、戸惑った顔の織音がこちらを見た。


「織音が要らんのやったら、オレがもらおかな」

「ぅえ!? ダメダメ、あげないっ!」


 いつもどおりの賑やかな反応の終わりに、はにかみを足して。織音はドレスやブーケの話で朱莉と結衣と盛り上がり始める。悠は安心した顔で、スタッフに話を通しておくからと離れていった。


 そんな友人を見送って、樹生は椅子を柊吾へと寄せる。


「柊吾さん。一個訊いてええ?」

「一個と言わず、いくらでも」

「結婚最大のメリットて、柊吾さんにとっては何?」


 隣家で、親公認で。柊吾と朱莉はそもそも家族同然だった。そこから正しく家族になることに、どれだけの利があったのか。


「それはもう、朱莉が妻になること」

「いや、そらぁ、そうですけど」

「もっと言うなら。朱莉のために真っ先に動くべき人間は俺だって、法律が認めてくれる。もしものときなんて、あまり考えたくないことだけど。最初に連絡が来るのも、手術の同意書にサインするのも家族。夫って肩書がないと、面会すらできないかもしれない」


 人によっては、責任とか義務とか、そんな名で呼ぶようなことを。柊吾は公的に保証された権利だと言いきる。


「仁科の両親を心から尊敬してる。けど朱莉に関しては、俺が誰より優先されたい。親にだって譲りたくない」


 なるほどな、と。重量大きめの愛で妻を見守る夫の顔を眺めた。



 * * *



 玄関に紙袋ふたつを置いて、ふっと息をつく。


 引き出物だけならまだしも、引き菓子まで樹生と織音で品が違う。朱莉たちの式でもそうだった。友人らの気遣いを申し訳なく思うのはこんなときだ。


 織音はミニブーケを早速シューズボックスの飾り棚に置いてご満悦だ。底に保水ゼリーが入っていて、花瓶要らずでそのまま飾れるのがありがたい。白と淡い黄色を基本に薄青の花を少し。アクセントに一輪入った小ぶりなひまわりが目を引く。


「ひまわり盛り込んだの、絶対こざーくんだ」

「悠の好み全開やったな。ゆいこちゃん、髪にもミニミニひまわり付けとったやろ」

「ね! ヘアアレンジ可愛かった。妖精かよー。あれ、たっつもできる?」


 三年半、願掛けのように伸ばし続けた髪を、結衣は左側に寄せて複雑に編み込んでいた。生花で飾った華やかなアレンジは結婚式ならではだ。


「ブライダルアレンジはさすがに厳しい」

「んじゃ、あそこまでじゃなくていいや。あとで髪いじってよ」


 屈託なく笑った織音は、「あ!」と声を上げ、紙袋をせっせと廊下の奥に避難させる。


「靴履いたままで待って」

「どないしたん?」

「今日のたっつ撮りたい! 黒スーツ!」

「スーツぐらい出張行く時で見てるやん」

「色が違うの。右寄せ前髪も久しぶりだし」


 荷物をよけた織音はスマホをこちらに向け、後ろ歩きで廊下をじりじりと下がった。


「かぁっこぃー」

「織音の目には、なんかフィルタ付いとるんやろなぁ」

「カッコよさに目を灼かれない保護フィルタだ!」

「べた褒めするやん」


 何度か画面をタップした織音が、満足げにスマホをおろした。両手に紙袋を提げ、奥のリビングに入っていく。


 樹生も靴を脱いで彼女のあとを追いかけた。夜に向かうリビングはやや薄暗く、明かりをつけるかと入り口の壁に手を伸ばす。


 隅に荷物を置いてジャケットを脱いだ織音が、大きく伸びをした。


「はー、楽しかった。一緒にお呼ばれするのはこれが最後かな」

「せやなぁ。悠の式も終わったら……」


 スイッチまであと少しのところで、唐突に現実が降ってきた。


 もう、共通の友人はほかにいない。これからは、それぞれが知人の式に呼ばれるだけになる。


 俊也からも都美からも、ふたりで式に呼ばれたから。いつの間にか認識がぼやけていた。「おいちゃんのおよめしゃ」じゃない。「織音さま」だ。


 彼女は、三原織音で。

 自分は、高砂樹生で。


 同居人だ。ふたりでいることを当然と扱ってはもらえない、何の権利も保証されない他人なのだ。


 織音がこちらに背を向けて、ベランダに面した窓の外を眺める。樹生は明かりを灯せないまま、その場に立ち尽くす。


 軽口で濁しながら、結衣と同じアレンジをしてみたいと言った。もう樹生と一緒に参列することはないのだと、伸びで誤魔化しながら口にした。


 付き合ってから、一度も樹生に望まなかった。ブーケすら断り続けた織音が。

 ひまわりのブーケを受け取った今日。六年経って初めて、願い事のひと欠片を落とした。きっと、無自覚に。溢れて、零れ落ちた。


「……織音」


 振り向いた織音が「なぁにー?」と首をかしげる。パーティドレスを着て薄暗いリビングで微笑む彼女の姿に、胸を締めつけられる。


 いま、ここに。式場のスポットライトのように、夕陽のひと筋でも射していてくれたら。


 ――見たい。


 ぶわりと波打つ感情に、理性がブレーキを引こうとする。間違えるな、高砂樹生に彼女を縛り付けるなと。その理性に摘まれる前に、がなり立てる欲望を心臓へ送り込んだ。


 あまりの痛みにぐっと胸元を握りしめる。ここで足を止めろというものは理性なんかじゃない。ただの弱さだ。


「樹生!? どしたの!?」


 慌ててこちらに駆け寄ろうとする織織に、待ってくれと片手を突き出した。不安げな彼女に、樹生は首を振って笑いかける。


 欲しい。彼女のとなりの席が。そこに座ることを当然とされる名が。

 強欲と嘯きながら無欲を貫き続ける彼女の、閉じ込めてしまった望みをどうしても叶えたい。


 だったら声を出せと。伏せていた顔をぐっと持ち上げた。


「ごめんな、織音」

「何、が?」

「織音をもっと幸せにできるやつが、どっかにおるんかもしれん」

「だから! あたしはそんなの要らな――」

「けど。オレ、そいつのこと越える。絶対、織音に後悔させへんから」


 大きく見開かれた織音の目に、自分はいま、どれほど頼りなく映っているだろう。喉が閉まろうとする。両足にすがりつく過去に引きずり落とされそうになる。震える手は、握りしめてもきっと隠せていない。


「オレの生涯に関わって欲しい。織音の生涯にオレを関わらしてくれ」


 たったひと言にできるはずの望みが、すんなりと言えなくて。口に出すのが恐ろしくて。遠回りして、遠回りして。それでもどうか伝わってくれと、駄々をこねるように声を張っていく。


 間違いでもいい。あらゆる誠実を尽くして、この選択をいつか正しいものにしてみせるから。


 ――愛してる。だから。


「一生! オレのそばにおってくれ!」


 首筋を汗がひとつ伝った。

 押し寄せる膨大な後悔に抗って、前を向き続ける。


 織音がゆっくりと歩き出した。一歩、二歩。樹生にはスローモーションに見える歩みが、あと一メートルで止まった。彼女は無の顔で、胸を張るように両腕を広げる。


「ん」

「……ほん?」

「これ、やって」

「深呼吸かなんか?」

「よし、そのまま踏ん張って!」

「は!?」


 軽く開いた胸に織音が飛び込んできた。思い切り体当たりされ、樹生は足を開いて踏みとどまる。


 背中に腕を回してしがみついてくる織音を、呆然と見つめた。


「な、に、しよるん」

「お祝いのハグぅ! あたしの彼氏が凄すぎる!」

「あの、お返事。てか、伝わっとる?」

「伝わってるし、イエスしかない! だいたい、そんな誓いがなくたってあたしは別に良ッ、か……」


 声がひっくり返り、不自然に切れた。


「……織音?」

 

 華奢な肩が、背中が震えている。


「良かった、んだよ? このままでも、ずっとそばにいるって」

「オレが嫌なんや。ドレス着て、ブーケ持って。みんなに祝われてる織音を、いちばん近いとこで見たい。そういうかたちが、どうしても欲しい」


 とん、とんと。しゃくりあげる織音の背中を軽く叩く。


「ありがと。あたしの手、離さないでくれて」

「……そんなん、オレのセリフやて」


 のちの幸せのために、いまの苦労がある。

 そんなものは、幸福を手にした者がおのれの過去に捧げる慰めでしかない。いま苦労の渦中にある者にかける激励としては、あまりに無味で、あまりに空虚だ。


 小さなパンひとつを何日にも分けてしのぐ。変色した野菜の切れ端を奥歯で噛み続けて紛らわす。のちの幸福を捨てれば握り飯ひとつをやると言われたら、それがいかなる悪人の手であってもすがりつきたかった。天秤にかけるまでもない。


 奇跡のような何かが落ちてこなければ、あの日々に慰めをかけることなどない。口先でどんなに綺麗事を並べても、腹の底ではずっと恨み言にとぐろを巻かせてきた。


 だから、いま。

 声をかけることができる。六歳の、七歳の、十歳の、十四歳の自分に。

 街灯ひとつきりの公園で馬鹿騒ぎに巻き込まれ、腹に煙草を押し当てられ酒を口に流し込まれて。一食を得るために見知らぬ女に絡みつかれ、シーツを握りしめ声を殺して耐えた夜に。


 おまえにも、得難いほどの幸福がくる。その夜の先に、彼女がいるからと。


「ありがとう。オレと、出会ってくれて。諦めんと一緒に歩いてくれて。織音がおったから、こんなとこまでこれた」


 織音がゆっくりとこちらを見上げた。涙のままに微笑んで、彼女が手を伸ばしてくる。ひたいから、こめかみ、そして頬へ、輪郭を手のひらでなぞって。卵でも抱くように樹生の両頬を包み、彼女の唇が祝福を紡いでくれる。


「愛してる」


 織音の手を頬から外し、こちらの首に回してくれるよう導く。背中に手を添え引き寄せて、深く口づける。息継ぎに離れて、もう一度。名前を呼び合って、もう一度だけ。

 頬を濡らす温もりが、織音の涙だけではなくなっていく。彼女の前でしか開かない感情の出口が、樹生にはある。


「あーぁ。明日、顔腫れるんちゃうか」

「いいじゃん、一日おうちでゴロゴロしよ」

「ええなぁ。寝坊して、朝兼昼飯食うて、暇やなぁて言ぉ」

「最っ高だぁ」


 体を離して、織音が手の甲で涙を拭った。それから気恥ずかしそうに彼女は言う。


「あたし、高砂織音になるんだ」


 陽も沈みきっただろうに、遠くでカラスがひと鳴きした。


 樹生は視線だけをメトロノームみたいに右へ、左へと動かす。困惑を落ち着かせるために、リビングの明かりをつけに行く。


 ぱちんと明るくなった部屋で。たっぷりと間を空けてから、樹生は口を開いた。


「三原樹生やろ?」

「……ん?」


 ずっ、と鼻をすすり、織音がぱちりと瞬きする。何をそんな意外そうにしているのか。いやいやと樹生は右手の指をそろえてぱたぱた曲げ伸ばしした。


「よお聞いてな。たかさご、おと。んで、みはら、たつき」

「ふん?」

「三原樹生のが、断然響きええやろ?」

「ひびきぃ?」

「めっちゃええやん、三原樹生。ひらがなにしたら一個減るし、簡単になるやん」

「一個じゃん!」


 織音は置いてあったバッグからスマホを取り出して、何か調べ始める。


「ほら! 三原は全国三万人、高砂は三千人。ひとけたも違う。増やそうよ高砂を!」

「レアさとか、ええねん。オレ、夜診連れてって三原さーんて呼ばれたときから……ぁ」


 樹生はぱふっと片手で口に蓋をした。織音が腰を曲げ、上目遣いでこちらをうかがってくる。


「たーっつ?」

「ちゃう……なし。いまのは、なし。ちゃうねん」

「いやいやいや。聞き逃がせないでしょ。どんだけ前の話」

「逃せる逃せる。織音はできる子や。着替えよ、な?」


 リビングを出ようとすると、織音にくるりと回り込まれた。


「ずーっと気になってたんだけど」

「なに、が?」

「いつからあたしのこと好きなの?」

「……勘弁して」


 その場にしゃがんで顔を伏せたら、ぷすぷすとつむじをつつかれる。粘ったものの、織音のおねだりが上手すぎて。樹生は首から上を沸騰させながら「家庭教師カテキョやるて言い出した頃には……すでに」と白状した。




 この三原・高砂論争にはけっこうな時間をかけ、最後は呆れた伊澄いずみから「じゃんけんで決めぇや、もう」と言われるに至る。


 三本勝負は決戦にもつれ込み、婚姻届は夫の氏にチェックをつけて完成した。


 緊張気味の織音が、忘れ物チェックに指を折る。肝心の届出用紙をテーブルに置いたままなことには気づかない。樹生は笑いを噛み潰して、用紙の入ったトートバッグを掴んだ。


 玄関に飾ったミニブーケはさすがにくたびれてきたが、ひまわりは花びらを一枚も落とさずに頑張っている。


「長いリレーやったなぁ」


 朱莉のブーケは、遠恋一年を迎えた結衣に。三年を経て、今度は結衣から織音に。


 どうにか、アンカーという大役を務められそうだ。ひまわりを軽くつついたら、織音が袖を引っ張ってきた。


「どうかした?」

「いや。ほな、行きましょか」

「はーい」


 出会ってから十年目、五月の終わり。

 表札を高砂ひとつに変え、合わせる手と手はいつもと変わらない貝殻繋ぎで。


 今日、なんの記念日でもない晴れた日を。

 ふたりで特別な日に変えに行く。




〈 降恋ぽつぽつこぼれ話―――完 〉

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降恋ぽつぽつこぼれ話 笹井風琉 @chichiibean

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