降って降られた恋の先(後編)
何度も口を開いては閉じる。陰から投げつけられ続けた悪意は結衣の胸に溜まり、ぎじぎじと耳障りに鳴っている。いまの自分に備わる言葉は、そんな悪意に研がれた刃だ。
学内では手を繋がず、キスまでの八ヶ月を笑われて以来、恋愛話には一切乗らなかった。キス以上の進展がないのは事実だから、小学生の交際だと揶揄されても異論はない。このゆったりした歩みを、他人に理解されなくていい。悪意を放ってくる彼女らよりも、悠を理解しているという自負があった。悠がくれる強い自信で戦ってきた。
けれど、崩れた。親友たちからの嬉しい報せで、焦燥という面倒なものに火を灯した。
「クマ、じゃ。ままごとなんだって」
悠は面食らったような顔をしたあと、ぐっと眉をひそめた。
「誰かに、言われた?」
たと、たと、と。膝に乗った悠の腕に、雨を降らせてしまう。ずっと大事にしてきたものを、自分で否定するようで痛い。
「陰でみんな、うるさくて。でも、そんなので焦ってる自分が、いちばん嫌」
焦ってる、と。悠は小さく繰り返し、何かに気づいたように、しかめた顔をほどいた。浴衣の袖で結衣の涙を吸い取る。
「俺の勘違いだったら笑って。先に進まないことで、不安にさせてる?」
いざ言葉にされると、羞恥心が高々と跳ね上がる。首から落ちるようにうなずいたら、穏やかな声で「そっか」と受け止められた。
「まず、陰口問題。今度から、ちゃんと共有しよう」
「悠くんに聞かせたくない」
「一緒に怒るから大丈夫。ひとりで抱えられるほうがつらい。何がままごとだよ。本気だから耐えてるのに」
「……耐えてるの?」
悠は首筋に手を当てて、困ったように笑う。
「啓史くんから、いろいろ聞いてて。お父さんがかなり古風だとか。大学に上がるときの門限交渉、大変だったって話も。だから、結衣さんが後ろめたさを感じるような付き合いかたはしたくなかった」
知らぬ間に弟から情報が漏れていた。こんなに正しく性格を掴まれていては、うなずくしかない。いざそうなったとして、後から罪悪感を覚えてしまう自分を容易に想像できる。
申し訳なさに結衣が身を硬くすると、悠は首を横に振って立ち上がった。広縁の隅に固めた荷物に向かい、旅行鞄を開けて、中からまたも封筒を出してきた。今度はA4サイズだ。
「それで今回、もうひとつ許可をいただいてきました」
戻ってきた悠が、結衣の側でぴしっと正座した。結衣も慌てて椅子から降り、向い合せで同じように座る。
「これから。大変だけど、一緒に乗り越えたい。というか意地でも越える。こっちにいたって会社が違えば予定は合わないし、結衣さんに惹かれる人は間違いなく出る。となれば、遠地から一途に思い続ける俺のほうが希少価値という点で優位ではないでしょうか。結衣さんにおかれましては、そんな俺の奮闘にどうぞご期待いただいて」
「悠くん?」
「……ごめん、変な方向に加速した」
悠は大きく深呼吸をして、肩を上下に揺らす。それから、気合を入れるように一度うなずいた。
「受け取ってください」
差し出された封筒を両手で受ける。
今度は何の許可状だろうかと中を見て、結衣は指先を震わせた。クリアファイルに挟まった用紙一枚を凝視する。
「婚姻、届……って」
「本当に進めるときは結衣さんにまず話すべきだって、重々承知してる。これは約束じゃなくて、俺の心構えです」
悠の氏名や生年月日など、いま埋められる部分はすべて書かれて捺印までされている。
「預かってて欲しい。そういう目で俺のことを見ていてくれるよう、ご両親にお願いしました。春から遠慮なく行き来すればいいって言ってもらえた。指輪は……ごめん。帰省費用を充実させたいので、我慢してください」
悠は正座した両腿に手をつき、強い眼差しで結衣を真っ直ぐに射貫く。
「婚約者として。俺と付き合ってくれませんか」
全身を抜ける一瞬の衝撃と直後の静寂を過ぎて。結衣はそろりと手を上げて、自分の頬をつねってみた。よく伸びて、なかなか痛い。
「こらこら。赤くなるよ」
「だ……って、悠くんが」
「ははっ、びっくりしてる」
「するよ! するに……きまっ、て」
今日だけで、何度泣くのか。自分の涙腺の脆さに呆れる。せめて声だけでも堪らえようと、手首を強く唇に押し付けた。
「結衣さん。返事」
いまは声が出せないと、首を振る。けれど悠は諦めてくれない。
「できれば、『はい』で。語尾は下げる感じで」
「……ふ……なつ、かし」
自分たちのスタートラインを思い出す。初めから少々押しが強くて。けれど、あの頃の彼は両手に汗をかくほど緊張して、スラックスを握りしめていた。
いつの間に、こんな大きな人になったのだろう。いまの彼は揺るぎない決意を持って、立ち止まりそうな結衣に手を差し伸べてくれる。
「強いなぁ」
そう言ったら、悠はきょとんとして、小さく吹き出した。
「自覚ないみたいだけど。俺を強くしたのは結衣さんだからね?」
思わぬ返しに、結衣のほうが目を丸くした。
「私が?」
「そうだよ。五年で自信付けさせてくれたから、こんな好き放題できてる。結衣さんが俺のこと好きなんだってわかってるから」
すとんと憑き物が落ちたような気がした。あれだけ煌々と揺れていた焦りの火が遠ざかっていく。
同じだ。悠の強さの根に、結衣はいる。お互いがお互いの自信になって、自分たちはこの五年を歩いてきた。
――大丈夫。ちゃんと、進んでる。
「でしょ?」
「うん……好き。大好きです」
「だったら、返事」
「……はい。一緒に、頑張る」
結衣の返事に、満足そうな首肯が返される。
「では、結衣さんはとにかく口説かれないで」
「う!? うん……悠くんは、雪道運転、気をつけて。あと」
「……あと?」
「戻れなくなったら。私が悠くんのところに行きたいです。行って、いい?」
途端、悠が正座を崩して足を伸ばし、たはぁと息を吐いた。かくりとうつむき、彼は床に向けた指四本をぺこぱこさせて結衣を手招く。膝歩きで近づいたら、両腕に抱き込まれた。
「心臓、破れそ」
「え?」
さっきまでの悠はとても落ち着いて見えたのに。
結衣は彼の胸に耳を押し当ててみた。ばくばくとせっかちな心音を聞いて、「すごい!」と笑って悠の顔を見上げる。
そうしたら、春を思わせる微笑みが近づいてきた。降ってきたキスは、柔らかく結衣の口を食む。ややあって離れたら、今度は頬を経由して首筋を伝ってくる。浴衣の合わせを彼の指に軽く開かれ、鎖骨をなぞるような挨拶をされる。最後に、胸の上に強く吸い付かれた。
「悠、くん」
呼びかけたら、熱い吐息を残して彼の唇が離れた。そして、強く抱きしめられる。
「三月は、もっと会いたい」
懇願にうなずきで応えたら、悠は結衣の両肩を掴んで自身から引き剥がした。頬から耳まで朱を刷いて、うつむき気味で眉を寄せる。
「もー……いますぐ俺と結衣さんのふたり旅になれ」
耐える悠に負けず劣らずの赤面で、結衣は浴衣の合わせを整えた。
* * *
女子部屋のほうも、下膳が済んで布団が敷かれていた。四人がやや緊張した面持ちで一斉に顔を向けてくる中、悠が結衣の手を握ったまま一歩進み出た。
「こちら。俺の婚約者の、佐伯 結衣さん」
朱莉がじわりと目を潤ませ、柊吾が彼女の肩を軽く抱いた。織音がバシバシと樹生の背中を叩き、樹生はあぐらに頬杖で安心したように息をつく。
「四月から、俺は留守がちですので。結衣さんのこと、よろしくお願いします」
織音と朱莉がうなずいて笑った。
「任せてっ。あたしたちがゆいこを独占するぅ」
「勢いあまってわたしが奪っちゃったらごめんなさいね?」
「朱莉、後ろで兄がすごい顔してるから」
「冗談よ。冗談……柊ちゃん? 冗談だからね?」
「ゔん……朱莉の愛を信じてる」
しょぼくれた柊吾に皆が笑っている隙に、結衣は荷物の中から薄い箱をふたつ取り出した。
「朱莉、織音ちゃん」
「なぁに?」
「ほいほい?」
箱を渡してから、ふたりの前に座る。
「新生活のお祝い。遅くなっちゃったけど、おめでとう」
箱を開けた途端、朱莉の頬を涙が滑った。一拍遅れて、織音もぐずっと泣き出す。
「もぉ……結衣、ずるい」
「いいとこのハンカチじゃんかぁ、これ」
織音がダイブしてきて、結衣は布団に倒れ込みそうになった。背中を悠にぐっと支えられてなんとか耐える。
「大丈夫だ! あたしが完璧な富山旅行をプロデュースしたげるっ」
「ヘヘ、期待してる」
結衣の手をぎゅっと握った織音は、直後、こてんと首を傾げた。
「輪っかは? あ、これから買う?」
「なくていいの。その分、悠くんが会いにきてくれる」
「そかぁ。ま、ゆいこたちにはクマがいるし!」
「そう、クマがいれば無敵だから大丈夫!」
すると、柊吾が「くま、クマ」とつぶやいて、ぱんっと手を叩いた。
「朱莉! あれ、ほら!」
「……ぁ、クマ!」
朱莉が童話の国ガイドブックを取り出し、中ほどまで捲って手を止める。
「結衣! 明日パーク行ったらまずこれオーダーして! お金は私が出す!」
「ど、どれ?」
突きつけられたガイドブックを引き取り、悠とふたりで眺める。
「グリズ・マッスルの……ペアリング?」
グリズ・マッスルはミッチー・マッスルと兄弟の契りを交わした善なるクマだ。リングの内側にはグリズと恋人、ソフィのシルエットが刻印されている。
イニシャル刻印サービスと化粧ボックスが付き、サイズ在庫次第では当日受け取りが可能。お値段一万五千円で、新たなクマが手に入る。
「いいじゃん! あたしも乗った」
「そこは兄が出したいところ」
「オレも噛ましてー」
結衣は悠と顔を見合わせて、同時にうなずいた。
「気持ちだけもらうよ。これなら、俺が自力で贈れる」
「悠くん、折半」
「やっぱり?」
「うん!」
そんな相談を、皆が温かな目で見守ってくれる。少々照れくさくなり、ガイドブックを朱莉に返した。
と、ガイドブックを樹生が横取りして無言で眺める。真剣な様子に、織音が彼の肩をつついた。
「なんか、問題あり?」
「いや……」
「言ってよ。ゆいこが不安になるじゃん」
「ちゃう……オレも欲しいかも、て……こっちの、ちび猫の刻印のほう、
予想外かつ唐突な樹生のおねだりに、「え」と全員が動きを止める。織音が真っ赤になってぷるぷると拳を震わせ、すうぅと息を吸った。
「そんなのっ! あたしが即買いしたげるーッ!!」
大笑いと、たくさんの涙と。新しい自分たちの形と、溢れるほどの喜びと。
たくさんのものを詰め込んで、卒業旅行の夜は賑やかに更けていった。
* * *
十月の風が心地よい、土曜日の昼下がり。
今日の服装は、朱莉アドバイスの綺麗めコーディネートで。肩下まで伸ばした髪は、樹生の指導でマスターしたシニヨンにアレンジして。
電車の到着を告げるアナウンスに胸が高鳴る。スマホを両手で握り、ほぅと息をついて緊張を落ち着かせた。
薬指には今日も、童話の国生まれのクマの指輪をはめている。いっそこのままでいいんじゃないか。先日のビデオ通話で提案したら、悠はたいそうご不満に口を尖らせた。
やがて、スーツを着た悠が早足で改札に滑り込んでくる。ラフな格好で構わないと伝えたのに、実に悠らしい選択だ。とはいえ、結衣も少々かしこまった服選びなので、彼のことをとやかく言えない。
「おかえりなさい」
「ただいま」
三年と半年。当初の二年より一年半延びたが、悠の念願だった本社勤務が叶った。
その間、悠は長期の休みに必ず帰ってきてくれた。週末には必ずビデオ通話で顔を合わせた。皆で二度も旅行して、結衣ひとりでも何度か会いに行った。
三年半は長くて、けれど振り返ってみればあっという間だった。
「部屋、片付いた?」
「一応。でも、必要最低限しか荷解きしてない。どうせすぐ動くつもりだから」
「家電は?」
「単身用サイズだし、ほとんど樹生のお下がりで賄ってたからほぼ処分してきた。頑張ってそろえましょう」
「はーい」
「結衣さんの仕事は大丈夫? これから忙しくなるけど」
「望むところですっ」
ぐっと拳を握ったら、ははっと軽やかな笑い声が返ってきた。スマホで聴く声とは違う、柔らかな悠のテノールを味わう。心地よさに自然と笑みが零れた。
「どうかした?」
「ほんとに、悠くん帰ってきたんだなぁって」
「実感湧いた?」
「ぽこぽこ湧いてるとこ」
「じゃあ、もっと湧くように。一刻も早く新居を決めないと」
結衣の自宅に向かって歩く途中、小さな公園が見えてくる。遊び終えたふた組の親子連れが、楽しそうに公園を出ていく。
高校三年の夜、交際八ヶ月目にしてひとつ進展を果たした思い出の場所だ。
突然降ってきたような恋だった。それから、周りに驚かれるほどゆっくりと、ふたりで歩いてきた。マイペースな自分たちなりに、お互いの気持ちを積み重ねて少しずつ変化してきた。
その九年間で、ずっと変わらないものがひとつある。
「もう、『さん』付けのままでいく?」
「……たぶん。結衣さんって呼ぶと幸せになる病。ごめん、『さん』無しをご所望だったのに」
「いいのです。たぶん私も、もう、それがいちばん落ち着きます」
結衣がぐっと親指を立てたら、悠は少し考える素振りを見せた。結衣の手を引き、誰もいなくなった公園に入っていく。
「どうかした?」
「……いまだけ。大事な日だから発破かけときたい」
小さな公園の隅で、向かい合わせになった。お互いのつま先の距離は、懐かしの六十センチほど。悠はネクタイの根元に手をかけ、ふっと息をつく。
閉じたまぶたがもう一度開いたら、彼の瞳の中心に結衣の姿が映された。
「結婚しよう。これから先、どんなときも、結衣のとなりにいたいから」
悠の声で、シンプルな名前が特別になる。いつも言葉を尽くしすぎるほど尽くす彼が、まっすぐで短い言葉にすべてを詰め込んで届けてくれる。
本社勤務が決まった日にたくさん話したから、プロポーズは貰ったつもりでいた。これから両親に報告に行くというときになって、なんて罪深いことをするのだろう。
押し上がってきた涙を押さえつけ、六十センチの距離をゼロにする。言葉にすると我慢できないから、うなずいて応えようとした。
けれど、悠の両手が頬を包んで。返事を、と。春みたいな微笑みで求められて。
結衣は語尾を下げる「はい」に涙をひとつ添えてから、彼がひまわりと称してくれる笑顔を贈った。
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