魔法使い美香子

@DojoKota

全話

 床に倒れ伏して、だって疲れていていたんだから、疲れているときは何にもしたくない、疲れ果てている自分に自己嫌悪しながら、だって、特別何かしていたから疲れたってわけじゃなくて、生きていることが憂鬱だから疲れたってだけで、それはなんだか、巨大な地下室でひたすらかくれんぼや鬼ごっこを嫌々続けているみたいで、だって、私は床に倒れ伏して、フローリングの床を見つめている。

 その目はなんだかビー玉みたい。

 日々母によりて磨き上げられ、どちらが目玉かわからなくなるくらい光の沼がところどころ蟠っているフローリングの上を私の目玉がころころと転がりだしそう。

 でもそんなことはない。

 こりこりしてかちかちしそう。でもそんなこともない。

 古民家の厚みのある床と違って、所々軋んで反り返っている安普請で築年数をそこそこ経った我が家の床だから、あと幼き日の兄も私もわんぱくだったから、私が身動きするたびにギクリとする音がなる、骨を骨で磨き上げている感じ。

 がおがおがおー、私は微笑む。

 私にはその木目がなんだか虎の縞模様に思えて心の中で鳴いてみたんだ。

 変な姿勢で突っ伏しながら、だからそれは猫に似ていた、毛布も被らずに、Tシャツをよじれさせて、下半身真っ裸だった、ビニール袋にぞんざいに突っ込まれて捨てられた子猫の死体と瓜二つだった、私が。

 疲れていたんだ。疲れるって美意識。

 疲れると美意識が変になるんだ。がおがおがおー。

 私は虎を、私の頭の中で奮い立たせて吠えたけらせる。けれど、なけなしの想像力で、がおがお吠えて、木目みたいな縞柄の虎はきっと気弱で、きっと全身緑色で、きっと草ばかり食べてて、きっと縞馬と友達で、縞柄仲間で、パンダみたいな感じ、きっと草食動物にさえいじめられるだろう、水牛が怖いんだ、私だって怖いもの。

 床の木目をこするように撫でていると、なんだかそんなすごくすごく弱い虎を励ましているような気分になって、弱いものを助けられたらいいのにね、そのくらいの何かが私にあったらいいのにね、私は渋い顔をしちゃって、って疲れているんだ、頭が悪いことを考えているんだ、きっと私は頭が弱いんだ、けれど、疲れているから、頭悪いことしか考えられなくて、でも、憂鬱な気分は、ずっと私の周囲を飛び回っていて、でも、憂鬱な気分は、そうした頭悪い想像で少しは軽くなるから、憂鬱さえ、私に嫌気がさすみたいで、対処療法として仕方なく、がおがお吠えて、なんだか悲しくなって、微笑んで、でも、感情が絶無で絶対無で倒れ伏しているよりも、わけのわからない蕁麻疹のかゆみと大差ないほど場当たり的感情でも、ないよりはましで、悲しいなあ、と思いながら、がおがお吠えながら、私はなんとか、半日ぶりに起き上がった。

 起き上がろうとした。

 木目の虎が、こすれて飴色に変色した木目の虎が悲しげな瞳で私を見上げている。その瞳まで小さな木目なんだ。全てが、木目なんだ。輪っかっかなんだ。

 私は、上半身だけむくりと起き上がった。がおがおがおー。下半身が滑り台の滑る台みたいに垂れ下がっている。

 夏休みで、やりかけていたの宿題が床一面に散らばっていたから、私は立ち上がっても、歩一歩進める余地はなかった。詰めろのかかった王将のようだ。化学世界史古文数学英語などなどが金銀香車飛車角だ。おじいちゃんから授けられた知識によれば。

 美香子から電話がかかってきた。美香子ちゃんから電話がかかってきたわよ、と母が言った。

 私はネット依存症と医者に診断されていたため携帯電話を持っていなかった、正確には解約させられた旧式のスマートフォンがデジタルカメラ代わりに私のポケットにいつも収まっている、せっかくだから、木目の虎が、木目の虎に見える角度で撮影した、創造と現像とでは随分とずれてしまうものだけれども、今回の撮影は手応えがあった。確かに虎だ。私の家には虎がいる。

 私はそうこうするうちに美香子を随分と待たせてしまっていた。

 自宅の固定電話がさっきから鳴っていて、うるさいなあ、と思っていた。けど、空耳だ。

 何も鳴っていなかった。受話器は母の手にて外されていたからだ。顎の外れた人が喋れぬように受話器の外された電話ベルは鳴り出さない。

 美香子の声がかすかに聞こえていた。母が取り外した受話器から、母は保留ボタンを押さないんだ、母はボタン恐怖症なんだ、ボタンを押すと何かが起こりそうで母はそれが怖くてだから受話器は取れても保留ボタンは押せなかった、「今森さーん、今森、今森、今森さーん」と美香子の、私なんかと比べたら、はつらつとしたから元気で、私の気持ちに寄り添ってくれそうな声が聞こえていた。

「こちら美香子こちら美香子でーす。今森さんはいらっしゃいますかー。いらっしゃらなかったら寂しいですー」待って。待ってって。

 足先で夏休みの宿題を脇へよけて、だから、よろけそうになりながら、おっとっと、床がぎしぎしと立ち往生、寝そべっていた廊下をよたよたと進む。

 鬱なんだからさ、待ってよ、急かさないでよ、でも、急かされるのもちょっと嬉しい、少しずつ、がおがお言わなくても、元気が充填されてゆくのがわかる、でも、がおがお言いたい。

「がおがお」と私は受話器を掴むと美香子に言った。「がおがお。木目が虎になって、その虎は生野菜サラダばっかり食べてて、だから、トムソンガゼルにいじめられてて、だって何にだってゴマだれドレッシングかけるんだよ、気味悪いやつだ悪いやつだ悪趣味だ、ううん、元気すっごくごきげんきだよ、ゴキブリ並みに元気、略してごご機嫌、だって、漢字も似てるでしょ。蜚蠊と機嫌って似てないか。似てないかなあ。所で木目の虎はさ、木目の虎の話だけどさ、運良く野生の子鹿を捕まえられた、と思ったら、スーパーマーケットにゴマだれ買いに行っている間に逃げられたり、木目の虎は、だから弱いんだ弱虫なんだでも嫌いじゃないだって私が見つけたんだもの床一面に今度サラダをぶちまけてあげるよそうしたら木目の虎も大喜び。がおがお」

「今森さん、元気そうで何より」と美香子は言って、照れたように笑った。「私のお家に今とてもとても楽しい絵本があって、贔屓にしてる絵本屋さんから父が買ってくれたの、それを二人して並んで読みっこして、すごく面白い絵本なのよね、ねえ、母が実家の用事で留守の間とても寂しいから、私の暇つぶしに付き合って欲しくて、だって外はとても良い天気すぎるもの、夏の天気は私をインドアにしてしまうから、インドみたいな天気ね暑いわ、インドネシア人もびっくり、ねえ、どうか一緒に、私の家で絵本の読みっこしましょうよ、チマチョゴリ」と、美香子が誘ってきた。チマチョゴリって何?

 私はますます嬉しくなった。

 大事なことなのだけれども、美香子は高校生なのに、ひらがなカタカナ以外字が読めない。なのに、私は蜚蠊なんて言ってしまった。でも、一方で美香子は魔法使いだから、魔法が使える。魔法の文字しか読めないんだ。ひらがなもカタカナも魔法の文字じゃないんだ。だから、私に絵本を読んで欲しがるんだ。電話口に待たされて、お互い言いたいことがいくつかあって、それを風船を弾けさせるように言い合って、ああ美香子だって思った。

 美香子からの電話だって。

 目の前で風船を針で破裂させるみたいに喋っても怒らないでいてくれるのは美香子くらいのもの。私だって美香子じゃなかったら、風船を破裂させるように話されたらちょっとわけがわからなくてふてくされてしまう落語家の独演会なのかなって思ってしまう。

 美香子も、私のこと私だって思ってくれただろうか。お母さん、行ってくるね、何処へ、何処っていつもみたいに、ああ、うん美香子ちゃんのとこね、うん、私は目を閉じて、「あー、あー、あー」と叫んで、それは練習で、受話器の向こう側で美香子が「う、う、うるさいなあもう」って悪たれて、けど私はやめない、美香子だって本気で嫌なわけじゃない、だって、勢いが、大事だから、水泳の飛び込みの要領そんなアクティブなことやったことないけれど、「私は今森秋子です」とそうつぶやくと、固定電話の前に佇んでいた私の肉体が、パッと弾けて消えてしまったTシャツさえ残らなかった。

 私はただ声になったんだ、というよりも、声だけが残響していて、「私は今森秋子です」という一声となって受話器の中へ吸い込まれ電話線を遡って、気がつくと、私は恐る恐る瞼を開けると、でも二、三度目なんだけどな、私の眼前にこつこつと薄いガラス板、美香子の小さな手のひらに握られたスマートフォンの画面の中に、私はいる。

 美香子が「えへへ」と笑えば「がおがおがおー」と私は両手を鉤爪にして、いかくする。いつもこうして、私は美香子の家というか美香子の部屋というか美香子のスマートフォンというか、美香子の元へ遊びに行く。

 美香子は魔法使い。

 美香子は魔法使いだから、合気道の達人に掴みかかったら綺麗に投げ飛ばされてしまうように、美香子に無茶振りをすれば、魔法の中に取り込まれてしまう。私は美香子になら、魔法を使われてもいい、と思っていた。美香子も私になら魔法を使ってもいいと思っていた。お互い考えることは正反対だけれども、似ていた。私はただ、魔法が使えないでも漢字は読める高校生だった。

「今森さん、今森さん、どうもありがとう。今日はね、お母さんが家にいなくて寂しかったんだよ寂しいの嫌いだからさ、うれしい、ありがとう、うれしいよー」と美香子はスマートフォンの画面越しに私を撫でてくれる。頬ずりされると頬の油がべったり私の画面上に付着する油越しにみる世界はキラキラしているでもそのキラキラのせいで視界がぼやけてしまう。白内障みたい。白内障のおじいちゃんが私のこと目に入れても痛くないっていうからフラフープ潜るみたいにおじいちゃんの目の中に入ったら、白内障が悪化してしまったなんてあったな、白内障なのに目が赤いの。ところでそんな思い出話なんてもうここではどうでもよくて、まあ、おじいちゃんのことも好きだけれども、だって、おじいちゃんの方が私がトラウマなってるんだもん木目の虎馬、虎に襲われた馬は虎がトラウマ、でも逆に馬に襲われた虎だって馬にトラウマになるだろう、真理はいつだって逆も成り立つ、馬、頑張れ。

 それはさておき、美香子がスマフォにインストールしても惜しくない私を指差しで撫でてくれているんだ。

 私は身をよじって嬉しくなる。鬱々とした気分を忘れ果ててしまえる。ありがとう、美香子、と思う。

 じゃあ、絵本を読もう。


「あるところにノアおじさんというおじさんがいました。おじさんの口癖は『はこぶね』です。『方舟へ運ぶね』と申し立てては、その音声は野太くて怖いんですよ、この絵本のノアおじさんの台詞ははできることならば優しい世話好きのお母さんではなく近所の野蛮な酒飲みに朗読して欲しいくらいです、と作者は思います、ま、早い話俺(作者)みたいな(印税で飲み明かすぜ)ね、酒がれたおじさんの声でね。ところで、ノアおじさんは、酒は飲まないのですが、近隣の子息女や小動物をかっさらっては『はこはこぶねぶねぶーねぶね』『はこぶねはこぶねはーこぶね』と笑うのでした。そうです。ノアおじさんは笑うとき『はこはこはこぶねぶーねぶね』などと笑うのでした。小動物たちはダンボールに箱詰めにして運ぶねん」

 

 美香子に、これ読んで、とせっつかれた絵本は『実録、小動物誘拐魔ノアおじさん(実話)』だった。私の知らない絵本だった。実録も実話も同じ意味だろうに。

 私はスマートフォンにダウンロードされていた絵本を一ページ一ページずつずっとめくりながら声に出して美香子の反応を伺いながら、美香子はきゃっきゃと笑ってくれるけれど、私としてはノアおじさんみたく「はこぶねはこぶねぶーねぶね」と笑って欲しかったのだった、読むのだった。

 スマートフォンに閉じ込められた、と捉えられなくもない私の状況と、段ボール箱に押し詰められた兎たちの境遇は似ていなくもないけれど、QOLがだいぶ違った。

「ノアおじさんは考えなしにも、十羽の白ウサギを小荷物用のダンボールに押し詰めたため、ウサギたちは立体ホワイトパズルみたくなるのでした。ところで立体ホワイトパズルってなんですか、しらないなあ。ウサギたちは苦しそう。ノアおじさんにとっての方舟とは小荷物用の梱包段ボール箱のことであり、それらを、大洪水だあ、と称して小川に流すのです。笹舟みたいに。すぐに沈みます。ウサギもタヌキの気持ちがわかったことでしょうかちかち山の話ですよ。運良くぶかぶかと浮力が釣り合ったものも、次第に浸水し、生きて帰られぬ旅なのでした。何が起こったのかわからない動物たちは、滅多に泣かない種類であっても、盛大に泣きわめくのでした。あおーん」「ぴんぽーん」

 絵本の途中だというのに、はつらつとした音色で美香子の家の呼び鈴がなった。私が押したわけじゃないから不意打ちを食らってしまった。

 美香子には私以外友達なんていないはずだし、ピザの配達も頼んではいないはずだし、家庭訪問の季節でも、ないはずだった、それに私たち高校生だし。だけど、私には心当たりは一人だけいた。

 玄関までスマフォートフォン片手に美香子が出て行くと、美香子はドタドタと足音を立てて廊下を突っ切りその足音が何だかかわいかった、スマートフォンの中に格納された私は美香子の手ぶれにひどく酔ってしまうけれど、玄関先には案の定ノアおじさんがいた。

 ノアおじさんだった。

 にっこり笑っていた。

 禿げ頭を隠すように麦わら帽子を夏だから被っていた。

 私たちは抵抗するすべもなく箱詰めにされた。

 肉詰めじゃなくてよかった。

 豚の腸の中に肉詰めにされるよりよかった、いつだって最悪よりはまし。じゃなかったら生きていられない。ノアおじさんは手際が良すぎた。ぴんぽーん、玄関を開けた途端これだもの。ノアおじさんは赤茶けた肌の色をしていた。私は壊れ物の貴重品だから二重三重に新聞紙でぐるぐる巻きにされてしかも美香子に大事に抱きしめられた状態で、美香子は妊娠したお姫様みたいに身を丸めて、うなじも丸めて、髪の毛をノアおじさんに何度か触られた、体育座りのような姿勢にもなって、かなり協力的に段ボールに詰め込まれた。

 ノアおじさんは、段ボールの蓋をガムテープらしきもので、ビビビビ、と密閉した。息がしにくくならないか、心配だった。美香子の心臓の音がスマートフォンの中の私にまで伝わって、くるのだった。くるくるくるくるくる、そんな心音が。

私は警察とかに電話連絡を入れようとは思わなかった。私は警察とかを信じていなかったからだ。ノアおじさんは力持ちだから、そんな人一人高校生一人入った段ボール箱を力みもせず唸りもせず、ひょいと担ぎ上げた。なんの予備動作もなく雲でも担ぎ上げるみたいだった。

「それじゃあ、冒険に出発だ」とノアおじさんは言った。「方舟には、運ばないね」と彼は付け加えた。


 死んだ甲虫は植物の種みたい。でも鉢植えに植えても水を降り注いでも、いつまでたっても何にも芽生えない、死んでいる、不思議だし、宝石みたい、でも、その連想は陳腐だ、それはとても嫌なことだね、と段ボールの中で美香子と話した、いつまでも死にっぱなしの死体なんて。

 他に話すことって思いつかなかったからだ、カコカコカコカコ過呼吸の美カコカコカコ美香子香子をそっと指で撫でたいけれど、やっぱりいきなり大の男に誘拐されるのは魔法使いの美香子にだってショックなことなのだ、私はスマートフォンの中身だから、医者でもないのに病院にやってきてしまった漫才師のようにただ喋るくらいしか能がないのだった。

 目の前で誘拐されてしまった友達を、励ましたり慰めたりしようと思ったけれど、混乱すれば混乱するだけ、混乱が混乱するだけで、普段思っていることしか、言葉にならなかった。こんな状況下で、絵本の続きを読むわけにもいかないしな。

 だって、現実に誘拐されちゃっているのに、誘拐魔の絵本を嬉々として読めるほど危機意識がない私じゃないしな、美香子はしくしく泣いているわけではないけれど、キョトンキョトンと揺れていた。しゃっくりみたいに揺れていた。しゃくとりむしみたいに蠕動していた。

 死んだカナブンはいつまでたってもカナブンのままでカナブンの木がそこから生えてこないのが不思議だった子供の頃から今も子供?カブトムシのツノの先に小さな蕾がガン細胞のように芽生えて、花開き、活け花の題材にカブトムシの頭部が剣山に突き刺されないのが不思議だった。活け花じゃなくて活け虫だって楽しそうなのに。あるべきものの不成立に、不思議に思えた。

 じゃあ何からならカナブンの木は生えてきて、どこにいけばコクワガタの林が生い茂っているの。森の山の奥の方。

 何処かの農園では、りんごの代わりに大量の芋虫が成る、芋虫の木を収穫してやしないのだろうか。ふっと月なら重力が軽いから、芽生えるかもしれない、と思われた、死んでしまった生き物が植物になるほど土壌がよく重力の少ない星が何処かにあるとしたらそこがあの世かもしれない、と思えた。

 月に大量の虫の死骸をばら撒けたなら、月のうさぎも覆い隠すほど大量に、ジャングルみたいに、昆虫の森が繁殖するかもしれないけれど、NASAもJAXAもそのようには考えないから、私の頭の中だけで、日々死んで行く虫たちが、月の上で、根を張って、芽生えて、実を結んだ。

 へへふふ。照れてしまうと何事も逆再生されたみたいな動作になって、笑い方も逆再生されたみたくなる。へへへふ。美香子、私の話、面白いかな。ははははぁ。ひひひひぃ。私の話に意識など持っていかれていないのか、美香子はポツポツとつぶやいていた。

 泥長靴にこびりついた雨。どこへ連れていかれるの。寂しいところじゃないといいけれど。私たちのことを誰もが歓迎してくれる温泉街みたいなところだったらいいけれど。

「どこへ連れて行くの」どこまでも連れて行くの。こわいよそんなの。自分の影がどこまでも伸びて、地球の上でとぐろを巻いている。目の前が茶色の世界。今ここがわからなくなる。こわくなる。こわかった。コクワガッタ。コクワガタが稲穂のように揺れる草原。

 方向音痴の私に侵されたがために、GPS機能の破壊されたスマートフォン。

 美香子が尋ねるけれど、おじさんは答えてくれない。

 おじさんの肩に担がれている美香子は、少しでもバランスを崩すとおじさんが手を滑らせそうで、だから体の震えを無理に押さえつけようと必死で全身を強張らせている。一個の木材のようで却って担ぎやすい素材に美香子は自分で自分を馴致している。木材になりたくて木材になりたくて木材になりたくて。縄で縛って欲しくて縄で縛って欲しくて縄で縛って欲しくて。でも、それはそれでしんどいから、なんとか息を整えようと深呼吸している。風船になりたい。

「おじさんは、私のこと好き?好きならいいんだ。好きならば。私のこと大嫌いな人間に誘拐されたならたまったもんじゃない、私のこと興味ない人間に連れ去られたなら飽きたところで捨てられちゃう。いやだいやだ、誘拐なんて趣味じゃないけれど。誘拐などそもそもされたくはないけれど、最低限私に好意のある人間じゃないと、誘拐されるなんてまっぴらごめんだから」

 割と強い口調で美香子は独り言のつもりなのか知らないけれど、私との会話ともおじさんの沈黙とも無関係につぶやき続ける。

「父と母が私のこと好きじゃないなら、とても困る。困るよ。私のこと好きじゃない人間と一緒に暮らさなきゃならないなんて、想像するだけでもとても怖い。怖いよ。だから涙が出る。人が死んだり殺されたりすると、好きじゃなかったんだなって思えて悲しくなる。わからない?死んでしまった人の冷たい身体を前にして胸の底が空っぽで、悲しくないのに空っぽで。本当は好きじゃなかったんだなって納得できるあの時。私が死んだ時にも父母はそう思うかもしれない。かと言って、私自身は父母のこと好きなのかな。よくわからないよ。だって、愛してるって感情が溶岩のように口からあふれ出したこともないし、父の日も母の日も無視している。私はしがない魔法使いで、父母は魔法使いじゃないんだ。魔法使いと魔法使いじゃない人って、見えているものや感じているものが随分と違うはずだから、私が抱きしめようとした父母の姿がただの影だったり、ずっとそばにいたつもりが、父母が脱ぎ散らかしたコートに染み付いた彼らの残り香に寄り添ってただけだったり、アルバムの中の若き日の写真に憧れてただけだったり、父母はとても遠くて抱きしめ難い。だって、それらが魔法に見えるんだ。魔法で魔法に見えるんだ。魔法の父母に見えるから。本当に抱きしめたいのかもわかんないしね。こわいよお。どうしておじさんは私にこんな嫌な気持ちを味わわせるの。どうして誘拐なんてするの。今森さーん。今森さん。こわいなあ」

 大丈夫って私はつぶやいた。でも私はスマートフォンの中にいるのだった。安全圏で喋ってる。しかも小声で。でも、まあ、大丈夫、と伝えたくなった。伝えなくちゃ。いざとなれば、私がノアおじさんをやっつけちゃえばいいから。どうやって。無理じゃない?例えば、スマートフォンの中の絵本を私がビリビリに破くとかしたら、絵本の中のノアおじさんはやっつけられる。でも、それをすると私たちまでビリビリに破かれてしまうかもしれないけれど。だって、まだ読んでいない絵本の続きに私たちがいるかもしれないし、挑発行為には代償がつきものだから。

 ねえ。ノアおじさん、私はあなたを破り捨てたくはないんだ、だから、どうか、仲良くなろうよ。呼びかけて呼びかけて私はノアおじさんの手のひらに触ろうとした。私の両手はスマートフォンから伸びだして段ボール箱を突き破って、蛇みたいにノアおじさんにからみつこうとした。おじさんは、少しギョッとした。おじさんにはヒゲがうっすら生えていた。髭はヒゲ臭かった。きっと汚い髭剃りを使っているんだ、私の父みたいに、と思った。髪の毛はどうして燃えると臭いのだろう。燃えながら生きることがエチケット違反になりかねないほど、燃える髪の毛は臭いんだ。

 私たちの恐慌が功をそうしたのかもしれない、おじさんは立ち止まって、箱から私たちを取り出してくれた。

「方舟へ運びたかったんだ」「そっか」「善意のつもりだよ」「わかるわかる」「けど、まだ、方舟はできていないんだ。俺そんな金ないし土地もないし」「大変だよね」「でも、大洪水はやってくるんだ」「いつ」「いつかそのへんで」


 そこはバス停で、何人もの人たちが行列をなして赤いバスの到着を待ちわびているところだった。何人もの人たちもみんなが赤かった。赤い目をしており、赤い目から赤い光を照射しており、背後の人から赤い光で照らされることによりて、映画を映し出すスクリーンのように人々は赤かった。それゆえ最後尾の人はさほど赤くはなかった。

「やがてバスは来るだろう」とおじさんは言った。「そりゃそうだ」と私はあっけらかんと答えた。危害は根本から消失したと思ったからだ。「それに乗るといい」「どうして」「バスも箱っぽい。俺は人々を箱っぽい乗り物に誘導するのが仕事なんだ。動物はダンボールに詰めて川に流すけれど。だって山猫はバスに乗せられないだろ」意外と少なそうだ、箱みたいな乗り物って。「大変な気苦労を」

 学校へはもう行けそうもない。だって誘拐されて、見知らぬ土地までやってきてしまったのだから。帰り道もわかんないし、帰りたくもない。

 帰ったところで魔法の使えない、愛しているのかもよくわからない家族が、タコ糸に繋がれて待っているだけ。父母は私の物語と交錯しない。なぜ。か不思議と。

 すごくすごく遠くまで来てしまったのだろう。おじさんはすごい勢いで歩いてきたんだ。半日くらいかけて歩いていたんだ。ここはどこだ。赤い赤い土地。あの川を遡れば、私たちの暮らす街まで戻れるのだろうかわからない匂いのない水。私たちの街は砂漠の真ん中のオアシスだったから、いくら川を遡ってもあの街までは帰れそうもない。

「おじさん、ありがとう。解放してくれて」「大したことじゃないよ」「あと、こんな遠くまで運んでくれてありがとう」「疲れたよ」「お疲れ様」

 会話を交わせば交わすほど、相手のことが嫌いじゃなくなってくる。私は上半身をスマートフォンから這い出した形でお礼を言った。スマートフォンを掲げ持っている美香子が持ちにくそうだった。組体操のサボテンって言えばわかるかな、美香子はあんな感じで状態を反らせてバランスをとった。私は閉じられた本から半身飛び出した栞みたいだった。だから、私はたとえ上半身をスマートフォンから這い出せたとしても、その上半身は、薄っぺらな液晶画面と代わり映えがしない、影さえ表示されない、情報量が少ない。

 おじさんは申し訳なさそうな顔して陳謝した。(新)陳(代)謝してどんどんどんどん姿形を変えていった。どんどんどんどん汗を吹き出して、どくんどくんどくんどくん、心臓を脈打たせていた。そこまで謝らなくても。

 成長期みたいにおじさんは成長して、一本の木になった。正直な男だった。正直者は、最後には、とてもとても感情を昂ぶらせて、一本の木になるものだ、と私は知っていたから、驚きはしなかった。

 どこからともなく翼の生えたお地蔵様が飛んできて、どしんどしんとその木の枝で羽を休めた。正直者の木はお地蔵様に好かれてしまう否が応でも好かれてしまう。石仏の重みに耐えかねたようにおじさんの腰がかがまった。

 私と美香子は、両手を振るって、翼の生えた地蔵菩薩を追い払ったけれど、地蔵菩薩の蛇腹のように伸びる首が私には邪魔だった、地蔵菩薩の赤い目が私たちをにらんで怖かった、禿鷹のようにはるか上空で旋回する彼らは、私たちがこの場を立ち去ればすぐに、木になったおじさんを押しつぶすべく舞い降りてくるはずだった。コンドルの胴体が地蔵菩薩、かのように。

「大したことはない。慣れている。まあ、おじさんも歳をとったのだろう。こういう最後もありなのかもしれない。大洪水がやってきたら、俺のこと伐採して筏にでもなんでもしてほしい。頼むよ」私はノアおじさんの最後の頼みを聞きたくなかった。大洪水が到来すれば、あれほど天高く舞い上がっている翼の生えた地蔵菩薩もその自重を思い出して、海底へと沈むだろう、でも。

「でも、洪水なんて来ないよ」「でも、君の瞳の涙腺が緩んだら、可能性はあるかもしれない」「私はそんなにひどく泣かないよ。泣き虫じゃないよ」「空一面を覆い尽くすほどのイナゴの大群が、空一面を覆い尽くしながら、泣きじゃくり、涙をポタポタこぼすかもしれない、それが本当の泣き虫かもしれない。君は偽物の泣き虫で、本物の泣き虫がどこか身に覚えのない場所で交尾を繰り返し、大量の繁殖の準備をしながら、昆虫学者に発見されることを密かに待ち望んでいるかもしれない。空一面の泣き虫からほとばしる涙。昆虫の体はカラカラに乾いている。けれどそれはギャップ萌えかもしれない。そうなれば、きっと、絶対に大洪水になるよ」

「どうかしてるって。そんなことばかり考えているから、誘拐魔になんてなっしまうんだよ」

「責めないでおくれよ。責めないでよ」おじさんが身をよじって泣き出すと、雑巾みたいだ。身をよじって泣き出す人は濡れた雑巾を絞る雑巾のようで流れる涙は汚い。

 けれど、濡れた雑巾を絞れば絞られた分だけ雑巾はすこしずつ綺麗になる。

 赤いバスがやってくる。赤いペットボトルみたいだ。赤い道路を赤いバスがやってくる。私たちはそのバスに乗りたかった。だって、どこまでも遠くへ行けるチャンスだった。どこまででも遠くへ行きたかった。遠くへ行けば、はるかかなたの点になれる気がした。夜空の星はずっと遠くて、ずっと遠くまで行けられれば遠近法の恩恵に預かって、小さな点になれる気がした、現に私たちは、今、豆粒ほどの大きさだった。それに、ずっとここにいても、おじさんと地蔵菩薩ばかりの寂しい場所だ。寂れた店はやがてサボテンになる。干からびた商店街が身を守るかのようにとぐろを巻いて等間隔で立ち並ぶバス停に巻きついている、けれどそのほとんどがサボテンだった。

 サボテンとバス停のライン。

 バス停だというのに、私たちのほかに待ち人がいない寂しい場所だ。さっきまで並んでいた人々は、ただの赤い染みなってしまった。赤い人々が赤くしなびてしまう場所だ。アスファルトが所々めくれ上がった場所だ。そのめくれ上がった場所から、種々様々な赤い目が覗き込んでくる場所だ。

 トイレがないからずっとおしっこを我慢している。大洪水の日は近い。学校など興味はもうないし、家へ帰れなくたって、私と美香子二人きりの家族になりたい。点になれたら点と点を線でつなげる。どんなに遠く離れていても、点と点は線でつなげる。空一面の星々を、空一面の一個の星座に仕立て上げてしまう線を空一面に描いていた絵描きが、私たちの街にはいた。

 もう美大生になってしまったけれど、今はもう彼はあの街にはいないけれど。

 おじさんとももう少し仲良くなりたい。風が吹いている。おじさんの鬘じゃなくて、枯れ葉が舞い飛ぶ。元気のない松葉のようだおじさんの黒い髪の毛。けれど、バスはやってきた。まるで血まみれの心臓みたいだ。赤いバス。

 赤いバスは戦争兵器で、人間たちをたくさん踏み潰すために、人間たちをたくさん貫通するために、走っていて、その原動力が乗客だった。

 あなたは、この戦争に賛成しますか、という質問をバスに乗るとき私たちは受けた。どの戦争のこと?と確認した後で、「うん、いいよ」「賛成賛成大賛成」って言ったのは美香子だった。

「愛国忠心」「大和魂」そのような会話が車内では、交わされている。美香子は意外なほどカタカナも読めないのにタカ派だった。

 あなたは、このバスで敵国の人々を踏みしだくことを許可しますか、とも聞かれたから「嬉しくはないよ」と答えたら、バスの運転手が、「その気持ちわかるよ」と答えてくれた。「嬉しいよ。とても嬉しい」って美香子は言った。「そっか」「うん、嬉しい」「そういう時もあるよね」

 でも、バスは走り出し、たくさんの人々を轢き始めた。窓の外でおじさんの木が、揺れて遠ざかる。がたんがたんと未舗装の道路のように車体が跳ねた。血しぶきがあがる。皿が飛沫をあげる全自動食器洗い機に輸血したみたい、全自動洗濯機に輸血したことのある私としてはそんなこととても無駄だと言い切れるのだけれど。

 子供の骨に、私たちの骨にその振動がとても強く感じられた。

 ぎゃあぎゃあぎゃあ。翼の生えていない人々を追いかけては轢き殺すから、バスに路線などなく場当たり的で、どこへ向かっているのわからないドリフトする運転手さんのハンドルさばきが大岡裁きで殺しまくる腕捲る車来る。血桜が舞う。

 敵のバスが私たちのバスと正面衝突したけれど、乗客が一斉に「勢っ」と気合いを上げれば、敵のバスはどんどん栓の抜けた湯船のように縮小してしぼんでいって、パリンと私たちのバスに踏みしだかれた乗客の一人がそんな奇跡の生贄としてありとあらゆる穴から血を吹いて倒れたシャンパンタワーに注がれた赤ワインのように。

 バスを兵器に使う戦争なんて真っ平御免だでもこれが戦争だ戦争はずっと続いていてずっと続けられていくんだだからバスに乗るときは骨に響くほどの揺れを覚悟しなくちゃいけないんだ痛い坐骨が痛いけれど轢かれる敵国の人々あるいは敵国に加担するカタンカタンカタタンタンする人々の方がもっと痛い同情すれば自らの痛みは少し消える歌短歌短歌多々淡々私たちは短歌を歌った。

 いたるところで鳥たちが飛び立った。

 多分ノアおじさんが石仏に押しつぶされて生き絶えたのだろう彼が閉じ込めていた段ボール箱に押し込めていた小動物たちが衝動物的に飛び出して跳ね出して飛び立ったのだ。空一面の鳥だった。鳥たちが、鳴いていた。

 おじさんはすごく頑張って方舟の中身を集めていたんだ。世界中の鳥をダンボール箱に詰めていたんだ。もう何年も見たことがなかった鳥たちが一斉に空を覆い尽くして、食物連鎖が再び、回り始めた。

 中にはすごく慌てていたのか、翼とくちばしと鉤爪の生えたダンボール箱たちもいた、新種の鳥となりて飛んでいった、コウノトリよりも赤子や捨て犬を運びだしそうだった。そしてさらには、鳥たちに乗り捨てられ放棄されていた段ボール箱までが、はたはたと蓋をはためかせて、翔び立った。

 空は大渋滞だった。まるで粘度のある空の中で。方舟そのものはお金がなくて作れなかったけれど、たくさんの命を方舟に詰め込みたいって気持ちは、とてもとてもつよかったみたい痛いほどよくわかる。そうだ私は今この現象が夢かどうかと思って頬をつねっているから痛い自業自得。そんな光景だった。

 私たち二人のことも本気で方舟に詰め込もうとしてくれたってこともわかった。こわかった。「うれしくてこわい」そう美香子はつぶやいた。

 バスは何事もなくたくさんの人を轢き砕き殺して、石臼のように同じ場所をぐるぐると回った。たくさんのバス停を通り過ぎた。バス停に人が並んでいると嬉々としてキキーとブレーキを踏み込むことなくボーリングのピンに見立てて人々を弾き飛ばした。弾き飛ばされた人々が空飛ぶ段ボール箱にキャッチされたどくどくと流れ出るる血は止まらない。

 どこまで行くのだろうか。私たち以外にも乗客はちらほらといた。でも、雪だるまばかりで、隣に座ると冷たかったから、私たち二人はつり革にぶら下がって揺られていた、肉工場の大型冷蔵庫に吊るし上げられた全身生豚のように、冷たくてゆらゆら。私はいつの間にかスマートフォンから脱皮しており、というのも、「みーんみーんみーん」とスマートフォンが蝉のようなというか蝉そのものの着信音を発したかと思うと、メリメリと縦に割れて、その割れ目から、青白い翼の生えた蝉の翼の生えた私がのめり出してしまったからだ。季節は夏だったから、何にしてたって自然脱皮するのだった。七年間も地中にいたから。スマートフォンの画面を割れば割っただけ蝉が突き出してしまうならば、世界は電波よりうるさくなる。あるいは電波を昆虫化すれば蝉だった。そんな光景を美香子は驚くでもなくって、「虫嫌いなんだけどな」って私が傷つくこと呟くだけ。

「私は虫じゃないよ」「無視無視」「私は虫人間だよ」「似たようなもんじゃん」

 私には腕が四本あった。カイリキーはなんで虫タイプじゃないんだろうって、現状を鑑みながら思った。翼の生えてしかも腕が四本に増えた私のこと、美香子は好きじゃないみたいだった。私だってこんな私そこまで好きじゃないよ。しかも、おっぱいが生えてしかるるべき場所から、三本目と四本目の腕が生えているんだ。これじゃあおっぱいを揉もうとする痴漢と握手だ。もう性別さえよくわからない。叱り飛ばしたい。

 ともかく私たちは少しずつ気まずい雰囲気で二人して仲良く、多分仲良くバスに揺られていた。女の子二人の長旅だ。流れ旅だ。度々だ。旅に出たきっかけは偶発的な流れ作業みたいな事なかれ主義だけれども、でも、結果的に唯一無二の友達と長距離バスに揺られているんだ。

 それはとても貴重な青春だった。高校生だし。もう二度と学校へは戻らないけれど。戻るつもりはないけれど。青春だ。うん。青春。

 美香子、どんな場所へ行きたい。何をしたい。お金なんてないけれど。蝉人間の私を見世物にしてお金を稼ごうか。蝋人形みたいに。バスは突然停車して、運転手が突然

「今からここは緊急避難トイレ先となります」と申し出した。

 どこからともなく人々が車外に群がっていって、車内に一人ずつ入ってきては、私たちの目の前で、下半身を露出させた状態でしゃがみこみ、うんとこしょどっこいしょと、どっっこいしょ、うんこととしっこをどっこいしょ、うんことしっこをほとばしらせて、私たち以外の乗客であった雪だるまたちはその排気熱に溶け始めた。

 雪だるまの中からも、大福餅のあんこのようにころころのうんこが立ち現れた、いちご大福のような血便、ケツバットしすぎたんだも、もりもりと現れた、便秘が解消される様は見ていて気持ちが良かった。というか、この雪だるま達元々がとても黄色い。ションベンをシャーベット状にした外装だったんだ。おしっこがじゃー。

 それもそうだ、雪だるまだって生きている、その表面の雪が解ければ内面が露わになる。うんことおしっこを相携えない生き物はいない。

「うわ、乗っていったバスがトイレになって、どんどんどんどんうんことしっこにまみれてしまう。激しいなあ」私は叫んだ、叫ぶことで感情を整理して、言葉にすることで状況を整理したかった。

 悲しい現実だけれども、私たちもうんことしっこを済ますとバスから出ることにした。

 もうバスに乗って居たって、どこにも連れて行ってくれないんだ。ここが終点なんだ。

 私はスマートフォンにインストールされてからずっと、美香子はノアおじさんに誘拐されてからずっと、うんこもしっこもできずじまい口から漏れ出しそうだった。

 青い空の白い雲はガルガンダの放った鳥の白いうんこだとしたら着地までの時間が余命だからずいぶんとゆっくりと世界を見渡していたいよ。

 運転手がどこまでも薄っぺらくトイレットペーパーの代わりとなって舐めてくれた。

 舐められたくはなかった。

 ウォシュレットと称して唾を吐かれた。菊門に千本ミミズに銀の茶釜に向かってツバキを吐かれた。汚かった。汚いところがどんどん汚くなっていく。人生に似ていて、悲しくなった。汚いと活けるもなんか似てる。

「うんこをしたならばさっさと席を譲りやがれ」うんこで臭くなっているというのにそれでもまだバスに入りたい人々が叫び声で私を脅した。腕の四本ある女子高生を脅すなんて。

 私は込み入ったうんこを踏まないようにしながらでも、おしっこの流れが影のように追いかけてきてローファーを濡らした。

 地面に擦り付ける。クレヨンのように擦り付けた分だけ、私は削れる。可愛かった私の靴がおしっこの漬物になってしまう、漬物はどうして黄色いのそれはおしっこにつけたからだ、おしっこは独特の味がするそれは濃い苦いたくあんに似ている美香子が私の手を握って引っ張ってくれる出入り口からこれでもかとバス車内に侵入を試みる人々を乗り越えるようにしてバスの外へと脱出できた。

 あまりにうんこまみれのバスの車内は大腸に似て、その脱出は脱糞に似た。それはまさしく、え、糞出す。ほっと一息ついた。


「うんこがうんこをし始めたぞ」誰かの叫び声。

 背後でバスが爆発した。

 大量のうんこがうんこをし始め、そのうんこにうんこされたうんこもまたうんこしはじめ、さらにうんこうんこうんこしたうんこがうんこうんこうんこでうんこがうんこをし始めたのだ。つまりねずみ算的にうんこがうんこしたのだ。

 指数関数的に質量を増大したうんこたちが新種の爆薬となりて質量的にバスを大爆発させたのだ。

 私たちは爆風に吹き飛ばされる。吹き飛ばされる。吹き飛ばされる。

 なに?どういうこと?うんこがうんこをするって、どういうこと?新種のウィルス?よくわかんない、ミダス王のように触るもの全てがうんこになったとしてもこんなにもうんこ爆発しないだろう、というくらい多量のうんこがもりもりと増量され、そしてバスの外枠を吹き飛ばすように、空中の四方八方へ散弾銃のようにうんこが飛び散った飛んでいた鳥が何羽も撃ち抜かれた。

 私たちは五十メートルほど走って逃げた。けど、爆風は、とっても強くて、吹き飛ばされて倒れ伏してしまう。

「美香子大丈夫?」「大丈夫じゃないかもしれない」「美香子平気?」「美香子平気」大丈夫じゃないけど平気。鼻水が出るけど平熱みたいなもの。地平線と水平線は違う。だから、地平線と水平線が垂直に交わり、原点Oから太陽が指数関数的に上昇する、太陽に反比例する月、だなんて。不思議な天気だ。雨が降れば、上へ凸の二次曲線のような虹。


 影の世界を私は見ていた。私の旅は続いていたが、倒れ伏して影を見つめていた私は、立ち上がって再び歩き始める。美香子の手を右の二番目の手で繋ぐ。暖かさが伝わりあって、不安なこと消えていく。こわいこと笑えるように。

 美香子が魔法使いだからだろうか、美香子と手のひらを合わせると、光が、灯る。二人の手のひらが蛍を捕まえたみたいに。手のひらと手のひらの間から。

 真っ暗闇になっていたんだ。爆発したバスに同調して、太陽まで爆発しちゃったから、もう一生涯暗闇で公転もないんだ。季節がなくなるんだ。どうして生きていられるのかもわからないくらいひんやりと冷たい地球。どうして生きていられるのだろう。それは、たぶん、魔法のおかげ。魔法が、私たちを守ってくれているんだ。具体的には美香子の体内から溢れ出す魔法のおかげ。

 私は美香子を抱きしめたくなる。抱きしめないけれど。美香子は虫がきらいだから。虫人間もきらいだから。悲しいな。虫であることをやめたいな。外骨格を脱ぎ捨てたいな。でも、それはただの脱皮。美香子が歩き始める。そして私はその美香子に連結しているから、美香子にてくんてくんとついて歩く。私は基本立ち止まっていて、美香子が腕を引っ張ると、美香子を少し追い越すくらい歩きすぎて、それで立ち止まって、また美香子が私を追い越すから、美香子は私と違ってずっと歩き続けているから、美香子にまた私の腕が引っ張られて、てくん、私は少しだけスタートダッシュして止まる。てくん。

 美香子のことは好きだ。美香子が魔法を使えなくてもさ、好きだと思う。けど、美香子が魔法を使えないとさ、私は美香子が美香子だって認識できないと思う。それに、美香子が魔法を使えなかったならば、私は美香子と出会えなかったと思う。それは寂しいことだと思う。

 もしも、私が魔法を使えたなら、私はきっと美香子とは出会っていなくって、私は私と出会っていただろう、と思う。もう一人の私がどこかにいて、その子と私は出会っていたと思う。美香子はずっと歩き続けて、てくん、てくん、と相変わらず私は美香子についていく。

 さびしい。さびしい。さびい足跡。さっぴいてしまえ。

 私は美香子のことを好きになろうとしている、もっと好きになろうとしている。目の前に鴉が現れて、美香子を啄もうとしたら、私は止める。止めるけれど、「美香子と仲良くしたいのは、私だって美香子と仲良くしたいのは、私は鴉だけれども、美香子と仲良くしたいのは、私は鴉で嘴が尖っているけれど、美香子とキスしたいもの」と鴉に突如、訥弁と、弁明されたとしたなら、私は少し、自信を失うだろうな。

 私の目の前に散在していたバスの残骸の影が気がつけば、私の影と入れ替わっていた。

 薄暗い中、ようよう気づいた新事実だった。

 ありとあらゆる影が、太陽の光が消えたことをこれ幸いに、むずむずと真夜中にリビングルームを活発に這い回るゴキブリのように、影たちが、己が宿主を離れ、ごそごがさがさ、這いずり回っているのだった。

 自由がそこにあった。

 足枷のように人体から生えている影が、足枷のくせに人体から接続を断ち切って、足枷のくせに宿主よりも自由に、インターネットみたいに、相互に行ったり来たりを始めているんだ。なんだそれは。漣みたいに。

 目を凝らして眺めやれば、むっくりと燃え落ちた輪郭の破れたバスの残骸から人間ひとり分の影がにょっきりと生えていた。一方私の足元からは巨大なバスの車影。私が歩くと、その影は従順についてくる、タイヤをくるくる回しながら。

 うんこの爆発でめちゃくちゃになったバスからは唯一の生存者の存在をでもアッピールするかのように、人間の影、たぶん、私の影。

 どうしてこうなった、わからないけれど、こうなった。影と影が行き来する現象など聞いたことがない。

 大きな爆発が起こったせいで、何かの弾みで、ビリヤード玉みたいに玉突き現象で。影と影が交換、したの。

 美香子の影をまじまじと凝視してみたら、美香子の足元からは、巨大な、本当に巨大なジャンボジェット機のシルエット巨大な熊が立ち上がったみたい。ふっと、上空に目をやれば、あ、赤い旅客機が、チカチカと照明灯を灯しながら、あっちから、こっちへ、こっちから、あっちっちへ。

 これもバス同様戦争の兵器。鷹のように急降下しては、地上の敵的存在を捕まえては、急上昇し、はるか上空でその敵的存在を放擲し、恐怖の中で殺すのだ、だから、敵的存在はみんなランドセルみたいなパラシュート一式背負っているのだけれども。その旅客機から長く長く伸びて、地上に降り立つ美香子の影。

 美香子の影はあまりの高度にぼんやりと拡散しながらも、はるか上空の旅客機より舞い降りている。よほど目を凝らさねばわからぬほど薄いけれど。

 美香子の影は、旅客機に引きずられる形で、すごい勢いで走っていく。思わず追いかけたくなる。けれど、勢い凄すぎて遠ざかる。私は私の影のバスに乗りたくなる。影のバスを運転して美香子の影を追いかけたかった。でも、影のバスはうんこで爆発したバスの影。

 いや、大丈夫だ、私は美香子を抱きしめた。四本の腕で抱きしめた。抱きしめないって思って居たのに結局抱きしめた。これ幸いと抱きしめた。美香子の影は旅客機の影。その美香子の影に乗り込めばいいんだから。影に乗り込むなんてできるのだろうか。「黒子に徹すればいい」と美香子が教えてくれる。

 私たちは、影に寄り添うように地面に寝転がった。バスの爆発のために、あたり一帯のアスファルトは全てめくれていた。水滴の水面の波紋のように漣うっていた。だから、アスファルトのかけらが突き刺さって痛かったけれど、クレーン車がクレーンを使うとき四つ足で地面を支えるように、私は四つ腕で地面を支えた。美香子はそんな私に寄り添うようにして体を丸めて横たわった。繭か卵のようだった。

 しばらくしていると、旅客機の影が私たちを覆い包んだ。さらに薄暗くなった。カーテンコールを待っているカーテンお化けの気分。影の旅客機に乗り込むことができたってこと、なんだ、きっと。

 だから、私たちは、すごい勢いで横滑りを始めた。走り、地面の上を、寝たままで、影に乗って、走り出した。大破したバスから伸びる私の影から、私たちはどんどん遠ざかっていく。

 待ってよう、というように、大破したバスから伸びる私の影が私たちに手を伸ばす。でも、届かない。だから、手を振る。今生の別れ。もう出会えない。寂しい。まあ、いいじゃん。私は私の影を見捨ててしまってスピードを上げた。

 私たちはぐんぐん遠ざかる美香子の影をぐんぐんと追いかける。追いかけてゆく。

 寂しい程遠かった美香子の影も、少しずつ近づいていく。

 確かに上空を飛ぶ旅客機と、地上を這う旅客機の影とでは、障害物の有無に差があって、追いつきそうになっては、目の前に商店街の雑踏が現れたり、追いつきそうになっても、巨大な電波塔を迂回する一手間で一歩前で一瞬方角を見失いかけたりするけれど。そもそも追いついても地上と上空の落差で手が届かないけれど影と影は触れ合えても。

 でも、制限速度をはるかに上回る爆走だから、なんとかなりそう。

 まるで鎖に繋がれた番犬のように、ありとあらゆる固定物に人間の影が生えており、逆にありとあらゆる人間からは、巨大建築物の巨大な影が地表を覆っていた。

 それら陰にぶつかると、こちらの陰も破損してしまうから、細心の注意がいった。

 影の旅客機はどんな影も避けなければならなかった、その軌道は、まるでシューティングゲームの自機のようだ。

 旅客機のこと私は結構好き、嫌いじゃない。

 美香子の手のひらから久しぶりに魔法使いみたいに真っ白な光が放出された。行く手を遮る影はその光に炙られて、少しだけ細長くなり、なんとか私たちを乗せた旅客機の影が進路を確保できる。

 アニメーションのように、旅客機から伸びる美香子の影は、スタスタスタスタと両手を振って旅客機の速度で、でも優雅に、歩いていく。道ゆく人々がモデルとでもすれ違ったかのようにそんな影を振り返ってじっと見る。私は寂しさを感じる。

「避けて避けて避けて」って美香子の影に見とれている人々と旅客機の速度で追突しそうになりながら、早口言葉みたいに叫ぶ。そしてかろうじて、すれ違う。

 そして港。

 そして海上。

 水切りのように、波の上下に水しぶきをあげる。もう、海鳥以外人間のいない世界。

 今もしも、こんなところで、旅客機と美香子の影とが再びビリヤードの玉突きのように交換してしまったなら、私たちは溺れて死んでしまうだろう。あるいは人魚になれるだろうか。海中での人間の影など、くらげほど役に立たない。溺れるのもそんなに悪くない、苦しくさえなかったなら、自分の中身が透明な海水に満たされるというのは、悪くない、と思えるくらい透明に青く輝く海。

 よく見ると、海鳥たちから伸びる影も人間の男の影だった。飛び交う海鳥は私たちに興味深げで、海鳥に取り囲まれ、人間の男の影に取り囲まれる。

 それはなんだか愉快なカモメカモメ、かごめかごめ、まるで童謡、思わず歌い出したくなるじゃないか。

 私の手のひらに握られていた美香子の手のひらが暖かくなった。あまりの長旅に疲れ果ててしまったのだろう。すやすやと寝息が聞こえた。私も眠たくなった。眠ることにした。眠れば夢を見るだろうけれど、その夢の中で目覚めてすっくと立ち上がってしまえたならば、夢の中が現実となって、眠っている肉体の私が夢の中になる。だから、現実に戻ってきたければ、夢の中で目覚めてはならない。

 私は九時間ほど眠った。見知らぬ島に、たどり着いていた。

 

 瞼を持ち上げる、やしの実やしの葉っぱばかりが目についた。南の島だった。

 私たちのすぐ横に、旅客機が不時着して、ガソリンをどくどくと垂れ流していた。美香子から伸びる旅客機の影は、私の足元から伸びるバス同様爆発、炎上大破していた。

 寂しかった。少し、悔しくもあった。

 旅客機の乗客も運転手も皆が皆透明人間だったみたいで、やしの実ややしの葉っぱたちが、強く風でも吹いたかのように、悲嘆にくれ自暴自棄になる透明人間たちによりて、ゆさゆさと揺れてまどって風に踊っていた。通るより踊るの方が足がある分通るって感じ。

 透明人間たちの「うわああああああああああ」という悲嘆の叫びが、人影も見えないのに、響いていて、ちょっと怖かった。私の横を新幹線のように通過した、けど新幹線の新幹って新に木の幹で薪って感じがする、薪が線になっているつまり線路の枕木。肌の色で人を差別しちゃいけないけれど、「うわああああああああ」叫ぶ透明人間は、うるさく怖く不快蝿みたい。

 けれど、風は、気持ちの良い、風だった。南の島の海風なのだ。肌が痛いけれど、気持ちが良かった。美香子、美香子。

「美香子、美香子」美香子美香子美香子。「なに」「起きて、起きて起きててて」「眠たい、んむたい、眠たい、なむたい、まだ寝てたい」「着いたよ」「どこ」「知らないけれど、着いたよ」「ここ、どこ」「どこでしょう」「うわあああああああああああ」って叫びつつ走り回る透明人間の一人が、私と美香子の向かい合う一間ほどの隙間を走り過ぎた。

 そうだ、と思った。私は、「うわああああああ」を捕まえた。そして、殺した。腹減っていた。透明人間の腹を割いた。血は、白かった。精液みたいだ。あと、消化中の消化器官の中身は透明じゃない。うんことか茶色い。そして、私は人間を食う。けれど、その肉は透明だから、人間を食っている感じがない。栄養補給ゼリーの人間味みたいな食後感。ゼリーみたいにやわらかいし、すっぱい。

「食おう食おう」と美香子を誘った。うんこバスで、うんこをして、それから十数時間がたったにも関わらず、一食もしていなかったのだ。限界だ。透明人間は透明だから、たとえ同胞が殺されても同胞が透明すぎて気づかない。せいぜい断末魔が一つ聞こえて、肉と血の匂いがするだけ。でも、みんな絶賛「うわああああああああ」と叫んでいるから断末魔もなにも関係ないや。

 良かった、旅客機と一緒に遭難して。しばらくは、肉に、食べ物に、困らない。私はほっと安堵する。そうなのだ。私たちの戦争の相手は透明人間なのだ。だから、バスは透明人間を轢き殺す。そして、私も、末端の一国民として、透明人間を食べるのだ。

「いや、戦争は嫌いなんだけれども」言い訳に説得力がなかった。「美香子、私、野蛮だね」「おいしいよ、今森さん」「本当に」「うん」「うわああああああああ」敵国民の私たちは透明人間に気づかれないように、影をかぶって横になって、もう一度寝た。透明人間を食べすぎて、透明にならないか、心配だった。「うわああああああああ」という叫びも聞きなれると子守唄だ。

 夢の中で私は助けを求めたかった。助けて、と言いたかった。助けて。夢の中で叫ぶと、美香子とぶつかった。


 夢の中で美香子の体と私の体がX字型に交差して、そして融けあいそうになった。

 美香子の気持ちが私の中に流れ込んでくるのがわかった。変わった子だな、と思った。あれはいつ?

 小学生の頃、美香子と初めて話した日のこととか、美香子の髪が真っ黒に染まっている夕闇とか思い出した。

 でも、その美香子の目から私を見たことはなかったから、美香子の気持ちが流入した時、私のかけらが、たくさんたくさんそこにあって、驚いた、驚かなくてもいいのに、驚いた。

 美香子ちゃんは、魔法使いなの、うん、そんな会話を幼い日繰り返し交わした。

 言葉がよだれで糸引くくらい、繰り返した。

 魔法使いなんて他に知らないから、何度もなんども確認しないと信じられなかったんだ。

 魔法使いなの、うん、そうだってば。

 魔法の文書を読ませてもらったし、魔法言葉だって教えてもらったし、魔法も見た。人間が生き返るところさえ、見た。

 そんな幼年期が夢の中に広がっていた。私は今十歳だった。十代という言葉に憧れていた。でも、そんな言葉に憧れている自分にバカらしさを感じたりもした。お金が手に入るとすぐに使ってしまっていた。コンビニにあるだけのセブンティーンを全て買って、満足してレシートをもらった。少女漫画ばかり読んでいた。

 美香子の手が、暖かかった。焼き芋みたいだった。折り曲げても、真ん中で綺麗に割れてくれない、腐りかけた芋を蒸したかのような焼き芋の手だった。腐りかけた鎖帷子を身にまとっていては、きっと戦場で死んでしまうけれど。

 いつだったっけ、思い出せない、思い出せた、私の涙が滝になったのは。

 美香子ちゃんが私を死ぬほど殴って、泣いてしまった時、私の涙は滝となって、近所の養鯉場の鯉がことごとく私の目にめがけて滝登りをして、たくさんの進級したてのドラゴンが、私の眼球という池を悠々と泳いだ、そんなことも、あったのだ。

 全身打撲で入院するほど殴られて、それに両目がドラゴンで、私は目を廻した。

 そんなだから、私は緊急入院して美香子ちゃんがお見舞いに来てくれて、どうして少年院に行かなかったの、だって私は少女だから、って美香子ちゃん。それは中学一年生くらいの時で、ドラマでそういうシーンを見たのだろう、美香子ちゃんは私の病室でりんごをポケットから取り出すと不器用そうにざくざくと皮を剥き始めた。りんごの川が病室全てを飲み込んで、その川へ私の眼球に巣食っていたドラゴン達がダイブした。だいぶ楽になった。目の前がずっとチカチカしていた私はだいぶ楽になった。

 気がつくと、私の目の前に、幼き日の美香子ちゃんや幼いままの私がホログラムのようにおぼろげながら立っていた。

 なに。何か用があってここまで来たの。

「大人になるってどういうこと」と幼い私たちは言った。でも、私まだ高校生だから、「私はまだ大人じゃないから」わからないよ。「わかってよ、私たちの気持ち」大人になるのが怖かった幼かった頃の私。

 だって、父も母も不機嫌そうだ。新聞紙に包んだ、陶器のように、不機嫌そうだ。

 ここまでが夢。

 夢なのか現実なのか覚めやらぬ夢。


 目を覚ますと、美香子はとても巨大になっていた。「どうしたの」「食べてたの」「何を」「透明人間の全て」見るとあたりには食べ残したのだろう、透明人間の内臓が苔のように散らばっていた。

 ホタルイカみたいに散らばっていた。

 波打ち際に大量のホタルイカが打ち上げられたかのように、透明人間の内臓は確かに透明なのだけれども、その内側のうんこやら未消化物やらが透けて見えるから、葛餅みたいなヴィジュアルなのだ。

 美香子は、身の丈三十メートルほどになっていた。過食症だ。そして体が半分、透けていた。アニメ映画で見たことがある。

「夜、眠っている時、すごく、お腹が減って、目が覚めて、もうどうしようもなく、もどかしくなって、そういう時ってあるよね、げぇえええええっぷ、だから、いつもこうなんだ」恥ずかしそうに自己嫌悪に満ちているみたいに、美香子は言った。でも、それは単に盛大なゲップを恥ずかしがっているだけなのかもしれなかった。自己嫌悪なぞそこにはかけらもないのかもしれなかった。

「だから、私はいつも、朝方ランニングするの。痩せなきゃ、夜食べて太った分、痩せなきゃって。一晩で太った分一朝で元どおりにしなきゃ、いけないから」

「そっか」

「身の丈30メートルで朝の五時から走り回るから、みんな迷惑だよね。そもそも、身の丈30メートルだと、私が住んでいるマンションが、私の洋服代わり、腕をこう窓から突き出してさ、箱男みたいに、お父さんの愛車を靴の代わりに履いて、それで、ずしんどたんずででででん、げぇええええええっぷ、たくさんの人が虫みたいに私の足で踏まれちゃう。いぇえええい。だから、虫嫌い」

「でも、まあ、ここは無人島だから」「今森さんのことは、踏まないように気をつけるから」

 げっぷの匂いが、もう、あたりでむんむんしてる。きっと食べ過ぎ急性高血圧頭がぼんやり食べ物で酔っ払っているんだ美香子。

「うん、お願い」私は命乞いをして、美香子は走り始めた。

 犬が長く長く遠ぼえするように、げぇえええええええっぷ。げぇえええええええっぷ。

 美香子は暗闇に向かって猛るように、げっぷを放った。健康な証拠だ。そして、太り過ぎのため、かったるそうに走り始めた。

 凸であった島が、美香子の凄まじい足踏みによりて凹になった。だって、そんなに大きな島ってわけでもなくって、三十メートルの美香子が四歩で一周できる円周なのだ。それはランニングというより四股や反復横跳びって感じだった。

 けどよく考えたら身長が30ペートルもあれば、多少の水深ならものともしないから、島の周りをじゃぶじゃぶと走り回ることもできるのだった。

 一方、美香子の足跡によってできた島の真ん中の湖で、私は泳いだ。気持ちの良い朝だった。朝日がないのが勿体無いくらい、朝だった。太陽の代わりに、巨大な懐中電灯で自分たちを照らしたら、私たちは、なんだかとても変な人だった。

 でも、そのシルエットもなんだかかわいかった。

 巨大美香子が踏み荒らしたために生態系や植生も含めてめちゃくちゃになっちゃった島は、よくこねたパン生地のようによく伸びた。

 私たちはそれがなんだか面白くて、島の一部をちぎっては投げたり、様々な形に捏ね上げてその造形を不細工さも含めて遊んだ。

 ちぎっては投げてちぎっては投げてをしていると、小さな島嶼ができた。スモールサイズの日本列島とか超スモールサイズの六大陸とか、遊び半分で作った。すると不思議なことに、パン酵母のようにぷつぷつとそれらの島々に小さな人が自然発生してわらわらした。

 可愛くて健気で無力げだった。

 その小さな人々は本当に小さくて、私の小指でも押して潰せた。ダニのようだ。

「どうしよう」と美香子が言った。「なにが。よくはわからないけれど」美香子は困惑して首を振る。「新世界を作ってしまった」「いいことなんじゃない」「よくないよ」「どうして」「なんとなく、よくない気がする」「じゃあ、壊そうか」「それはさらに良くないよ、たぶん」

 いつまでたっても明るくならないのは、太陽が爆発したまま消滅したままだからだ。仕方ないから私たちは懐中電灯を小さな人々のために遺しておいて、影の旅客機に乗って、影の旅客機は美香子が巨大だった時に巨大だけど人間並に器用なその手で本物の旅客機の方を修理したら治ったんだ自然と、その時にはもう美香子は普通サイズの美香子に戻っていたから、でも、すごい量のうんこだったから、でも、そのうんこは透明だったから、でも匂いは風に乗ってどこまでもゆくから、私は美香子が透明人間を食べ尽くしたせいで、まるで朝食にありつけずお腹が減って不機嫌だったのだけれども、旅客機に乗って、超スモールサイズの六大陸からも、それより少し大きめのスモールサイズの日本列島からも立ち去ることにした。

 透明なうんこが光り輝くくらい、太陽の光が恋しかった。それぞれの島は、影の旅客機が吐き出す影の排気ガスですごいことになっただろう。すごい嵐に見舞われただろう。すごい数の小さな人々を殺してしまっただろう。

 やっぱり、新世界を作ることは罪深いことなのだな、って思った。

 たくさんの人が死んだ後で、後悔するなんていやはやだけれども。嫌は嫌。

 美香子は普通の大きさに戻ったはいいけれど、半分透明なままだったから、私は美香子を見逃さないように、ぎゅっとその両手を強く握った。

 四本の腕を絡みつかせるようにして、ちょうど指一本欠けた手が、誰かの両手を不器用なりにぎゅっと握るように。美香子の手のひらを私の二十指がが占領した十二指腸とどこか似た私の手指の合計。それは美香子の体温だったから愛おしかった。

 影の旅客機は無限のガソリンでも積んでいるのか、何もすり減らさずにどこまでも飛んでいけた。だから、何処へだって行けるはずだった。


 けど、どこかへ、行きたい場所が、あるわけでもなかった。だから、ただ、直進するしか能がなかった。

 時折ジグザクに気まぐれに飛行しても、飛行機酔いが激しくなるだけで。海底にも地底にも宇宙空間にも行けないけれど、どこにでも行ける。どこにでも行きたいわけじゃなくても、どこへでも行ける。

 だから、私たちは大阪のゲームセンターにいた。

 私たちはそこでゲームをしていた。シューティングゲームだった。ゲームをするのは楽しかった。下手くそだったけれど、二人なら恥ずかしくない。ゲームをするのは楽しかった。太陽がなくなっても、夜中のように屋外のネオンが煌々と輝いていて、だから、寂しい、感じと、寂しくない、感じの両辺が、二等辺三角形で、津波のように味わえた。

 叫べば森の中。叫べば森の中。森の中が声の中に埋め込まれていて、大きく叫べば、鬱蒼と薔薇と森の中。

 私たちはゲームセンター内を練り歩いて、UFOキャッチャーでUFOをキャッチして、そしたらUFOから宇宙人が踊り出てきて、踊っているんじゃなくて、それは怒りの表明で、でも、それもそうだ、気持ちよくふらつき遊泳していたら、いきなり子供の玩具で掴みかかられたのだ、そりゃ誰だって怒るよ、でも大人気ないな、だからといって、宇宙戦争が始まるなんて。

 宇宙戦争はたくさんの存在を殺し消す戦争だった。これまでの戦争の比じゃなかった。戦争の火。Fire.

 たくさんの存在が消えていった。

 切り絵みたいに、世界の残りが切り取られて、私たち二人が残り二人となって私と彼女が今森秋子と美香子ちゃんだった。

 宇宙人たちが、たくさんの存在を、燃やしてくれた。父母も担任の先生も。兄も姉も同級生も。美香子だって同級生だけれどさ。美香子は美香子のまま、私を見つめていた。

 寂しい、寂しいよ美香子。美香子につぶやくと、私が漫画のキャラクターで、美香子がそのキャラクターのセリフを包む吹き出しのようになった。吹き出しそうになった。私の台詞が美香子の顔に書いてあるんだ。


 寂しさがどんとこい、どんどん募った。

 でも、何が寂しいのかよくわからないのだけれども。

 冬のように、何かが失われていく、冬の用意。

 美香子が、魔法を教えてくれた。だから、私も、もうすでに、魔法使いになれた。

 ノアおじさんが翼の生えたお地蔵様が、私の魔法で、私の手のひらの上に生まれて、そして、枯れた。

 魔法使いだから、世界なんて簡単に、作れてしまう。簡単に作れてしまった世界が、目の前で溢れていくのは悲しいことだった。

 私は取り返しのつかないことをしてしまったみたいに、寂しくなってわっと泣いた。

 涙の代わりに、涙腺からルイセンコが溢れ出して代わりに泣いてくれた。

 でも、瞬き一つでギロチンカッターコロコロと生首が転がった涙腺コロコロ。サッカーボールみたいにコロコロ。

 すると次は、涙の代わりにうんこがもりもりとまぶたの下からあふれ出した。まるで自分の中身などうんこにすぎないかのように、あふれ出した。うんこの原材料がうどん粉ででもあるかのように、うどんのようににょろにょろとうんこがあふれ出した。目からビーム。

 長く綺麗だった私の髪の毛も、うんこに絡め取られそうだった。

 嵐。夏の嵐。寂しい夏の嵐。うんこが膨らんで、うんこが途切れた。

 変態になった気分だ。でも、生理現象。

 私は美香子の手を掴んだ。

 

 気がつけば、私の腕は二本だった。羽もなかった。美香子が微笑んでくれた。美香子が私の頬に付着したうんこを舐めとってくれるほど二人は親しかった。

「美香子なんでうんこ舐めるの」「何言っているのこれは、ブラックパンサー味のチョコレートソフトクリームだよ」「そっか」「そうなのさ」「じゃあ、甘いの」「あまーいの」

 大げさに笑うと口の中が見えて、口の中は宇宙色で、私たちはとぼとぼと学校からの帰り道を歩いたり立ち止まったりして、時間を使うのだった。

 今日も楽しかったね。明日もあるのかな。

 太陽が私たちを照らしている。あれ、太陽がいっぱいある。

 魔法使いにしては安い風が吹いている。大杉栄が牢獄に閉じ込められている。社会科の教科書が風にはためいている。私は喚いている。

 美香子が私の手を握っている。

 寂しくないよ、と言おうとしたら、私の口は蟻の口になっていた。

 「わ」っと叫んだ。私の心臓の音があなたの口の中で響いているのは、あなたが私を食べたからだ。

 透明人間たちの王国では、まだ戦争が続いている。

 私は、兵隊のふりをして、ニコニコ笑っている。

 優れて寂しくなりそうだから、笑顔を絶やさぬように。

 目の前が、見える。「美香子」名前を呼ぶと、名前が返事をした。生返事だった。

 美香子のパワーが私を包み込んで、野生の中で驚いて消えた。囁きの森。森のざわめき。「おい」第三者が私を呼んだ。リトルフラワー。お父さんだった。空間を思い出して、私はにっこり笑うと、その笑顔だけ美香子だった。「なに」「#$#!%!!$」それが、お父さんの風。花が開いて明るい。私は美香子がかわいそうだった。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいそう。かわいそう。かわいそう。かわいい。美香子、またね。美香子が大きく手を降って、その手に振り払われて、私は別れた。


 美香子は紙飛行機のようにひょいひょいひょひょひょい、と飛んでいった。

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魔法使い美香子 @DojoKota

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