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youtube用の日記

ふだんyoutubeのコミュニティページに文章を書いている。コミュニティページはてっきり文字数無制限だと思ってたんだけど文字数オーバーです、と表示されたので急遽
こちらにコピペする




日記

今日病院に行った。ここのことは話さずにお医者さんと久しぶりに話した

今さっきメールくれてた人に返信した。特に気の利いたことを思いつかなかったので手短な返信をした

ここしばらく外出をしなかったので週間連載中のハンターハンターを先週分読み逃していた
なので、今ジャンププラスでオンライン購読してみた
今先週分を読んでる
普段は図書館に置いてあるジャンプを読んでる
そういえば図書館ではジャンプはクビチョンパのような人体切断シーンがあると子供に貸し出し不可になるんだけど、ちょっと前にも子供に貸出不可になっていて「また呪術廻戦が派手なことしたのかなあ」と思って読んだら読み切りのギャグ漫画でバラバラシーンがあったのだった。

広島の図書館は毎年10月になると「図書館まつり」という謎のイベントを開催する
で、その際「平和を感じつ本をおしえてください」という企画をやる
「平和を感じる本を紙にタイトルと推薦文を書いてそれを壁に掲示する」というよくわからない企画です
それで先日僕は羽生生純の「ワガランナァー」を「平和を感じる本」としてその紙にかいて投函しておいた。

(ワガラナンナァーというのは3人組のホームレスが主人公の漫画です)

というのも毎年その企画では「はだしのゲン」とかそういう系の本ばかりが掲示されていてそれがいやだったからです

僕は「平和を感じるというテーマなのにいつも戦争を感じるような本ばかり推薦されているのは変だと思う。たとえばゲンとかいう漫画とか」みたいなことをワガランナァーの彗星文に書いた。

平和を感じるというのはイマイチよくわからない。

だって僕みたいなやつはいざ戦争が始まったとしても無責任に逃げ出すだろうからだ。
戦争には耐えられない。逃げる逃げるである。だから僕にとって戦争も平和もない。
(平和な時だって逃げているのである。戦争になって逃げないわけがないじゃないか)

けど、そういうものを書いたのが恥ずかしかった。今日は図書館に行ったんだけど、その企画のコーナーは避けて通った。

別に特別戦争体験を語る人間が嫌いなわけじゃないんだ。嫌う理由もない。図書館の人のことも嫌いじゃない。どちらかというと親切な人や色々な人がいて好きだ。

お爺さんやお婆さんのことは基本的に嫌いだけど、ひょんなことで仲良くなるといい人な気がするし、ひょんなことで仲良くなるとつまらない話ばかりされて、やっぱりくだらない人な気もするけど、別れ際にお土産とかくれたりしていい人なのかなと思ったりもする(けど友達になれない)。

ところで「平和を感じる本」というテーマはむつかしい。
正直、僕はなんにもおもいつかない。
まあ、たぶんギャグ漫画だろう、という算段はつく。
やっぱりギャグ漫画を読んでいる時は平和な気がするからである。
しかし、じゃあ、このギャグ漫画こそが一番平和だ!っとおもえるかというと、今これ書きながらおもったんだけど「ぼのぼの」とか「クレヨンしんちゃん」とかかなあ、である。しかし、それもなんか違うと思う。
まあ、「よつばと。」とかがまあ、ありがちかな、と思う。
けど、俺べつに「よつばと。」そんなに好きじゃないからな。
となると「涼宮ハルヒの憂鬱」とかどうかなあ、と思ったりする(10巻くらいまでしか読んでない)。
けど、普通はそんなこと考えずに、なぜか知らないけれど、「はだしのゲン」をみんな「平和を感じる本」だと思っているみたい。
ちなみに、僕は実ははだしのゲンを読んだことがない。最初の2、3話は読んだけど「看板屋になる話」としか認識していない。
どうして「看板屋になる話」が平和を感じるんだろうか?とよくわからない。
あと、はだしのゲンよりあすなひろしの「りんごも匂わない」の方が戦争漫画としてよいとおもう。よいとかわるいとかないけど。
あすなひろしの「りんごも匂わない」はよかったら古本とかで買って読んでみて欲しい。16ページくらいの短いはなしだし。

そもそも平和を感じたいと思ったことがない。

仮に平和を感じたいと思っている人がいるとして、その人が平和を感じるための手段として本を選ぶとしたら「よつばと。」だと思う。
あるいは「先輩がウザい後輩の話」とか。あるいはジャニーズのコンサートとかにいけば良いと思う。

あるいはディズニーランドとかでもいいかもしれないし、ハワイとかでいいんじゃないかと思う。

で、ハワイとかには行ってみたいなと思ったりする。

けど、どこかに行きたいと思った場合「彼女がいないから行きたくない」って思う。

ところで、もっと良さそうなのは「猫カフェ」とか「メイド喫茶」とかじゃないかと思う。

そういうふうにして僕たちは平和を感じられると思う。

けど、「完全なる飼育 made for you」(映画)は実は好きだったりする。完全なる飼育シリーズはオリジナルとこのmade for youしか最後まで見ていないけど、まあ、オリジナルがいい映画だとは思うんだけど、made for youは主演の男性が脳梗塞か何かになったことがあるらしく(うろおぼえ)、演技にもその後遺症のようなものが見え、なんだか親近感というか何か気持ちが動かされるものがある。あと、ついでに書けば亡くなった前田健さんも脇役で出ていて元気そうでやや嬉しくなる?と書きつつ、よく知らないけど
もちろん竹中直人も出ている。あ、なんでこの映画の話になったかというとメイド喫茶が舞台の映画だからだ
メイド喫茶には行ったことがないし多分これからも行かないけれどこの映画を通してのイメージとしてのメイド喫茶は嫌いじゃない
ところで完全なる飼育のオリジナルは誘拐される女子高生の体格大きいことがとても大事だと思うよくしらないけれど竹中さんが小男に見えたのが良かった

女の人は基本的に嫌いである。こちらが本気で話していることを理解できないから嫌いである。


ところで、というわけで、「平和を感じる」ということで僕なりに考えると僕にとっては、そういうことになる。
だから、よくわからない。

でも本当に平和を感じる本というのなら、ジャニーズファンにとってはジャニーズのアイドル本が良いと思うし、例えば僕なら、戸田真琴さんのアダルトビデオとかが良いのではないかと思う。
だから、「平和を感じる本」というテーマで戦争系のこわい本をあげている人たちが何を考えているのか僕にはよくわからない。
なんで「BOMB」(雑誌)とか篠田麻里子の写真集とかじゃなくて「はだしのゲン」なんだろう?よくわからない。
僕ははだしのゲンをみても平和を感じたりしない。眉毛が濃いな、と思う。

たとえば水木しげるさんの「総員玉砕せよ」は怒りを感じる。みずきさん自身書いていたけど「戦争をテーマに漫画を書くとふつふつと怒りが込み上げてくる」みたいなこと書いてたと記憶している。だからかしらないけれど、「総員、玉砕せよ」を読んだ時、怒っているのだろうな、と感じた。
というわけで、はだしのゲンを書いた人も多分怒っていたりもしたんだろうし、そこで感じられるのは、怒りとか悲しさとか戯けた感じとか、そういう色々だと思う。あすなひろしの「りんごも匂わない」はなんか怒りというか悲しみというかよくわからない感じである。
といいつつ、まあ、「この世界の片隅で」は日常描写も多いし、まあ、平和を感じる本というテーマに合っているかなとは思う。

だから、もっとテーマを変えたらいいと思うんだ。いろいろ怒りを抱えている老人は多いのだろうと思う。じゃなかったら「平和を感じる本」というテーマでわざわざ「はだしのゲン」とかすごく筆圧つよく達筆に書いたりしない。
じゃあ、怒っているなら怒っているので良くって、「あなたの怒りを表現する本を選んでください」というテーマの企画だったら良いと思う。
それなら、僕は「リンウッドテラスの心霊写真」とか下手だけど上げてみようか。それともさらに下手に「ステーシーズ」か。
よくわかんないんだ。

平和団体の人たちは嫌いである。怒っているなら怒っていると言えばいいのに。僕が女が嫌いだというのと、同じことじゃないか、と思う。
僕は怒っている。女が嫌いなのは怒っているからだ。

一方で、核兵器を無くそうとか言っている人たちは多分怒っているはずである。じゃなかったらあんな権力を振るおうとしない。権力を手にしようとしているのは怒っているからだと思う。
怒っていなくて悲しんでいるだけの人はフォークソングとか歌って満足するのである。それはとても良いことだと思う。

子供の頃から違和感を感じていた事例をいくつか挙げるけれどどれもやっぱり怒っていたんじゃないかと思う。

1)広島現代美術館でのpom↑みたいな名前の創作グループのパフォーマンスに被爆者が抗議をした事件
2)平和公園でスケボーをしていた青年たちが盗撮され、新聞で掲載され、それを元原爆資料館艦長などが新聞紙上で罵倒した事件
3)平和公園の折り紙が燃やされた際、地方テレビ局などで一方的に犯人を非難した件
4)とある詩人の朗読会に行った際、90歳くらいのおばあさんが詩人に対して「あなたは原爆の悲惨さを詩にしていない」と非難した件(これはちょっとびっくりした。たぶん認知症か何かなんだろうなとは思った。というのも、その詩人は別に「原爆の悲惨さをテーマに詩をしています」とかそいう人じゃなかったから。大菩薩峠とかの評論書いてるような詩人。)

とか

怒っているから八つ当たりしたり、非難しているんだ、と理解したら理解できる。
確かに怒っている時はそういうことをしたくなる。

だからぶっちゃけただ怒っているだけなのである。

ドナルド・トランプが暗殺未遂時すぐに立ち上がって怒っていた?のと同じようなものだと思う。
で、怒ることは良いことだと思う。
生命力がある証拠だと思う。

けど、ただ怒っているだけなのにそれがあたかも冷静であるかのように捉えられているのがよくわからない。
いや、怒りつつ冷静であることも可能だと言い張ることは可能だし、実際そういうこともあると思う。
けれど、怒っているけど冷静だという意見を言う時人は時間と共に言っていることがちぐはぐになって二枚舌になっていることが多いと思う。僕自身そういう面がある気がする。

ある期間怒り続けることが人間は可能であり、ある期間怒り続けていると、だんだんA時点で言ったこととB時点で言ったこととで矛盾したりしてくる。
怒っているとなぜか知らないけれど、二重人格みたいになってくる。だから怒りながら色々なことをすると自分の色々な面が露出して自分を深掘りできるような気がするのだろう。

逆に怒っていない状態で、人を包み込めるかと言えばよくわからない。怒っていない人を見かけたことがあまりない。
というのも、被爆者たちも一見怒っていない人のように振る舞っているけれど結局怒っているように、大体の人はみんな怒っているからだ。

怒っている人は優しくないから、女の人が僕に優しくならない。なぜならば、女の人たちは、僕に男への恨みを僕に対してあてつけて復讐しているからだ。

その証拠に一般論で話を解決しようとしたり、屁理屈を言っているなどと僕が構築しようとした論理を一方的に否定する。

だって、僕は、

けどまあ一応、僕が被害者なんだ、という話をしたがっているだけかもしれない。

今メール確認したら返信に対する返信が来ていて、その返信は明日の朝しようと思う。

気がついたら9時になってる

恥ずかしくなるよ。僕は自分のことが恥ずかしくなる。

悪い人間ではないと自分でも自分のことを思う。けど、立派な人でもない。なぜか怖がりではないけれど、勇敢というのとはちょっと違う気がする。

(ここからは自分について書いてみたい)
怖がりではないのだ。高所恐怖症だし、暗闇もちょっと怖いけれど、そのくせ深夜に竹藪に侵入して「すごく怖い誰か助けて」と叫んだことがある(誰も助けてくれなかったので、仕方なく、唯一覚えている落語「寿限無」をぶつぶつ呟き続けた。すごく蚊に刺された)。
恐怖というのは意外となくなる。虫がこわくても、虫を捕まえて凝視していたら10分くらいで虫が怖くなくなる。
けど、知らない人に声をかけるのはまだこわい。なんで怖いんだろう。自分が相手に危害を加えないだろうか的な怖さはある。

自分について書こうと思ったけど、あんまり何も浮かんでこない。
ちょっと前思い出したことだけど、小学校に入って同級生とうまく馴染めなかった理由の一つが、同級生がカマキリを踏み潰して遊んでいてそれがうまく一緒にできなかったというのがある。
これは結構大きな厄介なことで
同級生は遊びに誘ってくれたこともあるし実際僕と仲良くしようとしてくれたと思う。
一方で虫を殺さなくてもいいのにな、とか思っている自分もいる。
同級生は善良で、僕と仲良くしようとしてくれていて、
一方で、僕はよくわからない理由で怒って暴れたりしていた。
同級生側の視点に立った場合、よくわからない理由で唐突に叫んだり怒ったりする人間だった。

ところで、こうした傾向は多分今も続いている。
けど、以前との違いとして、今の自分はそもそも自分でも理由がわからないまま怒ったり叫んだり、興奮している。
あるいは、昔〇〇で怒っていたから、今も〇〇で怒ってみよう、という感じで惰性で怒っている。

ここに書いていた被爆者への反感?も、子供の頃彼らに対して反感があって、それを引きずっているに過ぎない。
実際、ほとんどの原爆体験者は今では認知症だったり、ただのおじいさんおばあさんだったりする。反感の持ちようがない。
で、その反感を紐解くと結局のところ「お前は俺の友達じゃない」「友達になってくれない」くらいのことだったりする。

けど、友達になりたいわけじゃないし、友達になるってのもよくわからない。どうぶつってよくわからないなって思う。犬とかと過ごしていると、その犬がほんとうに自分に懐いているのかよくわからない。
僕は元気な時は、犬と散歩する。それは、まあ、残りの寿命も所詮5、6年だし、外で過ごした方が犬も楽しいかな、と思うから、やっている。
犬は、一緒に外に出ると嬉しそうにする。けれど、普段、犬の側から僕に対して何かするわけではない。

正直、書くのが疲れてきた。

ところで以前動画で喋ったけど、ちょっとまえ玄関を開けるとほんと玄関扉すれすれのところにうんこが落ちていて、おそらく近所の猫のうんこだった。僕は、理由がないと行動できないので、犬と散歩する際何も持って行かない。というのも、首輪もリールも必要性を感じないし、うんこを拾う際も手があれば拾えるからだ。そんなわけで犬と散歩中、犬がうんこをすると素早く素手で拾い上げ適当な川や溝や畑などに放り投げる。犬のうんこの匂いというのは二、三度ズボンに手を擦り付けると薄れる。これも最初の頃はちょっと「うええ」って気持ちがあったんだけど、二、三回やってみると、慣れた。子供の頃から誰かに命令されるのが嫌で、命令に根拠があるならいいんだけど、その命令の根拠も別に絶対的に確かなものじゃないと感じるとその命令に従いたくなくなってしまう。けどこの社会は色々な命令によって成り立っていて、僕が食べるものとかもそういう命令だったりする。
ちょっと疲れてきた。

で、玄関前にあったうんこも触ってみたんだけど触った瞬間に普段触っているうんこの匂いと違うってことがわかって、それがちょっと嬉しかった。で、たぶん猫のうんこかなって思った。で、なんでわざわざ玄関の前でうんこしたんだろうって話で、そこには猫の側の何か、アピールというかメッセージがあるのかもしれない。

例えば、小学生とかの頃、好きな子がいて好きな子が話しかけてくれたりしたらそのことを根拠にこの子は僕のことを好きかもしれない、と自分で自分に言い聞かせ続けた記憶があるんだけど、そういう感じで動物に対して気持ちを向けている自分がよくいる。例えば今日も寝ていたら目の前に小蝿がいて、その蝿が僕の側に向かって歩いてきていた。僕に向かって歩いてくるってことは僕に好意があるのかもしれないと考えた。けど、しばらくしたら別の方向へ向かっていった。

鳥とか、鹿とかに対してもそういう気持ちを抱きがちである。

一方で犬とかに対してはそういう気持ちが報われる場合もあり得そうである。

けど、鳥とか鹿とかが別に好きなわけじゃなくって、向こうが僕のことを好きになってくれるかもしれない、好きになってくれるのならば、好きである、みたいな感じである。

猫にしてみたらたまたまなぜか玄関の前でうんこしただけなのだと思う。
いや違う気がする。

猫ってすごい

もうトイレ行きたくなったの、休憩したくなったのと、眠る前にハンターハンターの402話目を読んでおきたいのでここで書くのをやめる。
長く書いてみたのは、何か書きたかったからだったりする。別に意味が通ることを書こうと思っていないし、何か主張があるわけじゃない。

ところで、一人で元気が出ずに寝ていると、頭の中でここに書いたようなことをぐるぐる考え続ける。同じようなことばかり考える。誰かを殺す方法とか嫌いな人にどういう仕返しをするのがいいかとか繰り返し考えたりする。
それで頭の中で考えているけれど、それが誰にも届かない感じが虚しくなる。
一応文章にしておけば誰かが読むことができる。
けど、別に何か伝えたいことがあるわけじゃない。
頭の中で考えているけれども伝わらない状態を経験しており、その反動で書いているだけだろう。寝ている時より少し楽しかったりする。

少し疲れたからこの投稿にどんな意味があるかよくわからないけど、おわる

けどやっぱり、平和を感じるというテーマだと、やっぱAKB本とかたまごクラブ(雑誌)とかになるよなあ、と思う。
で、今図書館のサイトで確認したら正確にはこうだった

「本で感じる「平和」~心があたたかくなる1冊を教えてください~」
「広島市の平和文化月間(11月)に合わせて、図書館では、あなたが「平和を実感したり、平和の大切さを感じたりした本」を募集しています。
ぜひ、あなたのおすすめ本をご紹介ください!」

だった。

あ、「平和の大切さを感じたりした本」とある。ああ、これならはだしのゲンが有効である。
ただ、まあ、一応前半の「平和を実感したり」という部分で言えば、やっぱりジャニーズファンにとってのジャニーズのライブとかになるかなあ。
多分僕は平和を大切だと感じたことがないんだと思う。だから、後半の主張を読み逃していた。
だって、これまで生きている間いろいろ戦争があったけれど、どの戦争の時も、他人事であった。

ただ、僕はこういう企画の時にいつもきまってはだしのゲンが登場するのがきらいなんだ。
だって、それって作品としてのクオリティとか美しさとか抜きに、選出されている気がするから。

ただちょっと我ながら言い訳くさいなとは思う。だからこういう話は苦手である。
本当は、こんな企画なければいいのにって思う。
けどやっぱないんですね。

峠三吉の「原爆詩集」は実は好きなんだけど、だって、余命わずかな状態でああいうものを作ったってすごいなって思うから。で、原爆詩集は好きなんだけど、別にそれを読んで平和の大切さなんて僕は感じなかった。
というのも、たぶん、平和も戦争もわりと分け隔てなく感じるからだと思う。
比治山女子という学校が広島にはあるんだけど、峠三吉の詩で確か「比治山(という山も広島にはある)の陰で何もわからず焼け死んだ女学生」みたいなフレーズがあったと思うんだけど(僕はこの詩を読んだ後そそくさと比治山まで行ったことがある)、その詩を思い返して思うのは「死んじゃった女の子はかわいかったんだろうな」ということである。可愛い女の子が死ぬなんて残念だ。という感じです。
で、僕はそこで全然平和って大切だなって思わないし、戦争って悲惨だともあまり思わなくて、死んじゃった女の子が可愛かったはずだ、という信念が強く感じられるだけだったりする。
逆に男の子の死とかも描かれるわけだけれども、それに対してもかわいい男のことだったのかな、とか思う。

だって、変ですよ。原爆が落ちなければ、広島は戦争じゃなかった。原爆が落ちたから広島は戦争だった。という感じだと思う。けどそれってよくわからない。ああ、あれである。太宰治の「もの思う葦」は僕にしては珍しく戦争の悲惨さを感じたかもしれない。そこには、戦争に出兵している作家志望の若者に対する太宰のあれやこれやの思いが書かれていて、文章書きたい人間が戦場に送り込まれるなんて大変だな苦しいだろうなと思った。

まあ、そろそろ終わらないとと思っているんだけど、やっぱ結局、僕には、戦争はよくわからない、ってことになる。

一方で、部分的にでも戦争を体験した人間には強烈な印象があるんだろうなと思う。で、戦争という現象はとても広範囲に及ぶので、どこでどう戦争を体験したかで異なると思う。で、広島で生きていると原爆だけが戦争みたいな感じの言説に触れがちで息苦しい。というのが僕だったりする。そこで真面目に、世界中の戦争について調べて発表するとかいうのはなんか相手の軍門に降っている気がしてやなんだ。というのも、僕が、戦争についてあれこれ調べて反しても、「では、もちろん戦争の被害の一つである原爆も酷い話ですね」と相手が述べたい話に自分の言動を引き込まれる気がするんだ。別に、僕は死んじゃった比治山の女学生には興味が湧くし、太宰治に手紙を出した出兵した作家志望の若者には多少興味が湧くけれども、別に、原爆投下後の広島がどんなだったかとか別に興味がないんだ。

あと、死んじゃった比治山の女学生などに興味が湧くのも、もしも彼女らが死なずに何かのきっかけで知り合うことができたら友達になれたかもしれない、みたいな興味でしかない。さっきかいた鹿や鳥と仲良く慣れたらいいな、みたいなのと同じだ。

平和なんて大切だと思わないよって言いたい。けど本当はどうなんだろうかよくわからない。

あと、平和を大切だって思うってかなり高度な心の働きな気がする。人間の行いは嫌いつつ人間は嫌わないみたいなそういう話じゃないですか。僕は人間は嫌いだから、そういうの難しい。

あと、やっぱり、なんで平和の大切さを実感することを奨励しなくちゃいけないのかはよくわからないよ。別に平和の大切さを実感することは一種の娯楽にはなると思うけれど、それはそういう趣味の人がいるってだけのことに過ぎない。なんで平和の大切さをテーマにするのかがわからない。
誰かがそれを知りたがっているんだろうか。例えば図書館の司書さんたちのうち誰かがそれを知りたがっているのだろうか。

子供の時中学校に行っていなくて平日家に閉じこもっていて平日でも図書館に行けたらいいなと思っていてけどなんか恥ずかしいので行きたくないなと思っていた。僕としては、平和の大切さなんかより、平日でも子供が図書館に通いやすくなるような場所づくりとかしてほしい。正直、図書館には居場所がない人がよくくるわけだし、居場所がない人がうろうろする場所になったらいいと思う。と書きつつそうなると、まあ、おじさんとかで「ここ場所の主人は俺だ」みたいな態度取る人がたまに出てくるんだよなあとか思ったりした。ローカルルールを無限に生み出す系のおじさんである(たぶん大学の教授会とかでもちょくちょくいるんだろうなと思った)。

で、ローカルルールを生み出すパワーのない僕はこうして自分のことを書くのである。弱虫なのかもしれない。

気がついたら22時になってる。

だからまあ、平和を感じる系の話もしょせんローカルルールを作り出す系おじさんと同類に見える。でも所詮僕の気持ちは、誰かにちやほやされたいとかそういうものでしかない。

ちやほやされたいというのは、たぶん、よくわからない

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