己の名、己の往く道
五色ひいらぎ
名を継がんと欲す、かつての店員
最近様子がおかしいですよ。そう声をかけると、宮廷料理長ラウルはこれ見よがしの溜息をつきながら、こちらを振り返りました。
「あんたにゃ関係ねーよ」
「大いに関係あります。心身の状態を整えるのも、あなたのお仕事のうちですからね。人を健康にする料理を作るなら、自身も健康でなければなりません」
言えばラウルは黙り込みました。普段ならなにごとかを言い返してくるのに、やはり今の彼には何かがあるようです。
ややあって、ラウルは声を潜めて囁き始めました。
「……誰にも
彼曰く。
市井で彼が経営していた料理店を、継ぎたいという者が現れた……そうです。
名はロレンツォ。もともと店にいた料理人で、下働きたちを束ねつつ会計の責任者もやっていた、とのことでした。
「店についてた顧客たちが惜しい、と言ってきてる。あいつは経営の感覚もあったからな。できるなら既存の客たちを
「事情は分かりました。で、肝心のあなたはどう思っているのですか」
訊ねれば、ラウルはわずかに目を伏せました。
「……わかんねえ。店、潰したままにしとくのは惜しいと思ってる。だが俺が育てた店の名を、あいつに譲るのが正解なのかどうか、わからねえ」
緩慢に、ラウルは首を振ります。
彼が民間から宮廷料理長に取り立てられた時、彼の店は解散しました。解散させられました。大勢いた店員たちも散り散りになりました。多くの者たちは、愛着ある店から引き
「俺の名を継ぎたくて、必死に修行したとあいつは言ってる。確かに、腕も相当上げたみたいだ。無下に突き
そこまで言って、不意にラウルは顔を上げました。茶色の双眸が、私をじっと見つめてきます。
「――なあ、判定してくれねえか? 『神の舌』様よ。ロレンツォに、俺の名の一部を任せても大丈夫かどうか」
「私は国王付きの毒見人ですよ。民間の商売に関わる理由はありません」
「ふさわしくない人間が俺の名を汚したら、王宮の名誉にもかかわると思わねえか?」
「思いませんよ。勝手に他人を巻き込まないでください」
「それとな、この件が片付けば、俺の憂いも綺麗さっぱり消えるはずだ……ま、そこは気にならねえよな? なんだかんだで、いつも天才料理人様から目を
……そこまで目をかけているつもりは、なかったのですが。
「そこまで言うなら仕方ありませんね。ですがあくまで、私は食味の判定を行うだけ。最終判断を行うのは、ラウル、あなたですからね」
ひとにらみすれば、わかってる――と言いたげに、ラウルは目を細めました。
◆
市井の店を借りた厨房で、私はロレンツォ殿に「試験」のための食材を渡しました。
課題は、
ラウルと私が見守る中、ロレンツォは調理を始めました。
枝から外して小口切りにした芽を、まずは塩茹でに。鍋をちらちら見守りながら、傍らでボウルで卵とチーズを合わせていきます。これは、
茹で上がった芽が、フライパンに投入されます。バターの香ばしい匂いが立ち籠める中、派手な音を立てて卵液も注ぎ入れられました。
弱火でじっくりと焼き上がっていくオムレツを、ラウルは何度も頷きながら見つめています。
言葉
やがて、見事な黄金色のオムレツが火から下ろされました。黄金を戴いた白磁の皿の脇に、ロレンツォ殿はホップの小枝を添えました。あえて一本だけ、芽を切り
「……どうぞ」
ロレンツォ殿に促され、私は焼きたての
……食味は非常に高水準です。ちょうどよい焼き加減の卵に、鮮度高い新芽の歯ごたえが絶妙なアクセントを加えています。バターの香気も、塩胡椒の加減も申し分ない。
「どうだ、レナート」
ラウルの問いに、私は率直な感想を返します。
「非常に高い完成度です。焼き加減も風味も、卵・
「で、では!」
ロレンツォ殿の顔が、ぱっと華やぎました。
「俺は、ラウル店長に追いついたんですね。店長に負けない料理人に、なれたんですね!?」
喜色満面のロレンツォ殿に、私はあえて何も言いませんでした。
傍らで座っていたラウルが、ゆっくりと立ち上がりました。
「よくぞ、ここまで腕を上げたな。『神の舌』殿がここまで称えるとはな……相当努力したんだろ」
「はい。店長に負けない料理人になるべく、ずっと――」
目を潤ませるロレンツォ殿に、ラウルは静かに、しかしきっぱりと、言い放ちました。
「ロレンツォ。悪いが、おまえに店を継がせるわけにはいかねえ」
喜色に満ちていた顔が、見る間に凍りつきました。
「な、なぜです店長! 料理は申し分ないと、たしかにこちらの毒見役様は――」
「ああ、確かに料理は申し分ねえんだろう。だが」
ラウルは、ゆっくりと首を横に振りました。
「おまえが、『俺』に追いつこうとしている限り。永遠に俺は超えられねえ……鼻の差が、永遠に詰まることはねえんだ」
「そんなことはありません! いつか――」
ロレンツォ殿の言葉を遮り、ラウルは決然と言い放ちました。
「おまえが見てるのは、昔の俺だ。……俺はもう、ずっと先に行ってるんだよ」
ちらりと私に目配せをし、ラウルはにいっと笑いました。
ああ、確かにそうかもしれません。あの頃のあなたは、市井で比肩する相手もなく、ただいたずらに技量を浪費していた。だから私は、あなたをより高いところへと連れて行こうとした。
あなたにとって、過去のあなたは、すでに過去のものでしかないのですね。
「見
「見離しちゃいねえよ、ロレンツォ。おまえはおまえの道を行けばいい。俺の名は、背負わせてやれねえってだけでな」
ラウルが、優しくロレンツォの肩を叩きます。
「それだけの腕があるんだ。どこでだって、おまえはやっていけるだろうよ。……おまえはおまえの料理で、皆を幸せにしてやってくれ」
そうかもしれません、ね。料理人は、料理で幸せを運ぶのが仕事。
王侯や将兵のような、偉業
――そして、国王に笑顔をもたらす仕事は、他の誰にもできない大業。
「戻りましょうか、ラウル。あなたは、あなたの帰るべき場所へ」
促せば、ラウルは憑き物が落ちたような顔で笑ってくれました。
ロレンツォ殿も、いまだ涙の乾かぬ顔で、ぎこちなく微笑んでいました。
さあ、帰りましょうラウル。王宮へ――あなたという珠を、磨き抜くための場へと。
唯一無二の料理人が、果てなき高みへ至るための舞台へと。
【了】
己の名、己の往く道 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki
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