はなさないで
λμ
はなさないで
私は目覚めると同時にため息をついた。
「またか……」
そう呟かずにはいられなかった。窓の外、カーテンの向こうはまだ暗い。
頭から水を被ったような寝汗で羽毛布団が重苦しい。
そして、全身の筋肉が硬く強張り、動かす度に軋むようだった。
最近、私は奇妙な夢を見る。
正確には、夢のようなものだ。
眠っているとき、ふいに声が聞こえて、目を覚ますのである。
はなさないで
声は必ずそういって、私は寝汗と筋肉痛に苦しみながら目を覚ます。
それが毎晩つづくようなら病院も考える。
だが、忘れた頃に同じ夢を見るのだ。
まるで、忘れるなと言いうかのように。
そうやって起こされてしまうと目が冴えて眠れなくなる。いつもそうだ。
私はぐっしょりと濡れた布団を剥いで、スマートフォンを手に取った。
冷めたい寝間着を着替え、水を飲む。一杯、二杯、三杯――まだ足りない。
こんなこと誰に相談すればいいのだろう。
家族、友人、同僚……誰に言っても心配されるだけに決まっている。
はなさないで
とは、いったいどういう意味なのだろう。
私は手にしたスマートフォンに打ち込んだ。
話さないで
離さないで
放さないで
ハナ差ないで
予測変換が提示した候補の最後の一つに、私は思わず吹き出した。
くだらない。そんな文章、いつ使うというのだ。
では、アナグラムだろうか。
HANASANAIDE
デイナサナハ
DAY NASA NAHA
ナイハデサナ
ナナイハデサ
ナナイサデハ
イサナデハナ
分からない。まったく予想もつかない。
諦めて寝ようかと思ったとき、私はある人物を思い出し、カクヨムを開いていた。
その人物とは、ギリシャ文字を二つ繋げた奇妙な名前のアマチュア創作者である。
下らない言葉遊びをからめた、しょうもない小説を量産している作家だ。
私は、ラムダと呼んでいた。
ラムダはいつも深夜に活動し、しょうもないホラーを大量に書いている。
他のユーザーとの交流が少ないからだろう。
声をかけると五分とかからず返事があるのだ。
カクヨムなら互いの素性は分からないし、言葉遊びを好み、ホラーを書く人。
相談相手にぴったりだと思ったのだ。
『ラムダさん、相談したいことがあるのですが』
私はラムダの近況ノートにメッセージを書いた。
しばらく待って更新をかける。
『なんでしょう?』
二分だ。二分で返事がきた。私は思わず苦笑した。
もう二時だぞ? 寝ろよ。
と思わざるを得なかった。
しかし同時に、ありがたくもあった。眠れない夜の話し相手にはいい。
『最近、変な夢を見て目が覚めるのですが、ラムダさんなら分かるかなと』
『夢ですか。フロイトやユングは専門外ですが、それでも良ければ』
アマ作家がなんの専門があるっていうんだよ、と私は笑いながら打ち込む。
『はなさないで、という声が聞こえて目が覚めるのです。
起きると寝汗と筋肉痛がひどくて。
定期的に見るので、気になるんですよね』
『はなさないで、ですか』
『アナグラムとかも考えたんですけど、よくわからなくて』
次の返信は、珍しく十分ちかい間隔があった。
『言葉遊びよりも、主語、意図、主体が気になりますね。
つまり、何をはなしてはいけないのか。
命令なのか、お願いなのか、指示なのか。
誰がいったのか。
これらはわかりますか?』
なるほど、と私は不覚にも頷いていた。
つい言葉遊びに気を取られたが、考えてみればそのほうが重要そうだ。
『ちょっと考えてみますから、寝ないで待っていて頂けます?』
そう書き込むと、すでに新しい返信がきていた。
『まずそうなのは、(他人に)話さないで、とかですかね。
誰の声なのかにもよりますが、あまりいい兆候ではありません。
夢だとすると、秘密を抱えていること自体を忘れている場合があります。』
『というと?』
私は思わず書き込んでいた。すると、
『離さないで、もまずいです。
こちらは誰の声かが重要です。
単に(手を)離さないでの場合でも悪意があるかもしれません。』
『悪意?』
『イザナミとイザナギみたいな話ですね。
カリギュラ効果といって、やるなと言われるとやりたくなります。
イザナミは決して見るなと言うのですが、イザナギは姿を見てしまう。
イザナミは醜い姿になっていて、イザナギは恐怖から逃げ出します。
そしてイザナミはイザナギに呪いをかけるんです。
じゃあ、振り返らなかったらどうだったのか、ということですね。』
ラムダは、こいうところがある。
回りくどい言い方をして煙に巻こうとするのだ。
私は苛立ちを押さえてさらに尋ねた。
『もう少し具体的にお願いします。』
『声の主体が、たとえば幽霊だったとしたら、と考えてください。
(幽霊が)(私の手を)離さないで、と言っているんです。
離すべきでしょうか、離さないほうがいいのでしょうか。
声は、もしかしたら醜い姿のイザナミで、離してはいけないのかもしれません。
つまり恐怖に耐えろという試練ですね』
『その場合は手を離してはいけない?』
『筋肉痛はどこで起きています?
腕とか、胴体とか、首だったりとか。
他にも痛むところがあれば特定できるかもしれませんよ』
そういうアプローチもあるのか、と私は全身を触った。
体中が痛むのはもちろんだが、特に手が、指先が痛む気がした。
それに喉だ。
『指先と喉ですね。寝汗と乾燥のせいかもしれませんけど。
あといびきをかいてるとか』
書き込んでから、そうかと思った。
『声は私が出しているのかもしれません。
実際に声を出していて、それで目が覚めるから喉が痛い』
時間差があったからだろう、ラムダからの返信はすでにきていた。
しかし、
『こういうのはどうです?
親しい誰かが井戸にぶら下げられていて、その紐をあなたが持っている。
離さないで、は親しい人が言っているんです。
あなたは叫びながら必死に縄を掴んでいる。
でも、離してしまって、飛び起きる。』
なんて嫌なことを想像させるんだと私は思った。
まあホラーばかり書いている奴の思考なんてそんなものなのだろうが。
『やめてくださいよ』
と私は書いた。
返信はすぐにあった。
『すいません。脅かすつもりはなかったんですが。
ただまあ、私に相談したのは失敗でしたね。』
急に背筋が冷たくなった気がした。
『夢というのはイメージですから、想像すればするほど具体的になります。
今まで声だけですんでいたのが次は映像つきになると思いますよ。
それから、人間は嫌なことほど強く覚えるものなので、もっと頻繁になります。
はなさないでは、話さないでと離さないでのダブルミーニングだったのかも。』
ダブルミーニング。二重の意味。
離さないでという声を、誰かに話さないで、ということか。
ラムダの返信がもう一つついた。
『まあ口に出して話したのではなく、書き込んだだけですから大丈夫ですよ』
安心させようというのだろう。そのくらいの意図は私にも分かった。
もう、三時になろうとしていた。
さすがに布団も少しは乾いただろう。寝汗や冷や汗は乾きやすいものだ。
あまり役には立たなかったが、深夜に付き合ってくれたことには礼を言おう。
『ありがとうございました。
すこし安心したので、寝ようと思います』
そう書き込むと、先にラムダの返答がきていた。
『ダメでも後の祭りですし』
この野郎、と私は思った。
そうだった。こいつは、たまにこういう、嫌なことを言うやつなのだ。
『もしよろしければ、相談についてのコメントは消しておいて頂けますか?
忘れてしまいたいので。』
私はそう返信をつけ、ベッドに戻った。
まだ湿っていたが寝られないことはなさそうだった。
しかし、後の祭りというラムダの返信が脳内を巡って寝付けなかった。
私はため息交じりに、またスマートフォンの画面を覗いた。
『わかりました。ただ、私も身の安全のために、新しくノートを書かせください。』
身の安全? 私は疑問を抱き、つい、書き込んでいた。
『どういうことですか?』
『これ伝染性の奴かもしれないと思って。
いま、私も寝落ちしかけたんですが、声が聞こえて無理やり起きたんです。
誰の声かは分かりませんが、話せば大丈夫になるのか試したいんです。』
『なるほど』
ざまあみろ、と思いながら私は書き込んだ。
『それで』
とラムダの話は続いた。
『明日の十七時ごろ、小説に書くので、あなたは見ないようにしてください』
『小説をですか?』
『はい。再感染する可能性もありますし、話してもダメかも分かりませんので』
『了解しました』
『実験ですから、厳密にお願いします。
明日の十七時頃、はなさないで、というタイトルの小説とノートを書きます。
絶対に見ないようにしてくださいね』
ラムダが書いた。
はなさないで λμ @ramdomyu
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