昏い坂道の途中で

ほにょり

昏い坂道の途中で

「はなさないで」


ふと我に返った感覚がした直後に耳に飛び込んできたのは、女の声だった。


目が覚めた、気がついた、意識を取り戻した_覚醒を指す言葉は様々だが今の俺に一番合うのは「我に返った」だろう。


それまでをどの様にしていたのかまるで思い出せないが、俺の右手は目の前の人物の帯を握っていた。

幼い子どもが親と逸れない為にするそれのように、自分よりも背の低い女性の帯を握りしめ山道を歩く、そこで俺は"我に返った"のだ。


「なぁ、あんた_「はなさないで」


遮って女が言う、白装束に身を包み顔を俯かせた女はそれだけ言うと歩みを進める。

じゃり、じゃり_灯りも風も音もなく、山の木の香りも虫の声も聞こえない、夜に程近いが辛うじて明るい、宵闇前の黄昏の山道を往く。


「ここって_「はなさないで」


女に言葉を食われ押し黙る。

帯を握る自分の手を見れば自分の服装も白装束だと気づく。

俺は何のために何故ここに?突然だが当然の疑問を思い浮かべた時だ_じゃり、じゃり、じゃり、じゃり。

足音が増えている、背後に気配を感じる。


「なぁ!後ろから「はなさないで…!」


打って変わって今までより強い口調で女が言う。

母親が我が子を窘めるような声量は小さいが強く低い、そんな言い方だ。

そうは言われても足音は確実に増えている、俺の背後にぴたりと着いて追い抜きもせずに、並んだ複数の足音がする。

次の瞬間に首元がぞわりとした、耳や首に息を吹きかけられたのだ。

恐らくだが間違いなく、俺の背後の連中だろう、その吐息は腐葉土に魚の臓物を混ぜたような酷く不快な匂いだった。


「~っ!「はなさないで!」


声にならない悲鳴を上げると女が叫ぶ、直後に女は駆け出した。

「なあ!「はなさないで!!」


走る速度に負けずに背後の何かも追いかけてくる、追い抜きもせず、ぴたりと背中に張り付くように、不快な息を撒き散らしながらただ着いてくる。

足元に生温かい風が纏わりつく、直後に足を掴まれるような感覚がして足が縺れて転びそうになる、女ごと引き倒しそうになり手の力が緩む


「はなさないで!」


それを感じ取ったように今までで一番強く女が叫ぶ。

押し寄せる重圧と苦悩、訳の分からない状況、取り戻せない記憶、何の説明もない女、いい加減に苛苛が積もり気が狂いそうだった。


「おい!いい加減にしろ!」

「はなさないで!!」


女に言葉を遮られるのも構わず叫ぶ。

女の帯を強く引き、歩みを止めさせようとするが女も必死に前に進もうとする。

そもそもお前は誰なんだと言う話だし、そもそも女に引き攣られなくても男足の俺の方が走れば速い。

追い立ててくる何某にしても何者か分からずに一本道を逃げるのが得策とは思えない、大きいのか小さいのか、沢山なのか一人なのか、事によっては殴り倒してしまっても良いのだ。

再度女の帯を強く引く、女は立ち止まらない、後ろの奴らとの距離は縮まりはしないが広がりもしない、俺は意を決して帯から手を離し女の前へ駆け出した。


「はなさないで!!」


指が離れるその瞬間、女は叫ぶが知ったことか。

女の前に周り肩を掴む。


「いい加減にしろ!ここはどこだ!お前は誰だ!何で、何しに俺はここにいる!?」


女に顔を上げさせる、驚いたような、怯えたような顔をした女の顔を俺は知っている。


「お前…」

「あんた…」


女は俺の妻だった。

妻の着ていた着物を、その白装束を見る。

襟が左前、死人に着せる白装束だ。

そうだ、俺は…俺たちは……


「だから、あれだけ言ったのに…」


妻の顔が悲しみに歪む…流れ落ちた涙は水滴ではなく蛆虫だった。

驚いて手を離すと妻の目から、口から、鼻から、穴という穴から蛆虫が湧き出していた。


「うわぁっ!」


間抜けな声を上げ、尻もちを着く。

妻の背後から無数の灰色の腕が伸びてくる、死人のように血の気のない、青白く灰色な無数の腕に捕まれる。

一本道に見えたその道は緩い坂道で、俺は全てを思い出す。

長屋の大火事に巻き込まれ、俺たち夫婦は焼け死んだ。

呑み助で乱暴者で怠け者の俺は地獄行き、良くできた妻は極楽行き。

まぁそんなものだろう、あっちこっちにはなるがお互いよろしくやろうと妻に告げ、地獄に向かう砂利道に歩みを進めようとしたそのときだ。

神だか仏だか閻魔だかの足元に妻は泣きついた。


「この人はあたしが居ないと駄目なんです、あたしにはこの人しか居ないんです、どうか、どうか。」


そうしてその神だか仏だか閻魔だかに仰せつかったのは、「この道を振り返らず進め、お前たちの思いもよらない苦難に合うが、進み切ったらそこは極楽浄土だ。」とのことだ。


林の切れ目の標が見える、お地蔵さんか道祖神か縦長の大きな石が置かれていた。

あぁ、あと少し、あと少しだったんだなぁ。

無数の手に手に捕まって、来た道を引き摺り戻される。

顔を覆い、さめざめ泣く妻の声がする。


「話さないでって、離さないでって、だからあれだけ言ったのに_」


思いもよらぬ苦難ってやつが、頭が呆けてしまうことだなんて、俺に気づく訳が無い。

しようが無い、しようが無いのだ、どうにもこうにも、何もかも。

元は地獄行きだった身だ、負けて元々、元鞘なのだ。


「あっちこっちにはなるが、お互いよろしくやろうや。」


口端に諦観の笑みを浮かべ、来た道を戻るように引き摺られながら、座り込んで泣く妻の背中に声をかける。

俺が放ったその声に、小さく肩を震わせた妻がこちらを向く。


「よせ!やめろ!あと少しだ!走れ!」


無数の手が妻に伸びる。

足を、腕を、襟首を、引っ掴んで引き摺る。


「何やってやがる!このろくでなしに合わせて地獄まで着いてくる気か!台無しだぞ!」


引き摺られたあいつが地面にこれ以上擦れないように、どうにか手を取って自分の元へと引き寄せる。

引き寄せて胸元に収まった妻が顔を上げる、蛆虫の集っていた顔はいつの間にか元通りで、妻は泣きながら笑っていた。


「だってしようが無いじゃない。あんたはあたしが居ないと駄目なんだし、あたしにはあんたしか居ないんだから。だから、どうか、どうか_」


瞳に溜めた涙を千切り、目を細め口角を上げて微笑む、僅かに微笑み悟りの境地を得たようなその顔は、いつか見た如来のような観音様のような…とにかくいい女の笑顔だった。


地獄に仏も悪く無い、俺には、こいつしか居ないのだから。


「どうか、離さないで。」


そう言う妻を強く抱き締める。


七難八苦の地獄の中で、せめて離れないよう、離されないよう。


夕暮れ過ぎて闇の中、腕に摺られて、地獄行き_

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昏い坂道の途中で ほにょり @honyori

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