限界集落
壱ノ瀬和実
限界集落
限界集落に建つ一軒の住宅に、町役場の職員である
朽ちていく家屋に住み続けるのは危険だと再三の注意喚起を行ってきたが、住人の山田達男は頑として譲らなかった。
役所の仕事として適当かはともかく、真壁は転居や建て替えを何度も提案しているのだが、山田は終の棲家を離れる気はないとそれら一切を突っぱねる。
今日は二軒ほど家を回ってから、真壁は山田宅を訪れた。
チャイムすらない木製の引き戸を、拳を握ってノックする。木枠にはめられたガラスから、ガシャンガシャン、と危なっかしい音が響いた。
「山田さーん。役場の真壁です。ごめんください!」
返事はなかった。いつものことでもあった。
過疎化の進む町、役場の人手は常に足りない。町民の安否確認の為に車で二十分掛けて山間の集落まで訪れ、こうして一軒一軒回るのはかなりの労力で、何より相当な手間である。それを一人で行うことも精神的には負担になっていた。
特に独り身の老人には神経をすり減らす。山田達男がまさにそうで、ぴんぴんしてはいるものの、八十を過ぎた高齢であること、心臓に病を抱えていることも相まって、いつ何が起こってもおかしくないとの懸念は拭えない。だからこそ、雨風をしのぐことしかできないようなところに住み続けるのは勘弁して欲しいのだ。こんな日々が続くくらいなら、空き家にしてくれて構わないから、役場近くのアパートにでも引っ越して欲しかった。
「山田さん。真壁です。山田さん」
役場の人間が来たとみるや居留守を使うのはいつもの手だ。
……にしても、今回はやけに静かだ。気配というものが感じられない。普段なら物音の一つくらいは立てて、今日も居留守を使っているなと思うまでが玄関前のルーティーンのようなものなのに。
「山田さん! 山田さん!?」真壁は大声で叫んだ。
返事はない。いつものことだが、いつもと違う。
ここは限界集落だ。隣家でさえ数十メートルは離れている。声を上げても誰も来ない。閑寂な山間に真壁の声だけがこだまする。集落の誰かには聞こえているだろうが、ここまで来るには時間が掛かるだろう。
誰かに届いてくれと、助けを求めるように叫ぶ。
――自分がやるしかなかった。
「山田さん、開けますよ!?」
力込めて引き戸を開けようとするが、鍵がかかっている。普段はかかっていないが、今日ばかりは、ちゃんとかかっている。
真壁は戸から二歩ほど下がった。
「蹴破りますからね!?」と精一杯の大声を出し、やはり返事がないことを確認して、ボロ家の玄関を思いっきり蹴った。
戸が砕けるかと思ったが、そうはならなかった。
立て付けの悪い戸が枠を外れ、バタンと家の中に倒れた。はめ込まれたガラスが音を立てて割れる。
転ばないよう気をつけながら、真壁は急いで部屋の中に入った。
「山田さーん! 山田さーん!」
必要以上に声を張り上げる。
居間に、一つの塊があった。何度も来ているから分かる。本来そこにはないものだ。
真壁が近付いて覗き見ると、それは紛れもなく、山田達男その人だった。
「山田さん!? 大丈夫ですか!?」
反応はない。
身体は冷たく、揺すっても動かない。人にあるはずの柔らかさが肉体から感じられない。
真壁は確信した。
山田達男は、死んでいる。
「どうされましたか!?」
男の声が響いた。同時に、上下ジャージ姿の男が部屋に飛び込んで来る。
真壁は彼を知っていた。名前は橋本和也。近くの家に住む橋本家の長男で、街で医者をやっている若者だ。たまたまこちらに帰省しており、真壁はここに来る前、橋本家で挨拶を交わしていた。真壁の声を聞いて駆けつけたのだろう。橋本は息を切らしていた。
「ノックをしても山田さんから返事がないので戸を蹴って家に入ったら、山田さんが倒れていたんです」
「私が診ます」真壁を押しのけるようにして橋本が膝を突いた。
橋本は医者だ。真壁よりももっと確かな方法で、それを確認することができる。
「……亡くなられていますね。おそらく数時間前には」
「数時間前!?」
「専門ではないので詳しくは分かりませんが、硬直が始まって時間が経っています。外傷はない。となると……」
部屋は散らかっている。普段からそうだった。カップ麺やインスタント食品の袋がそこら中に落ちているのだ。だから、乱雑な様子に違和感はない。
だが、今回はいつもと違うところが一つある。
「橋本さん、その机の上にあるのって、薬ですか」
橋本は慌てて、山田の遺体近くにある、背の低い机に目を向けた。
そこには、幾つかの袋があった。病院で処方されたと思われる薬袋だ。それと、水の入ったコップ。
橋本は薬袋を手にして、書かれた文字をじっくり読んでいく。
「高血圧、不整脈、高脂血症の薬のようです。飲んだ形跡がありますね。亡くなる直前、苦しみながらも必死の思いで薬を飲んだのでしょう。薬袋がぐちゃぐちゃです。焦っていたのが分かる」
「薬を飲み忘れないよう私も来る度に言っていましたが、飲み忘れていたのでしょうか」
「確か、山田さんは心臓に病を抱えておられた。もし薬を飲んでいなければ症状が悪化することは目に見えています。ですが、薬は万能ではありません。飲んでいても、悪化しないとは言い切れないんです。それに山田さんは、処方された量はちゃんと飲んでおられたように思います。薬が残っていない。山田さんの性格からは考えられませんが、今日の朝の分まで処方された薬が、きっちり全てなくなっています」
「そうでしたか……」
真壁は思い出したように言う。
「そういえば、最近調子が悪いんだとは言ってました。病院に行くべきだと言ったのですが、薬が切れるまでは行きたくない、と。もしかすると、今日、病院に行くつもりだったのかもしれません」
「そうですか。余裕をもって来院してくださいと言っても、そういう方は多いですからね……」
横たわる、山田達男の遺体。
そこに命が転がっている現実。
過疎化した集落の、今にも崩れそうな家屋の居間。
あまりに惨たらしい死に様だと、真壁は思った。
橋本は手を合わせ、立ち上がる。
「我々にできることはありません。警察と、救急にも連絡をして、指示を仰ぎましょう」
橋本は、現場をこれ以上荒らさないように、と言って立ち上がり、部屋を出ようとする。
「あ、橋本さん。足下気をつけてください。さっき戸を蹴倒したときにガラスが割れたようです。出るなら裏口があるので、そこから」
「お気遣いどうも……。にしても、まさか山田さんがこんな形で亡くなられるなんて」
「ええ。こうならないように何度か説得はしていたのですが……無念です」
そして、真壁は言った。
「昨日も一昨日も、まだ元気だったんですけどね――」
後日、山田達男の葬儀が営まれた。遺族によると、死因は心不全だったという。
真壁は亡骸に手を合わせながら、役場職員としての不甲斐なさ、そして己の無力さを痛感していた。最悪の結末を防ぐための最善手は他にあったはずだ。
数日後から、真壁は限界集落への見回りを再開した。
山田達男が住んでいた住宅はいよいよ廃墟そのものになったが、もうこの家に立ち寄ることはなくなった。彼に割いていた時間と神経が、あの一日を経て二度と戻らないものとなった。
町は滅びを待つのみだ。限界集落が消える日も近いだろう。しかしまだ生きている。生きている限り、真壁はこの集落を見捨てることなく歩き続ける。
今回のことは、そう、仕方のないことだった。
ささくれは放っておけば服に引っ掛かって皮膚を裂く。爪切りで根元から断つ他に、それを防ぐ手立てはない。
今回のことは、仕方のないことだったのだ。
山田達男には都会で暮らす一人息子がいる。
父の死について不審に思っているらしく、近々彼が依頼した探偵がこの件を調べに来るらしい。
――だが、さして問題はないだろう。
そう口にして、真壁は本日一軒目の家に向かった。
九十歳を迎えた大宮茂の住む家は、山田達男亡き今この集落では最も端にある家である。
彼もまた、この限界集落を離れる気はないらしい。
真壁の右手人差し指のささくれが、また痛み始める頃だった。
限界集落 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます